縁切り 三

 あれは、まだ、定男と暮らしている頃の事だった。

 夕方近く、母の英子から、電話がかかって来た。


「すぐに来て。睦子がおかしい」

「おかしいって、どう言うことよ」

「とにかく、すぐに ! 」

「大変って、具合でも悪いの。それなら、きゅっ」

「とにかく、すぐ来い ! 来ないんなら、どうなっても知らんからな。後で文句言うなよ!」


 どうやら、伯母の睦子に何かあったらしい。でも、それなら、先ずは救急車を呼ぶべきではないのか。それを、真理子にすぐ来いと言う。さらに、どうなっても知らないとは、どう言う事だろう。真理子は急ぎ自転車に乗った。

 ここのところずっと、英子は睦子の家で暮らしている。さすがの英子も寄る年波には勝てず、男から男へとは行かなったようだ。そこで、別に今に始まったことではないが、亡兄の妻、睦子の家に入り浸っていた。当然、1円たりとも出すどころか、小遣いもせびっていた。


「そんなの当然じゃないか。たんまり年金貰えるのも、死んだ兄さんのお陰じゃない。そんな兄さんに、二人も息子、托卵してさ。こう言うのを本当の性悪って言うんだよ」 


 それには、睦子の悲しい生い立ちが関係していた。そればかりか、長男が叔父の実子でなかったことから、次男までも疑いの目を向ければ、英子は兄を煽り、その兄亡き後の今、遺族年金をしている。何より、忘れてはならないのが、真理子を兄夫婦に預けっぱなしだったではないか。


「そんなの、睦子の罪に比べりゃ、大したことないわ。だから、年金の半分は、私にも権利がある」


 と、どこまでも身勝手な英子である。そんな英子が、睦子の事で電話をかけて来た。こんなことは初めてである。急ぎ、駆け付ければ、思わず声を上げる真理子だった。


「えっ、救急車は」

「呼んでないよ」

「どうして呼ばないのよ ! 」


 真理子が携帯を取り出し、電話をしようとするのを英子の手がそれを遮る。


「止めてよ」

「真理子!! 」

「何よ。今、それどころじゃないでしょ」

「それどころなんだよ! 先ずは私の話を聞け !」

「そんな話は後にして、早く、呼ばなきゃ」

「いいかい。よくお聞き。救急車、いや、病院に行ったら、こう言うんだよ。この病人は、母の高良たから英子ですと」

「何で。そんなの、おかしいじゃない」

「 おかしいとかじゃなくて、切実な問題。いいかい。私にゃ、年金がないんだよ」


 そうだった。英子はろくに年金を収めてなかった。よって、無年金である。


「今、睦子にこのまま死なれたら、私ゃ、これからどうすりゃいいんだ。そりゃ。お前がこれからの私の面倒を見てくれるんなら、いいけど。どうだい、わかったかい」


 つまり、睦子ではなく、英子が死んだことにすれば、今後も年金はそのまま振り込まれる。

 つまり、睦子と英子が入れ替わる…。


「それは…」

「嫌なら嫌でいいよ。そん時ゃ、お前んちで居座ってやるからさ。保険証もないんで、そん時ゃ、よろしく頼むよ」


 そうだった。英子は健康保険証もないのだった。歯医者に行く時は、睦子の保険証で別の医院に行く。


「そんなことになってもいいのかねえ」

「でも、そんなにうまくいくかしら」

「それを、お前がやるんだよ。お前がやらなきゃ、誰がやる。それに、早くしないと、睦子が死んじまうよ。人が家で死ぬと警察がやって来るんだよ」


 と、つい、先ほど止めた、真理子の携帯から、英子は119番をプッシュした。


「さあ、救急車が来る迄の間に、心を決めるんだね。いいね!!」


 そんなことをして、もし、バレたら…。

 だから、バレないようにやれ。

 さもなければ、母は本当に定男と暮らしている家に乗り込んでくるだろう。

 それでも…。


 真理子の逡巡をあざ笑うかのように、救急車はやって来た。その時、英子は隣の部屋に隠れていた。真理子は一緒に救急車に乗った。

 病院に到着すると、しばらくしてから、夜勤の若い医師が気だるそうにやって来た。そして、運び込まれた患者が年寄りと知ると途端に興味を無くし、真理子の言う事を疑いもせず、書類を作成した。

 こうして、は、この世から消えた。だが、これで終わった訳ではない。今夜は遺体は霊安室だが、明日は引き取らなくてはいけない。

 母の英子が亡くなったことにして、家に連れて帰れば、定男は嫌な顔をした。


「葬式はの家ですればいいものを、何で、俺の家でするんだ」


 真理子は黙って、母の死を悲しむ振りをした。そして、真紀と利恵だけの参列と言う、簡素な葬式は終わった。


----、ごめんなさい…。


 真理子は心の中で詫びた。真理子と睦子は養子縁組をしていた。真理子にとって、睦子も母であるのに、満足な葬式どころか、正式に葬ることも出来なかった。それが、悔やまれてならない。だが、何てことだ。そのことに、定男は気づいてしまった。終始、不機嫌な定男は棺の側に来ることもなかったので、このまま隠し通せると思っていたが、何かの弾みに見てしまったようだ。その後、しばらくは嫌味が続いた。

 だが、真理子はそんなことに構ってはいられない。母の英子をあのまま、あの家に住まわせることは出来ない。


「いいこと。決して、家から出ないでよ。夜もダメよ」

「わかってるって。それで、いつ、引っ越すんだい」

「今、探してるから」


 死んだのは、英子となっている。その英子に出歩かれては困るし、引っ越さなければ、周囲に気付かれてしまう。真理子は仕事を休んでアパート探しに奔走した。高齢女の一人暮らしでは貸し渋られるが、娘の真理子が割と近くに住んでいること、時々は様子を見に来ることなどから、やっと、古いアパートの一室を借りることが出来た。


「何だい、やっと、外に出られて、自由になれると思ったら、こんな小汚い部屋とはねぇ」

「それより、名前は。生年月日はっ。干支は」


 引っ越し先のアパートに着くなり、早速文句を言う英子だったが、真理子は語気鋭く言い放った。


「えっ、ああ、ああ。名前は高良、睦子。生年月日は…」

「あれほど言ったのに、まだ、スムーズに答えられないの。そんなことでどうするの。バレたら、それこそ一巻の終わりよっ」

「わかったよ。ちゃんとやるからさ」


 と、ニヤニヤしている。真理子に早く帰ってほしいのだ。英子は、夜が待ち遠しい。夜になったら、きれいにして出かける。早く、その支度に取り掛かりたいのだ。


「それと、いいこと。夜な夜な遊び歩かないっ。そんなことしてたら、これまた、すぐにバレてしまうからっ」

----うっ…。

「はっ、どうやら図星だったようね。そんなことだ思った。それに、化粧はしないこと。伯母さんは化粧なんてしてなかったでしょ」


 と、鏡台の上の基礎化粧品以外を袋に入れる真理子だった。


「止めて!!化粧しないと外が歩けないじゃないの」


 言われてみれば、そうかもしれない。若い頃から、酔いつぶれて、濃い化粧のまま寝てしまうことがあった。


「ああ、化粧のノリが悪いぃぃ」


 とか、よく言っていた。そのせいか、今は顔にもある。仕方ないので、ファンデーションは残した。とは言っても、いくら取り上げてみたとて、メイク用品は百均で買うだろう。それでも、ここで厳しく言って置かなければ、すぐに好き勝手やるに決まっている。


「そうだ。銀行カード、早く渡しとくれ」

「ダメよ。金は決まった額しか渡さないから」

「何だってえ! それ、私の金じゃないか」

「持たせておいたら、全部使うでしょ。じゃ、これ、今週分」

「今週分たって、これっぽっちじゃ、暮らしていけないよ」

「それだけあったら、十分よ」

「なにぃ! この泥棒猫 !」

「ええ、何とでも言って。じゃ、帰るから」

----まあ、よくも、自分の娘を泥棒猫だなんて…。


 家事も出来ない英子の為に、宅配食の手配もした。そして、英子に手渡したのは一週間分の小遣い。1か月分も渡せば、すぐに使ってしまう。それに、どうせ、掃除もロクにしないだろうから、週に一度は様子を見に行かなければならない。だから、これで、いいのだ。


 だが、数か月後、英子は転んで足の小指を骨折してしまう。

 












 













  


 









 




















 























 



 

 

 


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