第六章 ふたたび 真理子
縁切り 一
「うまいこと、やったわね」
直美がやって来た。
あれからも、直美との腐れ縁は続いているが、ここのところはなぜか疎遠気味だった。
娘の真紀が、夫・祐介の子でない事実に突き当たった真理子は、真紀と共に夫の許から逃げ出した。頼った先は娘時代の職場の先輩、直美だった。
直美の嫁ぎ先は、自動車の部品工場を経営していた。そこの独身寮の賄い婦として雇って貰えた。
思えば、直美にそそのかされ、一夜の過ちで生まれたのが真紀だった。それだけではない。その時、撮られた写真で、ずっと脅されていた。
真紀の中学卒業と同時にそこを辞め、それからは、真紀も働きながら定時制高校に通い、真理子もスーパーで働くと言う、母娘二人の暮らしは穏やかにスタートしたかに思えた。だが、三年生の時に真紀は妊娠した。そして、生まれたのが、利恵。
しばらくは三人で暮らしていたが、やはり、娘でも孫でも埋められない心の隙間がある。
その頃、知り合ったのが岩本定男だった。真理子より10歳年上のタクシー運転手。彼にも利恵と同い年の孫、美優がいた。
そんなことから、付き合うようになり結婚したのだが、定男は前夫の祐介とは違い、自分勝手な男だった。
やはり、こんな自分が暮らしに平穏を求めてはいけないのだと思った。そして、真紀がホテルオーナーの安藤耕平と結婚できそうだと思った時、真理子は定男と別居した。
直美もこの当たりまでは知っていると思うが、それにしても、この家のことまで誰に聞いたのだろう。
「すごい家じゃないの」
「直美さんの家だって」
「……」
珍しく直美が黙り込んだ。
「ねえ、2万円、貸してくれない」
2万円…。
直美が2万円程度の金を貸せとは、どう言う事だろう。
「まあ、もう、ぶっちゃけて言うわ。実はね。離婚したの」
「えっ…」
「色々、あってね」
ちょっと、遠くを見るような目をした直美だった。
「うん、バレちゃって。その、色々と」
バレたとは、遊び…。
どうやら、遊び歩いていたのが、あろうことか、息子に見つかってしまい、家を追い出されたようだ。
「それで、今はどこに」
夫と子供を裏切り続けて来たのだから、相応の報いを受けて当然である。だが、喜んでばかりはいられない。別の意味で真理子に粘着してこないとも限らない。そっちの方が心配である。
今は、知り合いの飲み屋のママのところで働いているとか。
「だから、ちょっと、貸してよ。あのママ、意外にケチでね。食費から宿泊費迄きっちり引くのよ。今まで、散々儲けさせてやったのに。マリはそんなことしないわよね。何てたって、私とマリの仲だものね」
「そう言われても、私もそんなに金持ってないし。実を言うと、この家、ホテルの方も最近は厳しいらしいのよ。だから、お手伝いさんを雇う代わりに、私がこうして家事をやってるような訳。これだけの家よ。掃除するだけでも大変なんだから」
「でも、私の方はもっと大変なのよ。だからぁ」
真理子は直美に金を借りたことはない。それどころか、自販機の飲料代、ファミレスでの食事代等、何度か払わされたことがある。直美はバックに手を掛けた。
「今更、そんなの。もう、どうでもいいわ」
「えっ…」
直美がパックから取り出そうとしたのは、今まで、真理子を脅して来た写真のネガであることくらい、容易に想像付く。だが、そんなもの、今の真理子にとっては、何の価値もない代物である。
「実はね。祐介に会ったの。それで、もう、すべて話したわ。だから、そんなネガ、もう、どうでもいいの。それとも、ネットに晒す?でも、こんなおばさんの若い頃の写真、誰が興味持つかしら」
「いつ、会ったの」
「まあ、わりと最近」
「本当に、全部話したの」
「話したわ。お陰で、気が軽くなったわ」
「祐介。何か言ってた?」
「何も」
「えっ、どうして、何も言わない訳ないでしょ」
「言わなかったわよ。そんなことより、そのネガ、2万円で買おうか。いくら、使い道が無くなったとは言え、そんなものが残っているのも嫌だし」
確かに、祐介が知ってしまった以上、ネガの効力はない。だが、真理子がネガを買い取る気を見せた時、直美は勢いを付けた。
「2万円ぽっちじゃ、売れないわ」
何と言っても、真理子にとっては、青春の汚点である。本当は、喉から手が出るほど、このネガが欲しい筈である。ならば、もっと吹っ掛けてやろう。
「それなら、いくら」
「まあ、10万と言いたいところだけど、8万でいいわ」
「ちょっと、失礼」
と、自分の部屋から、金を持って来た真理子だった。
「ネガを見せて」
直美のことだ。しっかり確認しなければ偽物を掴まされるかもしれない。ネガは本物だった。真理子は金を渡した。直美はその金を数えたが、何と、万札は10枚あった。直美は黙ってその金をバックにしまい込む。
「では、これで、もう終わりってことで」
「何が終わりよ」
「直美さんとの付き合いを終わりにしたいの」
「別に、そんなことしなくても。長い付き合いじゃないの」
「ええ、私にとっては、悪縁、腐れ縁でしかないもの」
「何よ、助けてやった恩も忘れて」
「その恩は返しました」
----十分すぎる程にね。
「はっあぁ。あれくらいでぇ」
「まあ、今後、私が恩を返せるとしたら、直美さんの元ご主人に返します。今は、これが限度です。そして、もう、連絡はしないで下さい。例え、されても受け付けませんから。どうぞ、お引き取り下さい」
「そうは行かないわよ。絶対、後悔させてやるから…」
そんな恨み言を言いながら、直美は帰って行った。それにしても、10万円の金で引き下がるとは、相当、金に困っているようだ。
こうなったら、着信拒否するより、いっそ、スマホの番号を変えようかと思った時、思いがけないところから電話がかかって来た。
数日後、真理子は定男と会う約束を取り付けた。約束のファミレスに行けば、定男は入り口近くの席にいた。真理子は一番奥の席へ変えさせた。
「へえ。何をそんなに、勿体付けて。そんな重要な話なんてあったかなあ。それで、何をいつ、どの様に?」
真理子は黙って、定男の前に封筒を差し出す。
「お前かあ ! こんなことしたのは ! 」
「声が大きい。人に聞こえてもいいの」
だから、奥の席にしたのだ。
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