第二十九節


 「この裏切り者が!!!」


 遠くで罵声が聞こえる。

 きっとわたしを口汚く罵っているのだろう。彼らに言わせてみればわたしは人類の仇敵に肩入れした重大な裏切り者らしいのだから。


 「貴様のその裏切りが人族にどれほどの損失をもたらしているのか分かっているのか!?この薄汚いコウモリめが!」


 響く怒声とともに勢いよく鞭が振り下ろされ、肩口に思いっきり打ちつけられる。だけど、わたしの身体が痛みを感じることはなかった。

 なにも感じない。どれだけ詰られようとも、どれだけ打ちのめされようとも、今のわたしはそれどころではなかった。

 わたしのせいでネレイスが…。

 そう思うと胸がギリギリとグシャグシャに押し潰されたかのように痛む。

 きっと彼女も今頃わたしと同じようにひどい拷問を受けているのかもしれない。いや、彼女は魔族だ。もしかしなくとも私以上に厳しい責め苦をを味わわされているに違いない。

 そう考るとわたしの心は際限なく引き裂かれる。その裂け目からはドバドバと懺悔が溢れ出る。後悔という名の血潮がそのままとまることなくこの身体から流れでる。


 「そんなゴミ屑な貴様にも人としての名誉を取り戻す機会を与えてやる。あの魔族がここに来た目的を言え!」

 「あの魔族が単身でこの聖都にやってきている筈がない!他にもこの聖都近辺に魔族どもが潜んでいるに決まっている!」

 「それはいけない!魔族は一匹でも危険な存在だ。だからこそ一人残らず根絶やしにしなければならないのだ!」

 「これは栄光ある我が国の未来を守る為。ひいては我々の愛すべき家族を守る為!貴様には聖戦への助力という栄誉を与えてやる!」


 なにか戯言が聞こえる気がする。だけど、わたしが無視し続けていると再び怒声と鉄の鞭が振るわれる。

 天井から吊り下げられた鎖で手首をを拘束され、脚にも鉄の鎖で繋がれている。その上この牢は封魔結界で魔法の力が散らされている(原理はよく分かっていない)。そんな風に徹底的に自由を奪われてる身の上では抵抗することもできないし、そもする気力すら湧いてこない。

 その上もう何時間も睡眠をとることすら許されていない。意識が途絶えそうになると冷水をかけられて、意識の覚醒を促されるのだ。

 そろそろ末端の感覚がなくなってきた。


 「おらっ!なにボーッとしてんだ!さっさと質問に答えろ!人間の屑が!」

 「じゃねーともっとひどい目に合わせんぞ!お前は聞かれたことを大人しく素直に答えときゃいいんだよ!」


 嗚呼、痛みは良い。

 痛みを与えられている間は何も考えないで済む。絶えない自己嫌悪から、終わらない自責の念から、何より弱い自分自身から逃げていられる。

 苦痛を与えられている可哀想な自分の運命を憐れんでいるだけで良いのだから楽なものだ。

 むしろしんどいのは何もされていない時、ふとした瞬間に苦々しい記憶がフラッシュバックする。

 ネレイスをこの苦境に追い込んだのは自分の不甲斐なさが原因だ。

 今でも思い出せる。不躾な男どもの手で取り押さえられるネレイスの姿が瞼の奥に焼き付いて離れない。

 嫌だ。

 見たくない。

 痛みに歪むネレイスの顔を、苦痛に喘ぐ声をもう思い出したくない。

 向き合うのが怖い。

 もうこれ以上自分を呪うのは嫌だ。

 自分の手で大切な人を汚してしまった事実から逃げ出したい。

 嗚呼、駄目だ。

 痛みにも随分と慣れてきてしまった。この程度の苦しみではわたしの心を塗りつぶすことは出来ない。

 どうせなら何も考えられないくらいの痛みが欲しい。

 わたしの心を塗りつぶすほどの痛みが。

 この辛い現実から逃げ出せるくらいの痛みが。



 思えばわたしは昔からそうだった。

 わたしは考えることが苦手だ。だからと言って思考を全て放棄して、目の前の苦痛から目を背けた結果わたしは魔族の虐殺に加担してしまった。

 その時わたしは自分の弱さを後悔し、強くなろうと努力してきた。

 たとえこの手が血に塗れようとも、大切なものを護れる強さを直向きに欲してきた。

 その結果がこれだ。

 今までわたしは何をしてきたのだろう?

 わたしは弱くなってしまったのだろうか?

 もしかしたらそうなのかもしれない。

 大切と思える人が出来た。

 そんな人を無謀な戦いの渦中に巻き込んだ。挙句に彼女を護ると息巻いておきながらいざとなると怯えて、竦んで、何も出来ないポンコツに成り果てたわたしは一体なんなんだ?

 本当にわたしは一体何がしたかったのだろう?

 頭の中では何万回もあの男を殺してきた。

 シュミレーションは脳が擦り切れるほどやった。

 だけど現実は残酷だ。わたしは何も出来なかった。

 あの男に植え付けられた恐怖が未だにわたしの心を縛り付けている。あの男が未だにわたしの中にこびりついて離れないのだ。

 その事実が悔しい。涙が出るほどに悔しい。


 「おい勇者」


 久しく聞いていなかった普通の呼びかけに思わず反応してしまう。罵声でも暴力でもない呼びかけは久しぶりだったから驚いてしまった。

 騎士の話は続く。


 「あの魔族の処刑が決まったぞ」


 ………………………………………………………は?

 こいつは何を言っている?


 「明日の正午には執行だ」


 嫌だ。

 理解したくない。

 認めたくない。


 「明日はこの世から悪がまた一つ消える記念すべき日となる。そんなめでたい日のことを貴様にも伝えてやらんとな。私の気遣いに感謝してくれてもいいのだぞ?」


 どれだけ首を振っても見たくもない現実は変わらない。どれだけ頭を床に打ちつけようとも非常な未来は避けようもなく、ただ終わりに向かうカウントダウンが刻々と過ぎていく。


 「クククッ…、そういえば貴様はあの魔族と懇意にしていたらしいなぁ?」


 下卑た笑みを浮かべた男のいやらしい声が牢の中に響く。

 さっきからハァハァと息遣いが荒いのは誰?やけに五月蝿く感じるこの息遣いは………まさかわたし?

 いけない、動揺するな。

 弱みを見せるな。それを見せてしまえば確実にその傷口を抉られる。


 「おかしいおかしいとはずぅーっと疑問に思っていたんだ。なぜ勇者ともあろうものが魔族に肩入れしているのかってなぁ」


 言うな。

 それ以上はなにも。


 「なぁ、もしかしてお前あの魔族に入れ込んでんのか?」


 息がうまく出来ない。

 他人に弱みを握られている時の気色の悪さ。自分が優位と確信した時の男の顔の下劣さ。

 息は出来ないのに喉元まで胃液が迫り上がってくる感じがする。口の中が酸っぱい。


 「ハハハハハハ!これはとんだお笑い草だ!あの堅物の勇者様がまさか怪物趣味だったとはな!」

 「貴様があれだけ魔族を狩っていたのはまさか貴様には死体性愛の気でもあったのか?」


 嬲られるのは慣れている。筈だった。

 わたしは本当に弱くなってしまったみたいだ。だって今はこんなにも涙が止まらない。


 「まぁいずれにせよ最早貴様にできる事なんてなにもない!愛しのゴミクズの首が飛ぶ瞬間を見せてやれないのは残念だが、せいぜい残り少ない時間で己の無力さを嘆いとくんだな」


 わたしはまた失うのか?

 なにも出来ずに同じ事を繰り返すのか?

 お母さんを失った時みたいに大切な人が死に行く様をただ呆然と眺めることしかできないと言うのか?

 イヤだ!それだけは絶対にイヤだ!

 ネレイスは、ネレイスだけは何があっても失いたくないんだ。

 だけど、聖剣もない、魔法も使えない今のわたしになにが出来るというのか?

 考えろ。わたしには何が出来る?

 考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。

 ネレイスを救える方法は何かないか。

 考えろ。

 ない頭を振り絞って考えろ。


 「じゃあな、くそ勇者。せいぜい無駄な足掻きでもしてみるといい」


 憎い。

 ネレイスを奪おうとする全てが憎い。

 わたしから彼女を奪おうとするのは一体誰だ?

 環境?思想?宗教?種族の差?わからない。わからないけどわたしからネレイスを奪うというなら容赦はしない。どこまでも追い詰めて生まれてきた事を後悔するほどの恐怖をその身に刻みつけてやる。

 憎い。

 無力な自分が憎い。

 自分にもっと力があればこんな鎖なんて引きちぎって今すぐ彼女の元に駆けつけられるのに。

 聖剣はわたしの拷問に使っていたからすぐ目の前に立て掛けてある。だけどもうわたしの内蔵プラーナも身体の回復に使い切ってしまって完全にガス欠で力が入らない。今の私にはこの鎖を引きちぎる余力なんてどこにもない。

 でも、そんなことは関係ない。

 この命を燃やしても良い。

 ネレイスを助ける方法があるならこの魂を悪魔に差し出しても良い。

 力が欲しい。

 ネレイスを待ち受ける苦難を全てを打ち砕くことができるだけの力が欲しい。

 そして降りかかる火の粉を全て払い除けて、大切な人を護ることが出来るだけの圧倒的な力が欲しい。



 どれだけ時間が経っただろう。

 怒り、憎しみ、悔しさだけが心の中に澱のように溜まっていく。

 言葉にならない感情がぐるぐると行き場もなく渦巻いている。

 そうしていると次第にわたしともう一つ別の思念が側にあるのを感じるようになってきた。それはすごく強い憎しみの波動。

 なんだろう?

 とてつもない怨嗟の声が頭の中に流れ込んでくる。その邪悪な声がわたしの心の中に入り込んできて、わたしに巣食っている憎しみと共鳴していくのを感じる。


 『殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ』


 分かってる。

 わたしの邪魔をする奴は皆殺しにしてやる。


 『殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ全て殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ全員殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ皆殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ』


 だからそんなに焦るなよ。

 すぐに血を吸わせてやるから。

 なんでお前からこんな声が聞こえるのかは分かんないけど、それでも今はお前に縋るしか思いつかない。

 だから力を貸して。聖剣。

 ネレイスを救うために。

 わたしはわたしの望みのため、わたしの邪魔をするものを『皆殺す』。


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アイリス戦記 Mel. @Mel_1ris

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