第二十八節
ジメジメとよどんだ空気が澱のように沈澱している。
身じろぎすると溜まった埃が宙を舞う。
先ほどから絶え間なく聞こえる水音は天井から染み出した水滴か、はたまた私の血が滴り落ちる音か。
ここは地下牢。
私がこの陽も差し込まない陰鬱な牢獄に収監されてからどれだけの時間が経ったのだろう。
ここで私は手足に枷を嵌められ、僅かな身動きすら許されないほど厳重に縛り付けられている。
時間の感覚がまるでない。
収監されてからまだそれほど経っていない気もするし、果てしないほど長い時間とらわれている気もする。
アイリスは無事だろうか。
きっと無事な筈だ。
彼女はこの国の人間だ。
それも勇者という変えの効かない貴重な戦力だ。
きっと生きている。
それはアイリスの望みとは違った形なのかもしれない。
それでも私は祈る。信じてもいない、いるとも思っていない神に、痛切に。
どうか、お願い。アイリスを生かして。
どうか、アイリス
「無事でいて」
「はぁ?何言ってんだこいつ」
そんな私の祈りは誰に届くでもなく、かえってきたのは品性のかけらもない濁声で、そんな現実を前にして私はいくどとなくげんなりする。
それにしても人間というのは他人を痛めつけるのが本当に大好きなようだ。
まったくうんざりさせられる。
先ほどからオウムのようにおんなじ質問をなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども繰り返す。
飽きることもなく、いつまでも、何度でも。
いい加減気が狂っちゃいそうだ。
「おい!聞いてんのかこのクソ魔族!お前らの本拠地はどこだって聞いてんだよ!」
バキッ!!!
鈍い音が牢の中木霊する。
一度質問するたびに奴らはこの地下牢という名の拷問部屋に備え付けられている鉄の棍棒で私を殴る。お陰で身体中が痛くて仕方がない。
こんな時ばかりはこの頑丈な身体に感謝する。
いや、この無駄に頑丈な身体のせいで痛みに狂うことも出来ずに無駄に耐えてしまっているとも言えるのか。
やはりこの血を呪うべきだろうか。
「おい!もう返事も出来なくなったのか!いい加減お前の相手することにもうんざりしてきたぜ!いいからさっさとこたえろや!」
まさにこちらの台詞だ。
「いいか!お前みたいなクズはこの世にいるだけで人様に迷惑かけてんだよ!それを自覚してさっさと情報を吐いて、少しでもこの世界に貢献しようとは思わねぇのか!このカスが!!」
余計なお世話だ。
「おい!聞いてんのかこのクソ魔族!残党の数は!?どのくらいの兵力を残している!?いつまで人間様に歯向かうつもりだ!あぁん!?」
耳が腐りそうだ。
私がだんまりしているのがよほど気に食わないのかご高尚な人間様がボコボコに殴ってくれたお陰様で自慢の鱗もボロボロだ。
アイリスが綺麗と言ってくれた顔だってもう元が分からないほどに腫れてしまっている。
「さっさと返事しろ!お前ら魔族は悪だ!正義は我らにある!貴様みたいな悪の化身は正義の前に滅びる運命なんだよ!」
「残りの悪もきっちりと滅ぼして綺麗にしてやるって言ってんだ!いいから聞かれたことに正直に答えろこのクズが!」
「くふ…」
「あぁ!?」
正義だと?
この下衆どもは言うに事欠いて自分達を正義だと信じているのか?
少し興味を惹かれたので人間様に目を向けてみる。
そこにはとても真面には見えない狂信的な目をした下衆どもがいた。
「くはっ!ふははははははははははははははははは」
「な、何を笑っているのだ!この異常者が!」
何を嗤っているかって?
「これが嗤わずにいられるか!お前らは自分達を正義だという!こんな嗤える話は他にないわ!ええ、まさに傑作よ」
「黙れ!!」
バキッ!!!
どれだけ殴られようとも私の嘲笑は止まらない。
はらわたが捩れるほどに嗤った。
嗤って、嗤って、一生分は嗤ったと言えるほどに嘲った。ついに私が嗤い終わった頃には、私の手足の感覚は無くなっていた。
殴り疲れたのか、激しい息切れを起こしている人間様達は本当にだらしがない。
きっと鍛え方が足りていないのだろう。
「はぁ…はぁ……理解したか…ぜぇ…ゲス…やろう……」
「…せ、正義の…ぜぇ……鉄槌だ」
「ふはっ!まだ言っているのか。もはや滑稽を通り越して哀れね」
「何を……はぁ…言う!!」
「どちらが正義か悪かだなんてくだらないわね。それらは本質的に同じものよ」
「我らは悪の言葉には惑わされない!!」
バキッ!!!
「ぐっ…理解しようともしない思考停止のグズが…」
「黙れ!!グズはお前だ!お前はこの世界の膿だ!!」
バキッ!!!
やばい。目の前が暗くなってきた。
殴られすぎて意識が遠のいていく…。
………。
……。
…。
ゴボゴボゴボゴボッ!!
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
何が起こっている!?
分からない。
息が出来ない。
私の身体が、肺が狂おしいほどに酸素が欲しいともがいている。
こわい…。
このままだと…死ぬ!?
いやだ!こんなところで死にたくない!!
「………ッ!ブハァ…!…はぁはぁ……ゲホッ…オエ…」
「目ぇ覚めたかよ。クソ魔族」
すぐ目の前には下卑た笑みを浮かべた騎士の顔があった。
こんな屑に死を感じさせられたことが悔しくて、泣きたくて、でも弱みを見せるということは相手の増長を許すということで、私は代わりにその顔に唾を吐いてやった。
バキッ!!!
「調子に乗るのもいい加減にしておけよ!クソ魔族が!」
「死ね!!クソが!テメェなんて死んじまえ!!」
この地獄はいつまで続くのだろう。
こんなに痛いのも、苦しいのももう嫌だ。
はやく全部おわりにしたい。
それでもどれだけ願っても、どれだけ祈っても、それがどこにも誰にも届くことはない。
やはり現実はどこまでも残酷だ。
私はその時が来るまでただ、耐えていくしか無いのだ。
さらに時間が流れた。しかし、やはりそれが長いのか短いのか私には判断できそうもない。
暗闇の中、視界はどこまでも紅く、水滴の滴り落ちる残響だけがやけに耳に残る。
騎士どもはご苦労なことに24時間交代制で私のことを拷問する。
質問はいつも同じで、私に同胞を売り渡せという。
いい加減同じ問答にうんざりしてきたので、どれだけ私を痛めつけようと、どれだけ苦しめようと、私が同胞を裏切ることはないと言ってやった。
勿論奴らは聞く耳を持ち合わせていなかったのだが。
そして今日も今日とて私をなぶるために元気を満タンにした騎士が、なぶり疲れた騎士とが交代する。
だけど、今日は少しだけ趣が違うようだ。
牢の中に入ってきたのは白い鎧に身を包んだ…なんと言ったか…そう!教会の犬たる聖騎士が一人混じっているではないか。
何事だと胡乱げな視線を向けていると、聖騎士は私に向かって祝詞を唱え始めた。
【主よ。いと尊き我らが光よ。その奇跡でかの者の苦しみを和らげたまえ】
翠緑の光に照らされ、顔の腫れが引いていくのを感じる。だが、その光は以前に見たアイリスの治癒魔法よりも淡く弱々しいものだった。
「おい。これでいいか?」
「あぁ、十分だ。約束通りの報酬だ。ほれ」
「ひひっ、こいつぁありがてぇ。それよりも本気かよ。こいつは魔族だぞ?」
「まぁ…な。だがよ、たまんねぇくらい美人だろ?オメェもちったぁ興味あんじゃねぇのかよ?魔族を抱く機会なんてそうそうねぇんだからよ。それもこんな上玉はよ」
「おぉなんと穢らわしい。主が悲しみますよ…」
「へっ言ってろ。で?やんのかやらねぇのか。どっちなんだよ」
「……主もこのくらいならばお目溢し下さるに違いない。いや、むしろ魔族を甚振るのは主のご意向に沿うのか?」
「流石は聖騎士の旦那だ。話が分かるぜ」
「ふふ、まぁ…な」
どうやら私を犯すためにわざわざ治癒魔法の使い手を雇いに行っていたらしい。
ご苦労なことだ。
だが、こんなところで私の純潔を奪われるのは癪だ。そもそも私はもう捧げる相手を決めているのだ。こんな下衆どもにくれてやる訳にはいかない。
痛みが和らいだことで脳が動きが活発化する。
私の顔を元に戻すためだけに治癒魔法をかけたことをせいぜい後悔することね。
「おい下衆ども」
「あん?なんだよ化け物」
「くふっ。化け物か。いい呼び名ね」
「おい、だからなんだってんだよ!?」
「私にその腰にぶら下がっている粗末なもので楽しみたいのなら、せいぜい気をつけることね」
「な、何がいいたい?」
「あら?本当に知らないのかしら?それは哀れね」
「ど、どういう意味だ!!」
「さぁ、何かしらね」
「さっさと答えろ!」
パンッ!!
ここにきて平手打ちとはどこまでも欲望に素直な奴らだ。
「ふふっ…まぁいいわ。知らないなら教えてあげる。魔族は純血を保つために異種族と交配できない身体になっているのよ?もし異種族の男が無理に交配しようとしてきたら、それを拒めるように魔族の女は身体から酸を分泌出来るようになっているの。それでもしたいのならどうぞご自由に。まぁその時は自分の下半身とお別れをする準備だけは整えておくことね」
「う、嘘だ!お前は適当なことを言って自分の身を護りたいだけに決まってる!!」
「な、なぁ!聖騎士の旦那。嘘…だよな?このクズが我が身可愛さに適当言ってるだけだよな?」
「あ、ああ、そうだ。嘘に決まっている!そんな話を俺は聞いたことがない!」
「嘘?ふふふ…いいわ。なら証明してあげる」
私を嘘つき呼ばわりした下衆に私は魔法で生成した唾を吐きかけてやった。
「グアアアアア!目が!!目が焼けるぅぅっ!!!」
「お、おい!何している聖騎士!はやく治癒を!!」
「わ、わかった」
淡い光に包まれた騎士どもは驚愕と畏怖のこもった視線を私に向けてきた。
だから、私は皮肉たっぷりにとびっきりの笑顔で応えてやる。
「分かってくれたようで何よりだわ」
まぁほとんどが真っ赤な嘘なのだが。
そんなことよりも下衆どもの引き攣った顔は見ていて最高に気持ちが良かった。
強姦未遂事件があってからというもの、騎士達は私の拷問をする際は完全武装するようになった。
なんとフルフェイスの兜までつけているのだ。
初めてそれを見た時は思わず吹き出してしまったものだ。
その後気を失うまで殴られたが、不思議と気分は清々しくすらあった。
あれからまたどれだけの時間が経ったのだろうか。
ついに待ち焦がれたその時がやってきた。
「おい、喜べ魔族。貴様の処刑の日取りが決まったぞ」
きた!
やっとこの時が来た。
この宣告を聞く為にどれだけ耐え忍んできたことか。
だが、私が処刑を待ち望んでいたことを騎士どもに悟られる訳にはいかない。と努めて無表情を心がける。
「処刑は三日後だ。せいぜい余生を楽しむことだな」
そう言い捨てて出ていった騎士を尻目に、私は内心で狂喜乱舞していた。
この日のためにひたすら拷問に耐えてきた。
全ては相手を欺くため。
雌伏の時は終わり、ついに私が牙を剥く番がきた。
私にはアイリスにしか伝えていない切り札がある。
それは一度使うともう二度と取り返しのつかない捨て身のカードだ。
だけど、もう囚われてしまったこの身を慮る必要はもはやない。
遅かれ早かれ私は死ぬのだ。ならばあと考えるべきは切り札を切るタイミングだけだ。
そして私はその時を処刑の日に定めた。
その日、私は教皇を殺す。
もはや私にあの裏切り者を殺すことは出来ないだろう。恐らく奴は私の切り札に関しても情報を持っている筈だから。
流石に警戒されている人物を殺すことは出来ないだろう。だけど、他の観衆達は無警戒に処刑を楽しむ筈だ。その場には皇帝も、教皇もいるだろう。
そして不意をつけば一人くらいは道連れにできるだろう。
ならばこそ私は教皇を殺す。
その為に無力な無抵抗を演じてきたのだ。拷問を受けながらも己のプラーナを練り込んでその質を高めてきたのだ。
全ては最期に教皇を殺す為。そしてアイリスの心の棘を抜く為。
私がアイリスの心を解放してみせよう。
それが今の私が彼女にしてあげれる唯一のことなのだから。
そして彼女がこれからも健やかに生きていけるように祈りながら死んでいこう。
アイリスが心から笑える未来をつくる為ならば、たとえ死んでも本望だ。
ああ、それでも唯一心残りなのは最期の瞬間にアイリスを一目見ることが出来ないことだ。
彼女は私の光だ。唯一の癒しで、救いだ。
この苦痛に満ちた日々も彼女がいたから耐えることが出来たのだ。
私はこの通り大丈夫だが、今はアイリスの精神状態の方が心配だ。
きっと優しい彼女は自分を責めているに違いない。私たちが捕まったことを自分の責任だと自罰的な考えをしているに違いない。
叶うならそんな彼女の元に今すぐ飛んでいって力一杯抱きしめたい。そして自分を責める必要はないんだと囁いて、彼女の心を解きほぐしたい。
願わくば私の死が彼女を傷付けませんように。
たとえ今は辛くともいつか必ず乗り越えて、どんな形でもいいから彼女にも幸せが訪れますように。
そして最後に、私のこの小さな祈りが、愛しいにあの人の元に届きますように。
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