第二十七節


 月のない夜は闇が深い。

 明かりがなければ自分の足元すら見えないほどだ。

 そんな昏い闇の中をネレイスはすいすいと進んでいく。その腕にアイリスを抱えたまま。その足取りには一切の迷いがなかった。

 むしろ今、若干ではあるが恥ずかしそうにしているのはアイリスの方だ。

 彼女は自身の耳まで熱くなっているのを自覚しながらも、この状況を打破する策は思いつかない。それどころか彼女の脳内はまさに大混乱の真っ最中だった。そんな沸騰寸前の脳はまともな解決策を捻り出すことさえも出来そうになかった。

 わたしが困った時はいつも味方になってくれていたネレイスも今日は素知らぬ顔でわたしの話を聞いてもくれない。

 でも

 それでも

 いくらなんでも


 「お姫様抱っこは恥ずかしい…」

 「でもアイリスはこの暗闇の中では何も見えてないじゃない。それなら見えている私に抱えられるのも仕方のないことじゃないかしら?」

 「そ、それは…そうだけど…」

 「分かってもらえて何よりだわ」


 全然分かっていない。

 ネレイスは全然分かってない。

 今日はけっこう汗かいちゃって臭いかもだし、返り血も浴びちゃって汚いし(拭ったけど)、それにわたし鎧と着てるから…お、重いと思うし…。そんな可愛げのないわたしがお姫様抱っこで運ばれるなんて、一体なんの羞恥プレイなんだろうか?

 せめておんぶにしてほしいなぁ…なんて思うんだけど、ネレイスは全然取り合ってくれないし。

 本当に困った。


 「アイリス」

 「ひゃい!」


 考え事をしていると不意にネレイスの声がわたしの耳をくすぐる。

 声が近い。

 耳のすぐ側で囁き声が聞こえる。

 気を抜いた瞬間に吐息が耳にかかる。

 ちょっと、いや、かなりくすぐったい。


 「城に到着したわよ。匂いを辿るならここはまっすぐいく必要があるわね。問題ないかしら?」

 「も、問題ない」


 ネレイスの声がわたしの鼓膜を突き破り、直接脳を揺さぶる様を幻視する。

 そのまま脳がとろけるかのような快感に包まれながらも、切り離した意識が朧げな記憶を辿り、ここが城の謁見の間へと続く長い廊下であることを悟る。

 その瞬間惚けきっていたわたしの脳が瞬時に冷える。

 ぞわりとした気色の悪い怖気が背中を撫でる。

 なにかがおかしい。

 この状況に違和感を感じる。

 だけどその正体が掴めない。

 うまく言葉に出来ないのがもどかしい。


 「ネレイス待って。何かおかしい」

 「どうしたのかしら?」

 「その前にネレイスに確認したい。奴らは二人ともここにいるの?」

 「え、ええ…」

 「なら、なんで奴らは城にいる?」


 そうだ。なんで城なんだ?

 そもそもわたし達の標的が城にいるというこの状況はおかしい。

 絶対的に変だ。

 なぜなら教会と帝室は政争で反目し合っている筈なのだから。

 それに今奴らは血眼になってわたし達を探している筈だ。

 そんな時に教会の勢力圏を離れるのは何故?

 もしかして…。

 その考えが頭をよぎった瞬間わたしは必死にその可能性を打ち消そうとしたが、頭の片隅で冷静な自分は確信していた。わたし達が嵌められたということを。

 即座にネレイスを見ると、彼女もまた顔を青く染めていた。

 聡い彼女のことだ。数少ないわたしの言葉からわたしの感じている違和感の正体に気付いているのだろう。


 「ネレイス」


 わたしの言葉に彼女はハッとした表情を浮かべ、その血赤の瞳がわたしを捉える。


 「…あなたの考えが正しいとするとかなり不味いわね」


 さしものネレイスも動揺を隠しきれていない。

 それほどに状況は逼迫している。


 「誘われた…とみて間違いないわね」

 「そう思う。それに一切明かりがないのも変。警備もいないし明らかに不自然」

 「やっぱり罠の可能性が高いわね」

 「それなら仕切り直すべき。みえみえの罠にかかりに行くのは愚策」

 『そんなつれないことは言わないでくれたまえ。こちらも君たちを持て成すために苦労して万全の準備を整えているのだ。それなのに帰るなんて言わないでくれたまえよ?』

 ッ!!!


 気配が一切なかったせいで反応が遅れた。

 ネレイスも感覚にさえ引っ掛からなかったのだから、相手は相当な手練れかもしくは何かタネがある。

 そしてわたしの勘が正しければ、おそらくは後者だ。

 呆然とするネレイスの腕から飛び降りて、その声の発生源をわたしはキツく睨み付ける。

 そこにはぼんやりとした光に縁取られた皇帝が佇んでいた。

 その顔に勝利を確信した者の傲慢な笑みをたたえながら、中空に浮かび上がる玉座からわたし達を睥睨している。

 暗くてよく見えないが、その表情は憎悪に歪んでいる…?


 「ネレイス、そいつは虚像」

 「クッ…、了解よ。なら本体が何処かにいる筈!どこ!?」

 『クックック、御明察。ここにいる余は虚像に過ぎぬ。貴様らに何をされようと一切問題はないということ。さて、貴様らに余の本体がどこにいるか分かるかね?』


 瞬時に殴りかかろうとしたネレイスを諌める。

 冷静になろう。

 あれは合成魔法で姿を投影している虚像に過ぎない。だから、あれを消したところで意味はない。

 それよりも何故敵はわたし達の侵入をここまで正確に予測してのけた?

 あの魔法の発動には儀式用の祭壇に魔法発動時は常時複数人による儀式の継続が必要とする。要するにかなりの手間がかかるのだ。

 それなのに敵はそんな手間のかかる魔法をわたし達が侵入する完璧なタイミングで発動してのけた。

 これが意味するところは敵はわたし達が決戦を今日にしたことや侵攻ルートまで何もかも把握しているということ。

 それはいくらなんでも可笑しい。

 まさかアルフレッドが裏切っ……、いや、それは考えたくない。

 それに今、問題なのはそこじゃない。

 奴は準備は万全だとのたまった。つまり、もう既に脱出の手段は残されていない可能性が高いのだ。


 「ネレイス、周囲に敵性反応…ある?」

 「……もう囲まれてるわ。どうやら私たちはまんまと罠に嵌まった間抜けということらしいわね」


 心底悔しそうに吐き捨てるネレイスにかける言葉もない。

 それに引き換え皇帝は泰然とした態度を崩さない。

 わたし達を嵌めるために綿密な計画をたて、周到な事前準備を経てこの場にいるのだろう。彼からは自分の策が破られるとは露ほどにも信じていない。そんな圧倒的な自信を感じる。

 皇帝はクツクツと嗤いながら、尊大に語りかけてくる。


 『これまた御明察。しかしこのまま貴様らをすり潰してしまうのも些か興醒めという物。ここは一つ、余が用意した余興に乗らぬか?』

 「余興だと?」

 『そうだ。ついてきたまえ』


 そう言って皇帝が指を鳴らすと、広間の燭台に一斉に火が灯った。

 いちいち芝居がかっていてすごい腹立つけど、まだ我慢。我慢するんだ、アイリス。

 だって今見えてるあれは所詮虚像だし。それ消してもこの劣勢をひっくり返せるわけでもないし…。

 ここは相手から情報を引き出すためにも我慢すべきなのだ。

 でも、あまりにも鬱陶しかったら消してやろう。

 まぁそれは一先ず置いておいて、先にこの状況を打破するための策を考えておかなければ。

 こちらの圧倒的寡兵に対して、敵の数は膨大。この城の騎士だけならなんとかなる気もするのだけれど、もし万が一この城の中にまで聖騎士団を招き入れていたら本気で不味いことになる。

 それでも皇帝の首さえ取れればなんとかなる気がするのだけれど…そう上手くはいかないよね。大体どこにいるかも分からないし。

 そんなことを考えながら先導する皇帝についていくと城の中庭に出た。

 そしてそこにはわたし達が焼き焦がれるほどに会いたかった相手が中庭に立っていた。


 「よく来たの。儂のかわいいかわいい勇者よ」

 「………」


 わたしの人生を狂わした張本人が下衆な笑みを浮かべながら挑発してくる。

 奴の顔を見ると無意識に身体が震える。

 気がつくとわたしは自分の身体を掻きむしるように掻き抱いていた。


 「ネレイス、お久しぶりですね。息災にしていましたか?」

 「黙れ!!貴様と話すことなどない!すぐに殺してやるからそこを動くな!!」

 「せいぜい頑張ってみてください。まぁ無駄だとは思いますがね」

 「うるさい!!」


 ネレイスも因縁の相手を見つけることが出来たようだ。

 それにしてもどういう風の吹き回しだ?

 獲物をわざわざわたし達の目の前にぶら下げるなんて何を考えている?

 訝しげな視線を皇帝に向けると、彼は肩をすくめてこう言った。


 「一方的な蹂躙劇というものも見ていてつまらんからな。貴様らにも希望を与えてやろうという余なりの親切心さ。貴様らがこの包囲網を突破して見事仇を打てたのなら貴様らの勝ちだ。なんなら今回はこの聖都から逃してやってもいい」

 「なっ!!皇帝陛下!それでは話が違いますぞ!儂がなんのために危険を冒してまでここにきているのかをお忘れか!?」

 「見苦しいぞ教皇よ。余は今、そこな虫ケラどもと話している。貴様は口を挟むでない」

 「クッ…かしこまりました」

 「失礼したな、招かれざる客人よ。まぁそういうことだ。せいぜい頑張りたまえ」

 「聞く意味ないと思うけど一応。…もし討ち損ったら?」

 「その時はあらゆる苦痛と確実な死を与えてやる。そして死後も安息はないと思え。貴様の首は末長くこの聖都にて晒してやろう。人という崇高な種族に楯突いたゴミがどのような末路を辿るのかをその身をもって知るがいい」

 「ハッ!やはり聞く必要などなかったな!」


 わたし達はお互いに得物抜き、背中合わせに構える。

 背中越しにネレイスの心音が、体温が伝わってくる。

 心が少しだけ軽くなり、強張っていた身体が少し解れる。心に余裕ができたお陰か視界が広がって敵の全体像が見える。いつしか身体の震えも少し収まったような思う。

 こんな時だからこそわたしの中のネレイスの存在がいかに大きいかを認識する。


 「アイリス!いけるわね?」

 「うん」

 「勝つわよ!!」

 「うん!」


 敵は数百人はいるだろう。

 普通に考えたらわたし達はここで死ぬ。

 だけど何故だろう?

 背中を預けているのがネレイスなだけでわたしは誰にも、何にも負ける気がしなかった。

 心が温かい。

 今のわたしは無敵だ。

 さぁ、誰でもかかってこい!!




 その後数十分に渡って中庭では死闘が繰り広げられた。

 魔王と勇者を円状に取り囲み、四方八方から斬りかかる騎士団だが、これが中々うまくいかない。

 もう既に十数人にも及ぶ騎士が彼女達の足元に力なく転がっている。

 そんな近接戦で圧倒的な力を見せつけたネレイスとアイリスを相手に切り結ぶのはあまりにも危険と判断した騎士達は戦法を魔法による包囲殲滅戦へと変更する。

 大盾を構えた十数人で二人を足止めしつつ、長距離から魔法による一斉砲火で仕留めようとする。しかし、いくら焼き焦がしても、アイリスの聖剣が瞬時に治療し怪我自体を無かったことにされてしまうから堪ったものではない。

 ネレイスの鱗も頑丈で生半可な攻撃魔法じゃびくともしない。今も迫り来る炎弾を手刀で打ち消している。

 初めは相手がたった二人ということでお気楽な雰囲気だった騎士団も、いまだに攻めきれない状況に緊迫感が生まれてきている。それどころか数多の同胞が屠られているこの状況に焦りすら感じてきている。

 そしてそれはアイリス達も一緒だった。

 流石のアイリスもネレイスも立ちはだかる数百の軍勢を相手に有効な攻撃手段は持ち合わせていないのだ。正確にはあるのだが、それは使ってしまうとあまりにも消耗してしまうために使い所が難しいのだ。

 そのため二人はまだ切り札を切る判断を下せずにいた。

 いつしか戦線は硬直状態に陥っていた。

 そんな状態にいち早く焦れたのは教皇だ。

 元々堪え性のない彼はしぶとく粘るアイリスの姿に苛立ちを募らせていた。


 「この無能どもが!たった二人を始末するのにいつまでかかっているのじゃ!?それでも貴様らは誇り高き神聖皇国の最精鋭の騎士達では無いのか!?」

 「ハッ!申し訳ありません!」

 「言い訳はいい!言葉ではなく結果で示せ!」

 「ハハッ!」


 ぶつくさと文句を言いながらも教皇の視線はアイリスに注がれている。

 激しい戦闘の末、彼女が身につけていた無骨な鎧が少しずつハゲていく様に妙な興奮を覚える。

 うむ、全てが済んだ後で鎧をつけたまま嬲るのも悪く無いな。

 そんな下衆な妄想しているとふとあることを思い付いた。

 今回の件で自分の命を守るためとは言え、帝室に助力を嘆願したことにより、教会は神聖皇国内での影響力を大幅に弱めてしまった。

 儂自身、皇帝の世話になってしまった自覚はある。

 だからこそここで儂自らの手で勇者どもを捉えることができたなら、それは皇帝への大きな貸しになるのではなかろうか?

 幸い奴はその身は自由になれど、心はいまだに儂に支配されているようなものだ。

 そんな天から舞い降りてきたかの如く神がかった妙案を思い付いた自分自身の叡智に慄きながらも、努めて冷静な態度を装い、悠然とした足取りでアイリスの元に向かう。

 幾人かの騎士がその蛮行に気が付き、教皇を諌めようとするが、彼はその悉くを無視して突き進む。

 やがてアイリスの目の前にまで迫っていた。

 アイリスは突然降ってきた好機にそれでもすぐに反応することが出来なかった。

 様々な感情が胸中を渦巻いていた。

 憤怒、憎悪、後悔、恥辱、しかし、その中でももっとも大きく彼女の心を占有していたのは恐怖だろう。

 過去の幼い彼女が経験した苦痛にまみれた半生が彼女を縛る鎖となる。

 そのため彼女は突然目の前に仇が現れた時、一瞬固まってしまったのだ。

 その隙を見逃す教皇では無かった。


 「アイリス動くでない!!!」

 「ッ!!」


 そう言って教皇が手を振り上げた。

 アイリスは怯えた表情でそれにビクリと反応してしまった。

 腹の奥底から恐怖が迫り上がってくる。

 身体が震えて上手く操ることが出来ない。

 呼吸の仕方って…どうやるんだっけ?

 アイリスは我慢出来ず、ついにはその場に膝を屈してしまった。

 そんなアイリスを見て激昂したネレイスが教皇目掛けて襲いかかる。


 「貴様!アイリスに何をした!?」


 そう言って飛びかかるも、攻め手が一人になってしまった以上ネレイスに勝ち目は無かった。

 次から次へと無尽蔵に湧いて出てくる騎士を前についには取り押さえられてしまった。


 「クソが!離せ!アイリス!返事をして!!アイリス!そのクソを殺すんでしょう!?しっかりしなさいよバカ!!!」


 アイリスは答えない。

 否、涙を流しながらネレイスを見つめている。

 わたしが動けなくなったせいでネレイスは捕らえられてしまったのだ。

 わたしが恐怖を克服していなかったせいで。

 わたしが無能なせいで。

 わたしのせいでネレイスは負けてしまった。

 わたしのせいで彼女はこれから酷い目に合うのだ。

 それどころかその尊い命を失うことに……。

 わたしのせいで。


 「ごめん…」


 自己満足なのかもしれないが、彼女に謝罪せずにはいられなかった。

 深い後悔の念がずっぷりと心の奥の方にまで刺さっている。そこから血が流れ出し、わたしの頬を濡らしている。

 どうしてわたしはこんななんだろう?

 汚くて、悍ましくて、大好きな人の期待にも応えることが出来ない間抜けな無能。

 いつまでわたしは過去に引き摺られているのだろう?

 ただ彼女を幸せにしたかっただけなのに。

 どうして、どうして、どうして。

 そしてわたしはいもしない神に祈る。どうか彼女がこれ以上苦痛を感じずにすみますように…と。

 まるで無駄な祈りだ。何故なら現実はどこまでも残酷なのだから。

 敗北したわたし達を待ち受けるのは自ら死を求めるほどの苦痛と恥辱、それと後悔の念に耐え続けるだけの過酷な日々だ。

 嗚呼誰か、誰でもいい。

 どうかこんな最低なわたしを殺してはくれないだろうか。


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