第二十六節


 「姉御!つきやしたぜ」

 「やっと…やっとこの地獄から解放されるのね…。鼻が曲がりそうでうんざりしていたところよ…。それはそうと本当に助かったわ。アルフレッド。色々と世話になったわね」

 「そんな水臭いですよ、姉御。それに本当に大変なのはこれからなんでやすからね」

 「分かっているわ。それは覚悟の上よ」

 「そんなことよりアイリスの姉御はどちらに?」

 「え、アイリスは私の隣の樽に……」

 「すー、すー」


 寝てた。


 「さ、さすがはアイリスの姉御と言うべきでしょうか…肝が据わってやすね…」

 「褒めちゃダメよ」


 これには流石のアルフレッドも引いていた。

 無論私もドン引きだ。

 こんなアルコール臭い中でよく眠れるものだといっそ感心するほどだ。


 「アイリス!こらアイリス起きなさい!」

 「んむ…なぁに?……ネレイス?」

 「任務中に気を抜くんじゃありません!」


 ポカッと軽く殴る。

 私の拳を受けてアイリスがフニャッと相好を崩す。かわいい。

 おっと…いかんいかん。今は気を引き締めなければならないのだ。いくら可愛くても許してはならないことだって世の中にはたくさんあるのだ。

 今日こそはアイリスにも現実の厳しさってやつを理解してもらうとしよう。いつもの甘々な私とは一味違うんだぞ。

 私は厳格な態度を崩さない。


 「ごめん…」


 そんな私の雰囲気を察してかしゅんとした様子で謝るアイリスが可愛すぎてつらい。

 これはずるい。こんなことされて許さないわけにはいかないじゃないか。


 「つ、次から気をつけるのよ!」

 「ん…」

 「なんだかいつも通りみたいで安心しやすね」


 アルフレッドの呆れ顔に腹が立ったのでとりあえずこづいておく。

 まったく、なにがそんなに面白いのかにやにやしやがって。ほんとに、まったくどうしようもない奴だ。それにしても腹たつ顔だな、ほんとに。


 「そ、そんなことよりも!手筈通りでいいのよね?アルフレッド」

 「まったく問題ないでやすね。全ての計画は順調に進んでいやす。姉御の予測通り思ったよりも警備は厳重ではなかったでやすしね」

 「どうやらそのようね。ここまで来るのにも検問は一つしかなかったし…」


 警備が手薄すぎるのだ。

 そのことに若干の違和感を感じる。

 いや、一度冷静になって考えてみよう。この都市の規模を考えた時にそれを全てカバーするような防衛網を敷くことは敵にとっても相当な負担になっている筈なのだ。そのこともあってか検問の数や、警備の交代時間など所々に妙に穴がある、ように見えるのだ。

 それらの情報はアルフレッド達に聖都への大規模の偵察を依頼して把握してはいたが、こうもあっさり行くと逆に不安になってくる。

 まぁこれも私の考え過ぎと言うものだろう。

 杞憂というやつだ。


 「検問といやぁ酒樽の中身を調査するって言われた時はヒヤリとしやしたよ。どうやって誤魔化したんですか?」

 「案外簡単な手口よ?ただ高級酒を皮袋に詰めて樽の口のところに貼り付けただけなんだから」

 「言われてみれば確かに簡単なトリックでやすね」

 「そんなものよ」


 人は自身の想像の埒外のことをされると存外簡単に騙される。思いもよらないことが人の盲点となり得るのだ。

 それでも実際にくぐり抜ける瞬間は緊張した。

 正直二度目は勘弁願いたいものだ。

 あと単純に臭いし。


 「これから私たちは己の使命を果たしに行くわ。アルフレッド、ここまで本当にありがとう」

 「ありがとう」

 「やめてくだせぇ。今更水臭いのはなしでやすよ」


 私とアイリスの感謝の言葉にアルフレッドは少しそっけない返事を寄越したが、私の目には彼の耳が赤くなっているのが分かる。

 大方、照れているのだろう。

 しかし、ここでそれを茶化すのも無粋というもの。ここは何も見なかったことにするとしよう。


 「事前に話した通りこの都市を脱出する際は混乱に乗じるつもりよ。全てがうまく運べばここでお別れね」

 「何事もないことを祈ってますよ。それに今生の別れってわけじゃないんです。また落ち着いたらいつでも会えますよ」


 勿論そんな筈はない。

 人族の国を魔族が気軽に闊歩できる時が来るなんて想像もつかない。

 それでも笑って別れよう。

 私たちに新しく出来た家族との別れだ。

 湿っぽいのは似つかわしくないだろう。

 ふとアイリスがアルフレッドに近づいてその頬に軽く触れる程度にキスをした。


 「アルフレッド、本当にありがとう。またどこかで」

 「え……、あ、アイリスの姉御もお元気で……?」

 「うん」

 「ア〜ル〜フ〜レッドくぅ〜ん?なにか言い残すことはあるかい?」

 「え、ちょ、ちょっと!ネレイスの姉御!これは誤解!そう誤解ですって!」

 「ご〜か〜い〜?アイリスが頬にちゅってしたことのどこが誤解なんですか〜?」

 「え、い、いや、それは…その…なんと言いますか。ってアイリスの姉御も笑ってないで止めてくださいよ!」

 「ごめん」


 まったく、最後の最後まで締まらない。だけど、それがなんだか私たちらしくて少し笑ってしまった。




 アルフレッドと別れ、聖都内に潜入する。

 予想以上に聖都の警備が手薄だ。

 それに今夜は月がない。粘りつく暗闇の中、夜道を人目を忍んで駆け抜ける。この暗さならば潜入の難易度も幾分容易になるだろう。

 事前に仕入れた情報通りに警備の目を掻い潜る。

 途中アイリスがドジって見つかりかけた以外は何事もなく、平和に事が運んでいる。

 ここまでとんとん拍子に進行するのもアルフレッド達に事前に浸透偵察を依頼したおかげだろう。

 彼らには聖都の全ての門を見張ってもらい、出入りする人の数、運び込まれる積荷(もし分かるならそれが何か)などの物流を監視してもらったのだ。彼らは裏にも繋がりがあるため、かなり正確な情報を拾い出すことに成功した。

 そしてそれらの情報が集まれば後は簡単だ。私が都市の規模と報告にあった規模の防衛体制にかかるおおよその費用、それと聖都がそれらを維持できるであろう期間を計算するだけだ。

 その結果報告にあった数の防衛網を維持することは現状の聖都には不可能であるという結論に達した。

 つまりあの絶望的な数の兵士が聖都を護っているというのはデマだ。

 大方教会かどこかが意図的に民衆に流したのだろう。

 私の計算によるとその半分の兵を待機させておくだけでもこの聖都は遠からず日上がってしまうだろう。

 要はハリボテの警備網を敷いているのだ。

 そして潜入してみて分かった事がもう一つ。敵は少ない人員で上手いこと警戒体制を敷いている。

 余裕のない聖都は大人数の警備兵を動員する事が出来ないから、わざと警備に穴をつくって、油断した私たちを巣穴の奥の奥まで誘い込もうとしているのではないかと思えるのだ。

 いやらしい作戦だ。この作戦を考えた奴の神経はまともじゃない。わざわざ敵を自分の懐の中に招き入れるのだから、下手すると全てが瓦解する可能性だってあるのだから。まさに諸刃の剣だ。

 でも、うまい手だ。

 しかし、ここにきて事前情報の差が勝敗を分けた。

 敵はこちらの状態を把握しておらず、それに引き換え私たちはもう丸裸にしたも同然の状態にまで追い込んでいると言っても過言ではない。

 それならば相手がはめようとしてくるその裏をかくことさえも容易に行えるだろう。

 それでもここまで簡単に事が運ぶと若干拍子抜けしてしまうが。

 むしろそれが敵の狙いか?

 なんて疑心暗鬼になっていると後ろからふわりと抱きしめられた。


 「また難しい事考えてる?」

 「そんな事ないわ。今は必要な情報を整理しているところよ」

 「ごめん。言い方間違えた。また難しく考えてる?」

 「え…」


 アイリスの手の温もりがじんわりと過敏になっている心に染み込んでいくようだ。

 私もアイリスの掌に自分の手を重ねる。

 暗黒の中、混ざり合った体温だけが私たちにとって唯一確かなものだった。


 「ネレイスは出来ることは全部やった。今更迷うの良くない」

 「そう…ね。順調すぎてかえって不安になっていたみたいだわ」


 迷いすぎるのも良くないことだ。

 初志貫徹。問題がないというのならそのまま進むのが吉だろう。

 それに


 「賽は投げられた…」


 人事は尽くした。あとは己が天運に賭けるだけだ。




 アイリスに手信号を送る。


 『とまれ』


 彼女が了承したのを確認し、建物のカドから私はそろりと前方を確認する。

 そこには二人組の見回り兵が気怠そうに城門の前に座り込んでいる様子が窺える。

 目標の匂いがする方向から避けることが出来ない一本道にこの不埒者たちはいる。

 ひとまず一度交渉から…なんてぬるいことを言っていると死ぬのは私とアイリスだ。

 仮にこの場は見つからずに擦り抜けれたとしても、その先は城まで一直線の橋しかない。身を隠す場所なんんてないのだ。橋を渡っている途中に発見されるリスクはかなり大きい。

 勿論襲撃に失敗すれば全てがおじゃんな訳だが、予想されるリスクを天秤にかけた結果、前者の方が目も当てられないという結論に至った。

 目に見えるリスクは極力排除しよう。

 私たちは聖人君子でもなんでもないのだから。

 これが最も合理的な選択だ。

 残念だが、見ず知らずの一兵卒の命にまで気遣う余裕なんて私たちにはないのだから。


 『右殺せ』

 『了解』


 私たちは手早くやりとりを済ませると、気配を消して素早く静かに城門に近づく。

 彼らは私たちの接近に気づくこともなく雑談に興じているようだった。


 「なー、いつまでこんなこと続けんだろうなぁ」

 「はぁ?俺が知るかよそんなこと。隊長に聞けよ、隊長に」

 「まぁそうだよなぁ。それにしてもたいグブゥ…!」

 「な、なんだ?どうしガァッ…!」


 続きは言わせない。

 次の瞬間、喉元を掻っ切られた哀れな死体と首を捩じ切られた無惨な死体が二つ出来上がっていた。

 それを四苦八苦しながらも城門の脇にある茂みに引きずって行き、手にこびりついた血を拭う。

 人間を殺したのはこの時が初めてだった。そして気分は最悪だった。

 あれだけ憎んでいたはずなのに、それでもあの兵士の頸椎を捻じ切った時の嫌な感触が手にこびりついて離れない。そのあまりの悍ましさに身体が震える。

 どれだけ覚悟を決めたつもりになっていても、いざという時が来たら、私はこんなにも弱い。

 あの兵士にはまだなんの恨みもないのだ。それなのに私のごく個人的な目的の障害になるからとあの名も知らぬ若き兵士を私は殺した。

 その事実に私の手は震えているし、なんなら吐きそうだ。

 それでも今は歯を食いしばってでも進む時だ。

 私は大きく息を吐き出し、心の中で殺してしまった兵士の冥福を祈る。

 きっとこれは偽善なのだろう。それでも祈らずにはいられなかった。

 そして、となりで飄々と剣についた血を払う相棒の名前を呼ぶ。


 「アイリス」

 「ん、ネレイス」


 私たちはどちらともなく手を取り合い、伏魔殿の中に一歩踏み入る。

 ここからが最後の難所だ。

 もう目標の匂いはすぐ目の前にある荘厳な城砦の中からする。

 仇を討ちまであと…少し…。

 もう少しだけ待っててね、お祖父様。




 聖都の闇は深い。

 それはこの都を深くまで知る者にしか見えない程に昏い昏い闇がある。

 闇はこの聖なる都を包み込んでいる。

 裏家業や密輸、密売なんてそんな闇のほんの一部でしかないのだ。

 人が作った組織はいずれ腐敗する。しかし、皇帝は思う。その腐敗の全てを自分が管理してやるのであれば何も問題はないのではないか、と。

 清も濁も併せ吞むくらいは出来て当然のこと。

 後はそれをどう活用していくか、そこで為政者としての器が試されるのだ。

 教会がネズミを囲い込んでいることも、より多くの魔族を殺すためならば許そう。

 勇者が国内に刺客を放ったことさえも、増長気味だった教会の戦力を削るためならば許そう。

 全ては【皇帝】が全ての人類を束ね、この世から一匹残らず魔族を消し去り、人類による人類のためだけの楽園を築き上げるため。その為だけに皇帝は動いている。

 その崇高な使命を果たすためならば、その過程で少しばかりゴミが目障りだったとしても余は寛大な心をもってそれを許そう。

 大事なのは過程ではなく結果のみなのだから。

 しかし、先日教会から聞き捨てならない情報がもたらされた。

 もしそれが誠ならばそれは余にとっても看過できない問題となるだろう。

 不安の芽はなるべくはやいうちに潰すに限る。

 既に愚者が踊り狂う舞台も用意してある。

 その滑稽な舞踊でもって余を楽しませてくれることにせいぜい期待するとしよう。


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