第3話

「本当に椿があったのかどうかについてはどう思われますか?」

「ちょっと待っていてください」

 雄介は立ち上がると部屋から出て行き、しばらくして部屋に戻って来た時に、掛け軸を小脇に抱えていた。

「これを見ていただけると」

 そう言って、掛け軸をといていくと、現れたのはピンクと白が混じった色の一輪の椿。 

「ここを見て下さい」

 雄介が指したのは、掛け軸の左下。

 達筆に文字が書かれている。作者の名前か何かだろうか。雪上は目を細めた。

「『安永二年、庭先の椿』と書かれています。この掛け軸は、その当時、修験者様に一夜の宿を提供し、そのお礼としてこの絵を書いてもらったそうです」

 つまり、仏教の修行僧をなんらかの理由で泊めたことがあり、その際に宿代として描いてもらったと言う話なのだろうと雪上はそう理解した。

「安永二年と言うと、江戸時代ですか?」

 詳しい年数はわからないが、何となくそう言うと、雄介は頷いた。

「その修験者と言うのは?」

「名前まではわかりません……ただ、私も聞いた話ではそれなりに有名な方だったと」

「描いてもらったと言うことは、この安永二年には庭に椿があったと言うことか」

「恐らくとしか、私は言えないですけどね」

 それからいくつか話をして、雪上は部屋の壁にかけられた時計を不意にみると、家に招き入れてもらってから小一時間ほど時間が経っている事に気が付いた。

「すみません、長々とお忙しい中で……最後に、庭のその椿があったと言われている場所を見せていただきたいのですが」

「もちろん。ご案内します」

 雄介は立ち上がると、廊下を抜け、

「こちらです」

 一番奥の部屋に案内される。

 何もない部屋だった。天井から床までの長さのあるカーテンで閉め切られ、畳八畳で、押し入れが備え付けられている、特に何もない部屋だった。

 雄介はしゃっと、カーテンを引くと、窓越しに裏の庭がガラスの向こうに見える。

「ここですか」

 窓枠が大きく、ここから庭に出入りできそうだった。ガラス越しでも十分に庭を見渡すことが出来、和風の庭で、松の木、楓、青木、石灯篭などがある。手入れは……あまりなされていない様で、どれもすこしくたびれているように見えた。

「椿はちょうど、あの辺りにあると父が言っていたのを聞いたことがあります。言い伝えなので本当かどうかは定かではありませんが」

 雄介が指した先にはもちろん、椿はなく、楓が風にそよいでいるだけだ。

「少し、庭先におりてみてもいいですか?」

 九曜の要望に、雄介が少し顔を曇らせたのを雪上はちょうど見てしまった。

「大丈夫……だと思います」

 その不思議な言い方に九曜は空気を読むのかと思いきや、

「じゃあ、玄関から靴を持ってきます」

 と、言って部屋を出て行くので、雪上は遅れまいと九曜に続く。雄介の横を通る時に軽く会釈をして、九曜と一緒に靴を持ってくると、雄介は部屋で待っていて、窓を開けてくれた。

「足元気をつけてください」

「ありがとうございます」

 雪上は持っていた靴を地面にぽんっと投げおろし、靴を履く。

 外はかすかに薄暗くなっていた。

 九曜は自身の鞄から懐中電灯を取り出して、庭を照らす。

「この辺りですか?」

 ちょうど楓の木の辺りについて振り返り雄介をみると、二度ほど頷いた。

「そうです。私も小さいころにその話を聞いて、その辺りをじっくり見たことがあるのです。椿の木があった痕跡はなさそうに思えるのですが……何かありそうですか?」

 九曜はじっくりとなめる様に地面を見ている。納得がいったのか、立ち上がると「ないですね」と言って、両手の土を払いのける。


「おい、うるさいぞ」

 隣家から怒声が聞こえ、雪上は思わず体を震わせる。

 声がしたのは、椿家の左側の家だ。そう言えば、事前に話を聞こうとインターフォンを押した所、意味もなくインターフォン越しに怒鳴られたことを思い出す。

 隣の家と椿家は垣根越しになっており、それを越えて来ることはないと思われたが、ガタガタと隣家の裏口が開き、竹ぼうきを片手に鬼の形相でこちらに闊歩してくる八十代と思われる男は、ラクダ色のシャツに股引を履く。それが彼の服なのだろうか。少し、耄碌しているのかもしれないと雪上は自分を納得させた。

「笠原さんすみません」

「うるさいぞ。一体何時だと思っているんだ」

 夕方の五時半である。まだ何時だと怒鳴られる時間ではないと思うが、笠原と言う老人にとっては違うのだろうか。

「すみません」

「頭おかしいだろう。こんな時間にわあーわあー騒ぎだして」

 雄介は良くないと思ったのか、窓から大きく身を乗り出して、すみませんと言っている。

 雪上はだんだんと冷静になって考えて、頭がおかしいのは、その言った本人――笠原の方ではないだろうかと思えてしまうのだが、それはぐっとこらえた。

 もちろん面と向かってそんな事を言ってはどうなるか、わかっているので言わないし、雪上にはそんな度胸はない。

「謝れば済む、全て解決すると思っているのか? ふざけるな」

 ハチャメチャに怒声を吐き、仕舞いには持っていた竹ぼうきを垣根の木を越えて、こちらに攻撃するような素振りで振り回す。

 冷静な雪上も流石に身の危険を感じる。

「すみません、笠原さん。僕らはもう行きますので鉾を治めてもらえませんか? それにこの垣根を越えて、その様なことをされた場合は僕らも様々やり様がありますからね」

 九曜はそう冷静に言うが、雪上は血が凍りそうだ。

「なんだ、儂を脅しているのか?」

「いえ、脅している様に感じられたのは笠原さんにその自覚があるからではないですか?」

 耄碌している訳ではなく、頭はまともに働いているらしい。

 九曜にそう言われた笠原は、ふんっ。大きく鼻を鳴らし、大きな足音を響かせ、家の中に闊歩する。

 三人はその様子を見送り、ようやくかちゃん。と、ドアが閉まる音がして、雄介はふう、と大きな息を吐いた。

「すみません、昔から怒りっぽい方で、私ももう少し配慮出来たら良かったのですが」

「いえ、こちらこそご迷惑おかけして申し訳ありません。ここに居座って、またやって来られても困りますから、一旦家の中に戻っていいですか?」

「もちろんです」

 雪上と九曜は靴を脱ぎ、靴をたたいて土をはらう。

 中にはいると、玄関に靴をもどし、先ほど案内された最初に部屋に戻って来た。

「あの、笠原さんと言うひとは普段からあんな感じの人なのですか?」

 九曜の質問に雄介は困った様に眉を下げた。

「普段から……まあ、そうかもしれません。昔気質の人で、質素と謙虚を体現した様な人なんです。小さいころから、馬鹿な事をして遊んでたら、笠原さんに厳しく叱られたこともありました。その頃は、悔しい気持ちしかあの人に抱いていませんでしたが、大人になって、なぜあの時怒られたのかと言うことを思い出して、今なら笠原さんがなぜ怒ったのかもわかります。ですので、筋が通らない人ではないと思っています……ですが」

 九曜と雪上は相槌を打ち、話の続きを促した。

「近年は、年齢のせいなのか身体的な事情があるのか、その辺りは、私は笠原さんの家族ではありませんので良く知りませんが、非常に怒りっぽくなったと、思います。特に……家の右隣に、最近都心の方からこちらに移住してきたご家族がいるのですが、小さいお子さんもいらっしゃいまして、夜泣きすることもあるんです。この様な田舎の集落ですから、夜中の声は非常に響くのです。それが気に障るのか、酷く激高される様子が多くなった気がします」

「亡くなったお父様は隣の笠原さんとの付き合いはどうでした?」

 雪上はここでなぜ、父親の話が九曜から出てくるのかわからなかったが、それをとめるのも違う気がしたのでそのまま頷いて話を聞いていた。

「うちと、笠原さんの家はもう数百年前? だったかな。かなり昔からの付き合いがあるそうです。そうですね――小さいころの記憶を辿ってみて、家と笠原さんの家との折り合いは悪くなかった様に思えます。何と言うか私の父はお人よしなところがあって、激高する笠原さんに対して、まあまあ。となだめる様な言い方が出来た人なんです。笠原さんも父にそう言われると、それ以上は何も言わない様になったりして」

「なるほど、では、お父様が亡くなってそのバランスが崩れてしまったのでしょうかね」

「それも少し違う気がするのです。私の感覚的なものなので、聞き流して欲しいのですが、……私は普段、仕事で家に言えないことが多いので、詳しい事はわかりませんが、その右隣の家に激高した笠原さんをなだめようと父が出張った様なんですけれども、逆に父が返り討ちにあってしまったと、笑って話していたことがありまして」



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