“風見鶏”と呼ばれた男の信条

佐倉伸哉

本編

 元和四年(西暦一六一八年)九月。

 時の将軍・徳川秀忠の嫡男・竹千代(後の家光)は、藤堂“和泉守いずみのかみ”高虎の屋敷を訪れていた。

 竹千代、この時十五歳。まだ元服は済ませていないが、父・秀忠から将軍職を継承するのは既定路線となっていた。竹千代もその事を自覚しており、父や祖父・家康の名を汚さないよう立派な将軍になるべく、日々研鑽を積んでいた。

 その一環として竹千代が積極的に行っていたのが、戦国乱世を生き抜いてきた猛者達から話を聞く事だった。

「参ったぞ、和泉守」

 まだ十五歳ながら、既に君主としての風格を漂わせつつある竹千代。声に幼さはなく、年上で歴戦の猛者を相手にしても堂々としていた。

「お待ちしておりました、竹千代君」

 竹千代の来訪で、丁重に頭を下げる高虎。

 藤堂高虎、現在六十三歳。伊勢津藩三十二万石の大名で、外様出身ながら譜代格の扱いを受けていた。長躯ちょうくでガッシリした体型には、歴戦を生き抜いてきた象徴とも言える傷があちこちに見られる。

 竹千代が上座に、高虎が下座に座り、それぞれに茶が出されるのを待ってから竹千代は切り出した。

「本日は、和泉守に是非聞きたい事があるのだ」

「ほう、それがしで良ければ何でも答えましょうぞ」 

 竹千代の問いに、高虎は相好を崩す。間を置かず、竹千代はたずねた。

「和泉守、お主は主君を七度変えたと聞いている。それは事実か?」

「はい。事実でございます」

 藤堂高虎は、異色の経歴の持ち主だ。元は近江の土豪の生まれで、最初は浅井家に仕えて元亀元年(一五七〇年)の姉川の戦いで初陣を果たした。その後、浅井家が滅亡すると、阿閉あつじ家・磯野家と浅井家旧臣に仕えるも長続きはせず。天正四年(一五七六年)に羽柴秀長につかえると徐々に頭角を現していき、大和豊臣家の家老にまで登り詰めた。しかし……秀長が病没し、後継ぎの秀保ひでやすも謎の死を遂げて大和豊臣家が改易となると豊臣家に転籍。その頃から豊臣家内の実力者である徳川家康に接近し、秀吉亡き後は徳川方にくみした。

 主君を変える事、七度。その数の多さから高虎を快く思わない者達からは“風見鶏”と陰口を叩かれていた。

 しかし、変節を繰り返してきた事を高虎は恥じる様子はなかった。

「武士が“仕えるにあたわず”と思えば、主家を変えるのは当然の事。先のない家に仕えて一緒に沈むのは真っ平御免ですから」

 仕える家に忠義を尽くす考えは、泰平の世が続くもう少し先の時代の話だ。主君が家臣をクビにするだけでなく、家臣の側も主君の器量に疑問を持てば三行半みくだりはんを叩きつける事も珍しくなかった。勿論、一つの家にずっとつかえる武士も多かったが、陣借りを主とする土豪は“自分の能力を高く買ってくれる”事を第一に考える者が特に多かった。

「和泉守は七度主君を変えたが、一番良かったのは誰だったのだ?」

「それは勿論、大和やまと大納言だいなごん様です」

 高虎が即答したのは、豊臣秀長。徳川家に仕える身ながら四年前まで敵だった豊臣の名が出てきた事に、竹千代は身じろぎもしなかった。

「……御祖父様おじいさまではないんですね」

権現様ごんげんさまにも格別の計らいを頂きましたが、大納言様との出会いで某は一廉ひとかどの武士になる事が出来ました。そう思うと、感謝してもしきれません」

 しみじみと語る高虎。竹千代としては尊敬している祖父・家康より秀長を選んだ事に少々不満顔だが、高虎は昔を懐かしむように続ける。

「大納言様と出会うまでの某は、血気けっきはやった猪武者でした。しかし、大納言様に出会いお仕えするようになり、“腕っ節が強いだけが武士ではない”事を学びました」

 秀長は主に兄・秀吉の裏方を務めていたが、主君の働きを間近で見ている内に“武家の仕事は戦ばかりではない”と気が付いた。秀長の勧めもあり、高虎は書物を読んだり石工集団の穴太衆あのうしゅうと交流したりして、戦働き以外の事を積極的に学ぼうと努めた。その結果、高虎は武将としての活躍だけでなく城造りの分野でも存在感を示し、秀長に仕え始めた時は三百石の扶持米を貰う身だった高虎は、秀長の下で着実に出世を重ねて二万石の大名格にまで成長した。

 草履取りの身分から天下人にまでのし上がった秀吉は自らの才覚もあったが、陰日向かげひなたから支える弟・秀長の存在も大きかった。決して功を求めず、“縁の下の力持ち”に徹した秀長の貢献度は計り知れない。

「某がこうして竹千代君の前にあるのも、運が開けるきっかけを下さった大納言様の他に措いてありません。だからこそ、別れは非常に辛かったですが……」

 そう語る高虎の目には、薄っすら涙が滲んでいる。それくらい、高虎にとって大きな人物だったのだと竹千代は推察出来た。

 高虎の主君であり恩人でもある秀長は、天正十九年(一五九一年)一月に病死。家督はおいで養子の秀保を高虎は支えたが、僅か四年で不審の死を遂げてしまい、大和豊臣家は断絶となってしまった。失意のどん底にあった高虎は出家して高野山こうやさんに入ったが、その才を惜しんだ秀吉の説得もあり還俗げんぞく、豊臣家の家臣として復帰した。

 しかし、秀長の死はそう簡単に埋まるものではなかった。朝鮮出兵では水軍を率いて戦ったが、心は豊臣家から次第に離れつつあった。

「……そうした中で、どうして御祖父様に味方しようと考えたのだ?」

 竹千代が訊ねると、高虎ははっきりと答えた。

「まず第一に、太閤たいこう殿下でんか亡き後に天下人になれると思ったから。加えて、人の痛みや苦労が分かる御方でした」

 絶対的な君主だった秀吉の老い先が短いから次の天下を獲れる人に接近した。要約すれば身も蓋もない話だが、これは非常に重要な事だ。時勢を読み間違えれば御家が潰れてしまう。秀吉の後継ぎの秀頼はまだ子ども、天下の舵取りが出来る筈がない。高虎は次の天下人は家康だと睨み、秀吉存命時から家康に近付いたのだ。

 この変わり身の早さがまた反感を買うのだが、高虎自身に負い目はない様子。一族郎党の未来が掛かっているのだ、外野にとやかく言われる筋合いはない、と考えているのだろう。

 高虎と家康の出会いは、天正十四年(一五八六年)十月。秀吉の形振りなりふり構わぬ懐柔策に根負けした家康が上洛してきた際、聚楽第じゅらくだいの敷地内に建設する家康の屋敷を高虎が任された。高虎は「家康は豊臣家にとって大切な御方、豊臣家の威信に関わる大事な仕事」と捉え、設計を独断で変更して(変更箇所の費用は高虎が負担)素敵な屋敷を建てた。家康が設計図と異なる事を指摘すると、高虎は「天下に名高い三河守様に満足頂けないとなれば、豊臣家の面目に関わると思い、某の独断でやりました。気に入らないのであればこの場で始末して下さい」と正直に打ち明けた。家康は高虎の細やかな心遣いに感謝した……という。

 当時、家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を治める実力者。それにも関わらず、陪臣の高虎に対して感謝するというのは、なかなか出来る事ではない。そうした経緯もあり、高虎は「次の天下人は家康だ」と信じて接近したのだ。家康の方も、まだ旗幟が鮮明になっていない段階で豊臣家譜代の高虎が味方し、自らの天下獲りに尽力してくれた事を鑑み、三十二万石の大名に取り立てたのだろう。

「……和泉守の話を聞いていると、主君を裏切るような行いはしていないのだな」

「はい。道は違える事となりましたが、主君に恩を仇で返す真似は致しませんでした」

 高虎は胸を張って、そう答えた。

 自分の能力を買ってくれる主君を求めて浪人となる事を重ね、秀長という唯一無二の主君に出会えた事で高虎は花開いた。若い頃も自分の働きが評価されなくても腐る事なく与えられた仕事をまっとうするように努力はしてきた。その積み重ねがあって、今があるのだ。

「最後に、人の上に立つ上で必要な事を教えてくれないか」

 竹千代がただすと、高虎は少し考え込んでから、ゆっくりとした口調で明かしてくれた。

「……家臣達の働きを依怙贔屓えこひいきせず評価する事、でしょうか。それと、何かしてもらう事を当たり前と思わず、感謝する気持ちを忘れない事、ですかね。あと、人の出会いを大切になさって下さい」

 流石は、七度主君を変えた高虎だ。苦労人だけに言葉に重みがある。これまで戦国乱世を生き抜いてきた大名に何人も話を聞いてきたが、高虎のような意見は出て来なかった。

 竹千代は高虎の話を心の中で反芻はんすうし、よく噛み締めてから答えた。

「相分かった。此度こたびは貴重な話を聞かせてくれて、感謝する。立派な将軍になれるよう、努めようぞ」

「ははっ」

 凛々りりしく宣言すると、高虎はかしこまって頭を下げた。


 元和九年(一六二三年)七月、家光は将軍に宣下された。

 将軍になってからも、家光は戦国時代を生き抜いてきた大名家の屋敷を訪れて、過去の話に耳を傾けた。戦を経験していない世代の家光は、少しでも武家の棟梁として相応しい姿を追い求める事を止めなかった。

 その姿勢は、もしかしたら高虎との出会いが関係していた、のかも知れない……?

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“風見鶏”と呼ばれた男の信条 佐倉伸哉 @fourrami

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