お嬢様が十歳になり、いつの間にかシリウスの声も低くなった頃。


 いつも通り、雨の日の夜に向かえば、いつもは椅子に腰掛け本を読んでいるシリウスが、棚と棚の間に立って私を待っていた。

 その手に、果物ナイフを持って。

「……シリウス?」

 雨露を払う暇も惜しいと、外套を床に投げ捨て、彼の元に駆け寄る。

 普通なら殺される危険性もあるだろうけれど、私は吸血鬼、斬られようが刺されようが死ぬことはない。

 来るなと拒まれなかったこともあり、目の前まで来れた。

「何かあった?」

 目線を上に、問い掛ける。

 出会った時は私よりも小さかったのに、気付いた時には、頭一つ分、身長を追い越されていた。

「……」

 いつもと、何かが違う。

 少し身構えていると、彼が口を開いた。

「──ミス・オールド」

 緊張しているのか、その声は震えている。

 何も言わない方がいいかと、黙って続きを待つ。

「……」

「……ミス・オールドは、さ」

 じっと、紫の瞳で私を見てくるシリウス。


「僕の血を、飲みたいと思う?」


「……っ」

 思わず、息を飲む。

 そんなこと、考えたこともなかった。

 彼はただの友人で、それに子供だ。

 子供の血は、子守りになってからは一切口にしていない。身体が小さいから、誤って吸い尽くしてしまうかもしれないし。

 必要な分は毎日飲めているから、一緒にいて飢餓感を覚えたこともない。

 それなのに、何故、そんなこと。

「ふとさ、出会ってからこれまで、求められたことないと思って。吸血鬼はどういう時に血が欲しくなるんだろうって調べたら、その……」

 恥ずかしくなってきたのか、果物ナイフを持っていない手で口を隠してしまった。

「おと、大人じゃないと、やっちゃいけないことって」

「……っ!」

 何の本を読んだのか!

 一気に頬が熱くなってきた。

「……ミス・オールドは、その、僕に対して思ったことはない?」

 口から手を離しながら、問い掛けてくる。

「僕の血を、一瞬でも、飲んでみたいと思ったことはない?」

 言いながら、果物ナイフを持ち上げて、直線を書くように、自分の反対の掌に刃先を這わせていく。

 同じ所を、二回、三回と。

「シリウス!」

 彼の両手を掴む。でも手遅れだ。

 私の目は、流れ出る彼の血に釘付けだった。

「駄目よ、シリウス、血が」

「……舐めてくれない、ミス・オールド」

「……っ」

 こうやって、飢餓感を覚えないように、必要な分を飲んでいるはずなのに。

「気付いてる? 僕、君よりずっと年下かもしれないけれど、君よりも大きくなっ……」

 小さく呻いたと思えば、果物ナイフが床に落ちる音がする。

 強く、掴み過ぎたか。

「……欲しい?」

 答えられない。

「ねぇ、ミス・オールド」

 目が離せない。


「君の好きにしていい」


 その言葉で無理だった。

 私の自制心なんてその程度らしい。

 舌を這わせ、吸い付いて。

 美味しく、美味しく、頂いて。

 ──気付いた時には、シリウスを押し倒していた。

「……いい?」

「……どうぞ」

 首に牙を突き立てる瞬間、思った。

 全部は吸い尽くさないように、気を付けようって。

 ブレイクスミス家に雇われてからの出会いで良かった。

 そうでなかったら、きっと。


◆◆◆


 以来、話すだけでなく、吸血もさせてもらうようになり──もう少し時間が経てば、それだけで終わらなくなって。

「ミス・オールド」

 とんと背中を叩かれ、牙を抜いていく。

 彼の紫色の瞳はとろんとしている。

 ぼんやり眺めていたら、彼の顔が近付き──。

 すぐに離れて、私の温もりが残ったその口で、言うのだ。


「ミセス・オールドになる気はない?」


 それを言われるようになったのはいつだったか。

 何度聴いても、瞬時に胸が熱くなってくる。

 頷いてしまいたくなるけれど、

「……お嬢様が大人になるまでは、傍にいないと」

 そう返している。

 まだ、お嬢様は子供で、その間、私は子守りだから。──そんな風に、返事を濁して。

「……そうだったね、いつも困らせてごめ」

 謝罪の言葉をもらす口を塞ぐ。

 ひとしきり味わえば、離れて。

「後で……話を聴かせてもらえる? 寝物語のネタが切れてしまったの」

「たくさん仕入れてるから安心して。君が疲れて寝た時の為に、紙に書き起こしてもいるから」

「何言ってるの、寝るのはいつもあなたでしょ?」

「気持ち良さそうに眠る君の寝顔を見たことあるけど?」

「夢よ、それ」

 そんな話をしながら、互いの手を絡め、横になれる所へと移動する。

 人間の時間はあっという間。

 夜は更に短い。

 一分一秒が惜しくて堪らない。

 ……この時間を永遠にする方法もなくはないけれど。


 それを決めるのは、私じゃないから。


 雨は降り続く。

 その音を楽しめるのは私と彼のみ。

 けれど日が昇るその時まで、お互いの声しか、耳には届かなかった。

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雨降りと真夜中の本屋 黒本聖南 @black_book

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