5
お嬢様が十歳になり、いつの間にかシリウスの声も低くなった頃。
いつも通り、雨の日の夜に向かえば、いつもは椅子に腰掛け本を読んでいるシリウスが、棚と棚の間に立って私を待っていた。
その手に、果物ナイフを持って。
「……シリウス?」
雨露を払う暇も惜しいと、外套を床に投げ捨て、彼の元に駆け寄る。
普通なら殺される危険性もあるだろうけれど、私は吸血鬼、斬られようが刺されようが死ぬことはない。
来るなと拒まれなかったこともあり、目の前まで来れた。
「何かあった?」
目線を上に、問い掛ける。
出会った時は私よりも小さかったのに、気付いた時には、頭一つ分、身長を追い越されていた。
「……」
いつもと、何かが違う。
少し身構えていると、彼が口を開いた。
「──ミス・オールド」
緊張しているのか、その声は震えている。
何も言わない方がいいかと、黙って続きを待つ。
「……」
「……ミス・オールドは、さ」
じっと、紫の瞳で私を見てくるシリウス。
「僕の血を、飲みたいと思う?」
「……っ」
思わず、息を飲む。
そんなこと、考えたこともなかった。
彼はただの友人で、それに子供だ。
子供の血は、子守りになってからは一切口にしていない。身体が小さいから、誤って吸い尽くしてしまうかもしれないし。
必要な分は毎日飲めているから、一緒にいて飢餓感を覚えたこともない。
それなのに、何故、そんなこと。
「ふとさ、出会ってからこれまで、求められたことないと思って。吸血鬼はどういう時に血が欲しくなるんだろうって調べたら、その……」
恥ずかしくなってきたのか、果物ナイフを持っていない手で口を隠してしまった。
「おと、大人じゃないと、やっちゃいけないことって」
「……っ!」
何の本を読んだのか!
一気に頬が熱くなってきた。
「……ミス・オールドは、その、僕に対して思ったことはない?」
口から手を離しながら、問い掛けてくる。
「僕の血を、一瞬でも、飲んでみたいと思ったことはない?」
言いながら、果物ナイフを持ち上げて、直線を書くように、自分の反対の掌に刃先を這わせていく。
同じ所を、二回、三回と。
「シリウス!」
彼の両手を掴む。でも手遅れだ。
私の目は、流れ出る彼の血に釘付けだった。
「駄目よ、シリウス、血が」
「……舐めてくれない、ミス・オールド」
「……っ」
こうやって、飢餓感を覚えないように、必要な分を飲んでいるはずなのに。
「気付いてる? 僕、君よりずっと年下かもしれないけれど、君よりも大きくなっ……」
小さく呻いたと思えば、果物ナイフが床に落ちる音がする。
強く、掴み過ぎたか。
「……欲しい?」
答えられない。
「ねぇ、ミス・オールド」
目が離せない。
「君の好きにしていい」
その言葉で無理だった。
私の自制心なんてその程度らしい。
舌を這わせ、吸い付いて。
美味しく、美味しく、頂いて。
──気付いた時には、シリウスを押し倒していた。
「……いい?」
「……どうぞ」
首に牙を突き立てる瞬間、思った。
全部は吸い尽くさないように、気を付けようって。
ブレイクスミス家に雇われてからの出会いで良かった。
そうでなかったら、きっと。
◆◆◆
以来、話すだけでなく、吸血もさせてもらうようになり──もう少し時間が経てば、それだけで終わらなくなって。
「ミス・オールド」
とんと背中を叩かれ、牙を抜いていく。
彼の紫色の瞳はとろんとしている。
ぼんやり眺めていたら、彼の顔が近付き──。
すぐに離れて、私の温もりが残ったその口で、言うのだ。
「ミセス・オールドになる気はない?」
それを言われるようになったのはいつだったか。
何度聴いても、瞬時に胸が熱くなってくる。
頷いてしまいたくなるけれど、
「……お嬢様が大人になるまでは、傍にいないと」
そう返している。
まだ、お嬢様は子供で、その間、私は子守りだから。──そんな風に、返事を濁して。
「……そうだったね、いつも困らせてごめ」
謝罪の言葉をもらす口を塞ぐ。
ひとしきり味わえば、離れて。
「後で……話を聴かせてもらえる? 寝物語のネタが切れてしまったの」
「たくさん仕入れてるから安心して。君が疲れて寝た時の為に、紙に書き起こしてもいるから」
「何言ってるの、寝るのはいつもあなたでしょ?」
「気持ち良さそうに眠る君の寝顔を見たことあるけど?」
「夢よ、それ」
そんな話をしながら、互いの手を絡め、横になれる所へと移動する。
人間の時間はあっという間。
夜は更に短い。
一分一秒が惜しくて堪らない。
……この時間を永遠にする方法もなくはないけれど。
それを決めるのは、私じゃないから。
雨は降り続く。
その音を楽しめるのは私と彼のみ。
けれど日が昇るその時まで、お互いの声しか、耳には届かなかった。
雨降りと真夜中の本屋 黒本聖南 @black_book
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