ある日、森の中

くにすらのに

第1話

 クマさんに出会った。

 もちろん恋が始まるような運命の出会いの比喩ではない。

 2メートル近い巨大な体は艶やかな黒い毛に覆われて威圧感を放っている。


 合コンも開けないご時世に独身OLが辿り着いた境地である登山趣味の第一歩。気合を入れて装備を整えて挑んだ初めての山登りで熊に出会ってしまった。


 え? あたしここで死ぬの?

 初心者用のハイキングコースを選んだのになんで熊?

 うっかり道を間違えたはずはない。山道とは言えそれなりに整備されている。

 ほら、順路って書かれた看板だってある。


 この間わずか0.01秒。一瞬にも満たない時間にこの思考をし、その結果あたしの喉は悲鳴を上げそうになっていた。


「き……」


 しかし、極限の恐怖状態は身体能力を著しく低下させるらしい。

 声が喉の奥で引っ掛かったように叫ぶことができない。


「あの、驚かせてしまってすみません」


 突然目の前に立ちはだかる熊が話しだした。

 ただでさえ恐ろしい熊が人間の言葉を喋り出したら恐怖は限界を突破する。

 足どころか全身から力が抜けていく。


「すみません! 今脱ぎますから」


 熊の頭が取れた。のではなく、どうやら精巧に作られた着ぐるみらしい。

 中から出てきたのは綺麗な顔立ちのお姉さん……いや、きっとあたしより年下だ。

 頭に付けた手ぬぐいを外すと長い黒髪がさらりと流れる。

 

 着ぐるみの中はきっと蒸れているだろうに一瞬で美女である事実を突き付けられる。これが本物かと同性のあたしは納得させられた。


「恐がらせてしまってすみません。実は今度の舞台でこれを着ることになりまして、慣れるために登山してたのですが」


「え? その恰好で?」


「はい……この時間なら誰もいないかなと思って」


「まあ、普通はそうですよね」


 時刻は午前7時前。登って降りて家に帰るまでが登山だ。どれくらいの時間が掛かるかわからなかったあたしは気合を入れて早朝の登山にしゃれ込んだというわけだ。


「やっぱりこれを着て外を歩くのはダメみたいですね」


「せめて頭は脱いだ方がいいかもですね。その綺麗な顔なら体が熊でも通報されることはなさそうですから」


「き、綺麗って私のことですか!?」


「ええ、そうですけど」


 通報されることはないと自分で言ったものの体が熊で顔が美人だと違和感がとてつもない。さらに舞台に立つだけあって声も透き通っていてそのハイテンションボイスが脳を直接刺激した。


「私、いつも着ぐるみの役ばかりなので舞台映えしないのかなって悩んでたんです。お姉さんみたいな可愛らしい方に褒められてちょっと自信が出ました」


「か、可愛いらしい。あたしが?」


「はい! 小柄で童顔で、それなのに熊と出会っても下手に騒がない冷静さを持つお姉さん。憧れます」


「ちょっといい? なんで童顔なのにあたしをお姉さんだと思ったわけ?」


「あ! すみません。私が18歳なのでこんな朝早くから登山するのは年上の方かなと……違っていたらすみません」


 自称18歳の……いや、きっと本当に18歳だろう。夢に向かって真っすぐと突き進むその姿や少し抜けているところは年相応の幼さを感じる。

 それにしても最近の18歳って本当に綺麗だ。メイクや肌ケアだけじゃない美人の素質を親から受け継いでいるのだろう。

 可愛いや綺麗はたしかに作れる。が、やはり天然素材が良いに越したことはない。


「お姉さん! よければ一緒に頂上まで行きませんか? 誰かと一緒なら怪しまれないでしょうから」


「いや、さすがに怪しいと思うわ。その時はあたしが弁護してあげる」


「ありがとうございます! さすが大人のお姉さんです」


「さすがに熊女を野放しにはできないもの。それに、あたなに興味が出ちゃった。舞台っていつやるの?」


「それはですね」


 こうして、あたしと熊女は山道を共にすることになった。

 まさか今日という日が男への未練を捨て、彼女に本物の愛を注ぐ第一歩になるなんてね。


 バイバイ。昔のあたし。

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