未来へのビデオレター
人の記憶とは不思議なものだと千尋は思う。今の自分は一週間しか記憶を保持出来ず、それが過ぎれば三年前の事故直前まで記憶だけがタイムスリップしてしまう。
体は27年間生きてきたが、記憶は24年間で止まったまま。だから三年間の記憶は残っていない。どんなに集中して思い出そうとしても頭が痛くなるだけで、ぼんやりとすら思い出せない。それでも。
脳で記憶をしていなくても心で記憶しているとでも云うべきか。
記憶として思い出すことは出来なくても、この三年間の出来事はちゃんと
(たった一週間でこんなにも玄太のことを好きになるはずないもの)
玄関に座り込んでブーツを履こうとしている玄太の背中を見つめながら千尋は思う。
一週間前の自分は体はともかく、記憶では24歳のままだった。言い換えれば事故から三年経っていたとしても24歳の千尋だった。でも今は27歳の千尋であると断言出来る。
たった一週間しか過ごしていないとしても、支えてくれた二年間、付き合ってきた一年間は記憶がなくても心と体が知っている。
玄太はほぼ毎日部屋に来てくれて、終電ぎりぎりまで過去の出来事をいろいろ話してくれた。もう何度も同じことを話しているのに嫌な顔ひとつせず。
週末は泊っていくこともあるが、火曜の夜だけは早い時間に帰る。明日の千尋の為に千尋はビデオレターを撮らなければならないからだ。
「――それじゃぁ、明日の朝。いつもの時間に来るよ」
ブーツを履き終えた玄太が爽やかな、それでいて心なしか照れたような顔付きで別れの挨拶をする。
「う、うん。わ、わかった」
対して千尋は視線を下に向ける。気まずいというよりはテレテレで玄太の顔をまともに見ることが出来ない。
(もうッ! なんでそんなに平然としていられるのよッ!)
自分と違ってほとんど動揺を見せない玄太に対して理不尽な怒りが込み上げる千尋。
「じゃ、おやすみ」
「あ、うん。おやすみ。き、気をつけて帰ってね」
千尋の言葉に笑顔で応えると玄太は部屋をあとにした。
「ふぅー」
玄関の扉が閉まるのを見届けると大きく息を吐く。
プロポーズされた。結婚しよう、と。
『もちろん返事は急がない。ゆっくりと時間をかけて二人で話あってくれて構わない。納得出来るまで俺は待つから』
正直、驚きと戸惑いが大きかった。こんな自分が、一週間しか思いを共有出来ず、その一週間でさえ忘れてしまう自分が共に生きていけるのだろかと。
でもそれと同じくらいに嬉しかった。
二年間支えてくれたことを覚えている心が喜びに震えている。
(多分明日のわたしは理解出来ずに戸惑うだろうけど)
そう思いつつスマホを使って自撮りの準備をする。
先週のビデオレターには無かった大きな出来事を明日の自分に報告する為に。
この後眠りにつけば彼を好きだという気持ちを忘れることになる。それはある種、想い人との別れ。
それでも。
恐れることなく眠ることが出来る。
明日の朝になれば彼と出会い好きになると確信出来るから。
これからもきっと千尋の恋は水曜日の朝に始まるのだ――。
――了――
水曜の朝に始まる恋愛事情 維 黎 @yuirei
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