水曜の朝に始まる恋愛事情

維 黎

過去からのビデオレター

「――あ」


 意図せず零れる吐息。

 目覚めて最初に視界に入るのはアイボリーホワイトの天井。


(――天井? あれ? わたし……)


 意識も記憶も曖昧な目覚め。

 寝起きであることをかんがみれば別段不思議に思う状況ではないが、この時点での彼女は今の状況を不信に思っても仕方のないことではあった。


(寝てた? 自転車ぶつかって――って、どこ? ここ?)


 仰向けから上体を起こす。

 どうやらベッドに寝ていて目が覚めたことは理解出来たが記憶にない。いつの間に寝たのかはもちろん、――ない。

 記憶の混乱による鈍い頭痛。

 彼女は頭を抱えつつも一度大きく深呼吸をして自らを落ち着かせる。


「――ふぅ。落ち着けわたし。えぇと……うん、知らない部屋だ」


 体を捻りながら部屋全体を見回してみるが、やはり知らない部屋であることは間違いない。

 自分自身を見下ろしてみる。

 上下ピンク地のパジャマにはあちこちに白猫が踊っていた。


「かわいい。わたし好みのパジャマね。――買った記憶ないけど」


 部屋には誰もいないが言葉にする。

 思いっきりひとり言だと自覚するが、正直今の状況が怖い。しゃべっていないと不安に押しつぶされそうな気がしてくる。


「ええと、確か――いつも通り自転車で会社に行って――右から車が急に飛び出してきたと思ったら空が見えて……」


 思い出せる記憶はそこで止まっている。その後のことは何もない。


「――榎本えのもと千尋ちづる。24歳、独身。彼氏いない歴――は置いといて。お父さんとお母さん、おまけに弟の四人と一緒に実家暮らし」


 自分の状況を知る為に自分自身の記憶を探る。


「吞み友はともえ葉月はづき久子ひさこ――は高校からの親友、好みのタイプは福士蒼汰……」


 すんなりと過去じぶんを思い出せる。


「――あっ! 会社ッ! 今、何時!?」


 哀しいかな、こんな状況にあっても"遅刻"というキーワードが思い浮かぶのは会社勤めのさがとしか云いようがない。

 部屋に時計はなかった。ベッドの枕元にスマホも置いていない。

 ベランダの窓際の隅にテレビ。その前には丸テーブル。その上にノートパソコンが開いたままで置かれている。電源は入っていない。


 千尋はベッドから降りて丸テーブルの前にペタンと座ると、パソコンを立ち上げようとして気づく。真っ暗なディスプレにメモ用紙が張られていることに。


"千尋。今のあなたは混乱していると思うけどまずはパソコンを起動して。そうしたら画面真ん中にあるフォルダの中の動画を見てね。それからとりあえず会社は大丈夫。気にしなくてもいいからまず動画を見てちょうだい"


 メモに書かれている筆跡は千尋自身のそれに似ている。

 千尋は首を傾げつつ、とりあえずメモの指示通りにノートパソコンを立ち上げた。

 OSの起動音と共にアイコンの少ないシンプルなディスクトップが表示され、メモの通り画面中央に黄色い『新しいフォルダ』が一つ。開けてみると動画ファイルが一つだけ入っている。

 とりあえず千尋は記号の羅列のファイル名をクリックしてみる。


『おはよう、千尋。今あなたは混乱して怖い思いをしているけど、まず最初にそこは安全よ。大丈夫。これからあなたに何が起こったか説明するけど、とりあえず身の危険は今もこれからもないことを保証するから、落ち着いてこの動画を見てね』


 動画を見て千尋は目を見張る。まさか自分自身が出てくるとは予想出来なかった。ただ、ふと気づく。動画でしゃべっているのは確かに千尋だけれど何かちょっと違う。


(――なんて云うか……いつも鏡で見てる顔よりふけ――大人びているような)


 そんな風に考え込むとわかっていたかのように、動画の千尋はしばらくを置いていたが話の続きを始める。


『いい? ゆっくりと落ち着いてよく聞いてね。あなたは――」





 動画の再生時間は残りわずかというところだったが、千尋は我慢出来ずに一時停止をクリックする。


「――マジですか」


 そう呟くと千尋はごろんと寝転がり見知らぬ部屋の――それでいてを見上げる。

 動画の千尋が告げた内容は衝撃的過ぎた。彼女はこう告げたのだ。あなたは――と。

 パソコンの画面右下の日付をクリックしてカレンダーを確認してみると2022年3月の表示と16の数字が四角で囲われ、青く反転していた。曜日は水曜。千尋の記憶では


 それからこの三年間での大きな出来事を説明された。

 一週間しか記憶出来ないこと以外は、肉体的なことも含めて後遺症はないこと。

 事故から三か月後、職場復帰は無理と判断して会社を辞めたこと。

 事故から二年間、実家いえに引き籠っていたこと。

 引き籠って一年が過ぎた頃、元会社で同期入社の石崎いしざき玄太げんたが、様子見と見舞いで訪れて以来ずっと励ましてくれたこと。

 玄太の支えのおかげで一年前に実家を出て部屋を借り、一人暮らしをしていること。

 自分の貯金と両親の仕送りでやりくりしていること。

 玄太と付き合っていることなどなど。


「――いや、石崎と付き合ってるとか云われても困るんですけど……」


 戸惑いしか浮かばない。

 会社の飲み会や同期会などで一緒に飲んだことはあるが、同僚以上に親しくなった記憶は――ない。少なくとも彼を異性と意識したことはないし、好意を向けられたこともないと思う。


「一体何があったわたし。そして石崎よ」


 そう呟いてみるがそこで気づく。不安や恐怖がずいぶん薄らいでいることに。

 記憶が一週間しか持たず、それが過ぎれば三年前の事故直前の記憶に戻るなんていうトンでも話を知らされた割にはほとんど動揺していない。

 千尋は軽く頭を振ると残りの動画を再生する。


『――だから細かな出来事はいらないけど、大きな出来事に関してはメモするなり写真や動画を撮るなりして、記憶として記録してちょうだいね――と、まぁ、説明はこれくらいかしら。そうそう。今のあたなはずいぶんと落ち着いて不安もほとんど感じられなくなっているんじゃないかしら? わたしも経験者だから教えてあげる。それは玄太の名前を訊いたからなのよ。だから大丈夫。この動画が終わる頃にチャイムが鳴るから開けてあげて。きっと玄太だから。詳しいことはに訊いてちょうだい。じゃ、がんばって』


 最後に千尋が千尋へ激励の言葉を贈ったところで動画は終わる。と、同時に玄関のチャイムが鳴った。

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