はじめましてとさようなら

今衣 舞衣子

はじめましてとさよなら

 私、田丸絹子。まずは窓際に飾っているお花の水替えをするの。その後は、お着替えをしてね。そしたら、あなたの大好きなバターをたっぷり塗りたくったトーストを食べて良いから。


 朝、目覚めると初めに目に留まるのがそのメモなんです。

 読み上げた途端に、ああ私という人物はこんな人なんだ、なんて気づくんですよ。

 すると次々と頭の中に、やらなくちゃならないことが浮かび上がって、ひとまずメモの通りに、こなしていくんです。

 花瓶の水を替えて、箪笥からブラウスと黄緑のカーディガンなんて取り出して、着替えますの。心はすっかりと春気分です。


 こうしてメモしてある事柄を終えまして、チェアに腰掛けて、トーストをかじってますと、家のインターホンが鳴るんです。

 おやおや、お肌が真っ白くて黒髪の素敵な愛らしい女性がやって来ますの。

「絹子さん、おはようございます」って元気な挨拶をしてくれるんです。

 彼女の声を聞くと、不思議と心が安心するんです。

「おはようございます…えーっと…」

山科やましなです!」

「ああー!山科さん!おはようございます」

 私が名前を覚えていなくても、彼女はにっこりと笑って、名前を教えてくださるの。


「今日はとても暖かくなるみたいですよ」

「ああ、そうなんですね」

 山科さんはお客様なのに、テキパキと家の中を動き回って掃除や洗濯、私の話し相手、さまざまなことを器用にこなしていくんです。

 そんな彼女の姿を追いかけながら、私はふと頭に浮かんだ言葉を口にしました。

「公園に行きたいのだけれど…」

 何だか私はとても恥ずかしくて、小声で言いました。でも、とても行きたくて堪らないんです。

 すると、山科さんは作業する手を止めて私の方を振り返って、

「はい!もちろんです」

 って笑って下さるんです。その声に私はホッとしますの。


 公園に着くと桜が満開に咲いていました。青い空に桃色の花が重なって、とても美しくて、自然と足が止まってしまいますの。

「絹子さん、あそこのベンチに座りましょうか」

「そうですね」

 2人肩を並べてベンチに座りました。こうして、桜を眺めていると、何だか懐かしい気持ちになるんです。とても温かで心地良い感覚です。


「こんにちは、絹子さん」

 ふと、名前を呼ばれまして、そちらに目配せますと、素敵なハット帽子を被り、スーツを着こなしました、紳士的な方がいらっしゃいましたの。

「こんにちは…」

 ただ、私は困惑してしまいました。とても人柄の良い笑顔をしているのですが、初めてお会いした方でしたので…

 けれど、その老紳士は言葉をつづけました。

「良いお天気ですね。春色のカーディガンがとてもお似合いで思わず声をかけてしまいました。はじめまして、秦野郁雄と申します」

「まぁ、なんて嬉しいお言葉」

 うふふ、私の心ってとても単純でして、今朝、選んだカーディガンを褒められたことがとても嬉しかったんです。

「郁雄さん、ありがとうございます」

 すっかりと郁雄さんに心を許してしまいました。けれど、それだけが理由じゃないんですよ。山科さんを目にした時と同じで安心しましたの。

「お隣、失礼しても」

「もちろんです」

 私を真ん中に山科さんと郁雄さん、3人でベンチで肩を並べました。

 ふと、郁雄さんと山科さんが親しげに会釈を交わしましたの。

「あら、お二人はお知り合いなの?」

 そう私が首を傾げますと、2人とも顔を合わせて笑いながら、

「いいえ、はじめまして、郁雄さん。私、山科って言います」

「こちらこそ、はじめまして、山科さん」

 山科さんと郁雄さんは同じ様に会釈を交わしました。


「もうすっかり春ですね」

 郁雄さんが桜を眺めながら言いました。

「ええ。ほんの少し前まで朝の目覚めが億劫でしたのに、今朝は気持ち良い目覚めでしたよ」

 私がそう言いますと、郁雄さんは穏やかに微笑みまして、

「同感です」

 とおっしゃってくれました。

「ここの桜は昔から美しいですよ」

「あら、郁雄さん。昔からこちらにお住まいなの?私もよ」

「そうですか。実はね、私は上京して来たんですよ」

「そうなんですか」

 どうやら、郁雄さんは東北の生まれだそうで、学生時代にこちらへ越してきた様です。

「ええ。大学のキャンパスがこの辺でね。まだ、私が青二才の頃でしたから、こちらの生活に中々馴染めなかったんですよ。周りは洒落た人ばかりで」

 郁雄さんは、その日々を懐古するように目を細めました。

「そんな時、ふとこちらの公園に立ち寄ったらね、素敵なお嬢さんがここのベンチに座って、まぁなんとも微笑ましい顔をして桜を眺めていたんですよ」

「そうなんですね」

 私はその話を聞いて、何とも心がほっこりとしました。不思議と老紳士の郁雄さんが学生時代の溌剌はつらつとした姿に見えましたの。

 きっと、そのお嬢様もこんな素敵な方に見惚れられていたと思ったら堪らないでしょうね。なんて、考えたりしました。

「素敵な思い出なんですね」

「はい」

 郁雄さんは、とても幸せそうに微笑みました。白い髭も眉も、全てが眩く見えました。


 こうして、私たち3人はしばらく桜を眺めました。そして、別れは突然にやって来ます。

「では、そろそろ」

 郁雄さんはハット帽子を外しまして、私たちに目配せました。

「とても楽しい時間でした」

 私は心底、心寂しい気がしました。けれども、郁雄さんの顔を見ていると、また会える気がしましたの。

「ああ、私もです。では、さようなら、絹子さん」

 郁雄さんも、きっと同じ事を思ったのでしょうね。とても爽やかな声色でお別れの挨拶をしてくれました。

「はい、郁雄さん。さようなら」

 私も同じように爽やかな声で言いました。

 郁雄さんが去っていく後ろ姿をいつまでも、ずっと、見えなくなるまで眺めました。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はじめましてとさようなら 今衣 舞衣子 @imaimai_ko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ