赤い観覧車
緋糸 椎
🎡
久々の日本の夏はとても蒸し暑かった。だが、阪急グランドビル32階の喫茶店は、無駄と呼べるほど冷房が効いてきて、窓から見えるうだるような大阪の景色とコントラストをなしている。
なんとなく。
こういう時は予感がするものだ。必ずといって良いほど的中する予感。僕はある覚悟を胸に、少し重い気持ちで彼女を待つ。
「お待たせ」
待ち人来たれり。
印象が変わったのは久々に会ったから、というばかりではない。髪は茶色く染まり、手にはマニキュア。いずれも、僕の知っていた彼女が嫌っていたものだ。
「お久しぶり。……これ、買ってきたよ」
そうして渡したのは、シュタイフテディベアの限定品。日本では手に入らない、かねてから彼女が欲しがっていたものだ。
「ありがとう」
そういう彼女の目は喜んでいない。わかりやすい。言いにくいけど言わなければいけないことを胸に秘めている、そんな感じ。
「あんな……話あんねん」
「話?」
いよいよか。固唾を呑む。
「もう……これまでにしたい」
ああ、言っちゃった。それは僕にとって甘い魔法と解いてしまう悲しい呪文のようだった。彼女は視線をそらし、窓に向ける。
「懐かしいね……あの観覧車」
そう、窓から見える、赤い観覧車……出会った頃の僕らの思い出の場所だ。
***
数年前、当時勤めていた会社で彼女と知り合った。自然に、どちらからともなく接近するようになり、付き合うことになった。
初デートは、梅田。この町にはデートスポットが至るところにあり、ノープランでやってきても、立派にデートが成立する。特にカップルに人気なのは、HEP阪急屋上の赤い観覧車。大阪の、まわるランドマーク。その待ち人の列に僕たちも連なった。見ると、同じように初々しいカップルばかりだ。
ゴンドラに乗ると、少し胸が高鳴る。誰にも邪魔されない、二人だけの空間。上っていくと、景色が広がっていく。
「♪まわれまわれメリーゴーランド」
僕が口ずさむと、彼女が苦笑する。
「メリーゴーランドちゃうやん」
互いに、少しぎこちなく笑う。そう、その歌詞の続きは……
「甘い口づけを……してもいい?」
「……うん」
それから……僕たちはもはや、景色など見ていなかった。
僕には夢があった。ドイツで木工細工の修行をしたいという夢。最初、彼女は反対したけど、僕が夢に向かって勉強したり色々調べたりしているのを見て、いつしか応援してくれるようになった。
そして修行先が見つかった時、ためらう僕の背中を後押ししてくれたのも彼女だった。僕は会社を辞め、ドイツへ飛び立った。
ところが、渡航してから彼女に連絡するたびに、
「寂しい。早く帰って来て!」
と決まったように連呼される。それが少し鬱陶しかった。僕は毎日、会うもの全てが目新しい。それに対して彼女は、日常から僕だけが消え去った、そんな寂しさと共に生きている。そう考えればもう少し思いやりのある態度で接することが出来ただろうが、とにかくその時は新しいことに夢中だった。
だが、それからしばらく経ったある時から、「帰って来て」と言わなくなった。
「沼田さんに、一風堂のオムライスおごってもろてんけど、むっちゃ美味しかってん」
沼田というのは元同僚だが、僕とは色々馬が合わなかった。僕の留守中に彼女を食事に誘うなんて、と少し気分悪かったが、沼田は妻子持ちだったし、特に目くじらを立てることもなかろうと思っていた。
ところが……
「今度、沼田さんと動物園に行くことになってん」
「動物園って、沼田さんの家族と一緒に?」
「ううん。沼田さんと私だけ。ええやろ? 私も気晴らしが必要や……」
そう言われると返す言葉がない。寂しくさせているのは僕だ。それから彼女は沼田から度々色々なところに連れられた。さすがにちょっとまずい、そう思うが、沼田もいかにもなデートスポットは避ける。アンパンマンミュージアム、子供向けのアニメ映画など、こちらの警戒心を牽制するようなところばかりだ。しかも、彼女にとってそれがむしろ新鮮だったりして、喜々としている。
初めて決定的に警鐘が鳴ったのは、それからしばらく経ったある日のことだ。
「沼田さん、奥さんとうまくいってないんやって……」
「って、そんなこと君には関係ないだろ!?」
「関係ないことないやん。誰にも相談できんと悩んどったらしいで。私もお世話なってるし、話聞くくらいは出来るやろ……」
「そんなの、不倫の常套手段だよ。沼田とは距離を置いた方がいい」
「何言うてんの、アホちゃう? あんたがそんなちっちゃい男やとは思わんかったわ!」
彼女は一方的に通話を切った。
それから、彼女は沼田の話を一切しなくなった。そればかりか、僕が何かを言っても空々しい反応ばかりが返ってくるようになった。
沼田とはどうなっているのか。気になるが、なかなか聞き出せない。比較的彼女の機嫌が良さそうな時、さり気なく聞いてみた。
「そう言えば、最近沼田さんと会ってる?」
すると彼女の声色が一気に変化した。
「そんなん、あんたには関係ないやろ!」
もうそれ以上聞けなくなった。それから僕たちの連絡の回数は減り、ますます彼女は塩対応になっていった。そうして今回、一時帰国することになったが、空港には迎えに来れないとのことで、今日この喫茶店で待ち合わせることになったのだ。
***
「結局、さめてもうてん……」
観覧車を見つめる目は、懐かしさというより虚ろだった。
「僕が……悪かったんだね」
「ううん、そんなことない」
「もう一度……考え直せないかな?」
「もう、いっぱい考えた」
「そうか」
ふう、とため息をつく。窓の外では、銀色の飛行機が伊丹空港を目指して降りてくる。一機、また一機、そうしてもう何機も見送る間も沈黙は流れる。
「……私、もうちょっといるから、先帰ってもろていい?」
「わかった。じゃあ、元気でね」
返事はない。外を向く彼女。その視線の先では、赤い観覧車が、あの頃の僕らのように初々しいカップルを載せてぐるぐる回っていた。
赤い観覧車 緋糸 椎 @wrbs
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