旧校舎の幽霊

柚城佳歩

旧校舎の幽霊

旧校舎の音楽室には幽霊が出る。


うちの中学には十年ほど前からそんな噂がある。

でも僕は噂なんて元より信じていなかった。

だけど訂正する。音楽室には確かに幽霊がいた。




僕たちが普段使っている新校舎が建つ前に使われていた旧校舎は、今はほとんど物置状態になっている。

人がいない校舎は薄暗く、どことなく不気味な雰囲気がある。

そんな場所へ行ってみようと思ったのは、誰かが「窓に人影を見た」なんて言っていたのを思い出して興味が湧いたからだった。


放課後に一人、旧校舎へ向かう。件の音楽室の扉を開けると、こもった空気の匂いが流れ出した。

楽譜の並んだ棚とグランドピアノがあるだけの何の変哲もない教室。

だけどどうやら先客がいたようだ。

ピアノの椅子に座り窓の外を眺めていた女の子が僕に気付いて振り返る。

綺麗な子だった。こちらを見つめる瞳には意思の強さが感じられる。見つめ合って数秒。


「ねぇあなた!私の事見えてるよね」

「……っ」


その女の子がすぐ目の前まで駆け寄ってきた。


「私の声も聞こえてるでしょう?あなたみたいな人を待ってたの!」


さっきは気付かなかったけれど、よく見るとその体越しに向こう側が見える。

じゃあまさか、音楽室に出る幽霊っていうのは……。


「うわぁぁぁぁあっ!」


僕はその場から逃げるように走り出した。


「待って!お願い、手伝ってほしい事があるの!またここへ来て。待ってるから!」




もう行きたくない。そう思ったのに、結局また来てしまった。だってあの子の言葉がどうしても気になってしまったんだ。


「あ!よかった来てくれたんだ」


その子は昨日と変わらずピアノの椅子に座っていた。体が透けてさえいなければ、普通の女の子にしか見えない。


「昨日は驚かせてごめんね。私は歌音かのん

「……りつです。あの、手伝ってほしい事って?」

「うん、私が成仏するのを手伝ってほしいの」


彼女は十数年前、学校へ向かう途中で信号無視をした車に轢かれて亡くなったらしい。


「成仏出来ないのはやっぱり心残りがあるからかなって、いろいろ考えたの。私、まだ物心が付く前からピアノに触れてきてね、ピアノが本当に好きだったから、将来はピアニストかピアノの先生になりたかったんだ。だけどこの体じゃもうピアニストは無理じゃない?でも先生なら出来ると思うの」

「じゃあもしかして、僕にピアノを教えたいって事?でも僕、ピアノなんてほとんど触った事ないよ」

「大丈夫!いきなり曲を弾けなんて言わないから。だからお願い、少しの間でいいから私に付き合って」


僕はどうも、誰かからの“お願い”というものに弱いらしい。それが例え幽霊の女の子だとしてもだ。


「……わかった。何からすればいい?」

「ありがとう!じゃあまずは手の形と、基本的な指使いから教えるわ」


この日から、彼女と僕の奇妙なピアノレッスンが始まった。




「そろそろ曲の練習に移りましょうか」

「やっといろんな音階ループから解放される……」

「基礎は大切だからね」

「でも僕、クラシックの曲とかよく知らないよ?」

「そこは任せて!あそこの棚に、私が持ってきて置いたままになってる楽譜があるからそれを使いましょう」

「……学校の教室を私物化してたの?」

「違うわ、皆も使えるように置いてたの。寄贈よ、寄贈」


言われるままに探してみると、楽譜の本の間に、個人の物らしきクリアファイルが並んであった。


「最初の方を捲ってみて。そうそう、その曲!」

「『カノン』?」

「私と同じ名前の、一番好きな曲なんだ」


そう言って彼女は何かを口ずさみ始めた。柔らかく綺麗な旋律は、僕も知っているもので。


「卒業式で流れてた曲……」

「ふふ、聴いた事あるでしょ?その楽譜は簡単にアレンジされたものだから、きっと律くんにも弾けるわ」




簡単だと彼女は言ったけれど、僕には充分難しかった。


「うわーっ、頭と指がこんがらがる!」

「でも少しずつ出来てきてる。力を抜いて弾けたらもっと良くなるかな。はいリラーックス」

「リラックスするからちょっと休憩させて……」


あれから毎日のように旧校舎の音楽室に通っている。初めは不気味に感じていたのに、通い慣れた今は落ち着く場所になっていた。


「……あのさ、気になってた事聞いてもいい?」

「なぁに?」

「歌音ちゃんは交差点で亡くなったんだよね。でもどうして交差点じゃなくて学校にいるのかなって」


言いづらい事を聞いてしまったかもしれない。

だけどもしかしたら彼女がこの世に留まる理由の手掛かりがあるかもしれないと思ったのだ。


「……私ね、卒業式で友達と一緒にカノンを弾くはずだったの。あの日は二人で練習しようって学校に向かってたんだけど、信号が変わって歩き出した時、スピードを落とさず走ってくる車がいたの。その友達、はーちゃんはびっくりしたのか動けなくなっちゃったみたいで、私は咄嗟に突き飛ばしてた。その直後に車が突っ込んできて、私は地面に投げ出された。すごいよ、ほんとに宙に浮くんだよ。泣きながらパニックになってるはーちゃんを慰めたいのに、体は動かないし目は閉じてくるしで、次に気付いたらここにいた」


淡々と話しているけれど、凄まじい体験だ。

想像の中ですら目を背けたくなる。


「はーちゃんはすごく自分を責めてね。私の体が勝手に動いただけで、自分を責める事はないのに、責めてほしくなんかないのに、あれからピアノも弾かなくなっちゃったみたい。悪いのは信号無視をした車なんだけどね」


そう言って笑った彼女の笑みはとても悲しそうで、見ているこちらの胸が締め付けられる思いになる。


「私は自分が死んじゃった事よりも、はーちゃんがピアノから離れてしまった事の方が悲しい。はーちゃんにもう一度ピアノを弾いてほしい。この音楽室はね、よく二人で過ごした思い出の場所なんだ。だからきっと私はここに来たんだと思う」


もしも一番の心残りが、そのはーちゃんに再びピアノを弾いてほしいというものなら、僕に叶えるのは難しい。でも、今の僕にも出来る事はある。


「僕、ちゃんとこの曲弾けるようになってみせるよ」


今は成仏のための手助けだけじゃなく、ただシンプルに彼女に笑ってほしくて、喜んでもらいたくてピアノを弾いている。




ゆっくりと、少しずつ、曲が形になっていった。

放課後になると真っ直ぐに旧校舎の音楽室へ行き、下校時刻ギリギリまで練習する。

遊びの誘いまで断る僕に、友達からは変な顔をされたけれど、僕の心は充実していた。


「……出来た」

「おめでとう!最後まで引っ掛からないで弾けたね!すごいよ!」


お世辞にも上手とは言えない。テンポも一定じゃないし、怪しいところだらけだ。

でも途中で止まる事なく最後まで弾けた。

全くの初心者にしては我ながら上出来じゃないだろうか。


「どう、何か体に変化はある?」


ピアノの先生になりたかったという夢は、これで一応叶ったはず。

でも特に彼女に変化が起きた様子はない。


「僕じゃダメって事かな」

「そんな事ない!律くんが一所懸命頑張ってくれたの知ってるし、私も先生をやれて満足してるよ!だからもう心残りはないはずなんだけど……」


さっきまでの達成感が萎んでいく。

何を話せばいいかわからず二人とも黙ってしまった時、音楽室の扉が開いて誰かが入ってきた。


いずみ先生」


現れたのは国語の泉先生だった。

若くて美人なだけじゃなく、授業もわかりやすくて人気の先生だ。そしてここの卒業生だというから、僕たちの先輩でもある。


「もうすぐ下校時刻よ。暗くなる前に帰りなさいね」

「はい。先生はどうしてここに?」

「私は調律師さんを呼ぶ前の確認に来たの。生ピアノは定期的に調律しないといけないから。でもここへ来るのは何年振りかしら」


泉先生の目が懐かしげに細められる。


「はーちゃん……」


隣にいる歌音ちゃんが泉先生をじっと見つめている。

まさか。泉先生が?下の名前は確か……そう、“華乃はなの”だ。え、ということは本当に


「……はーちゃん?」


僕が思わずそう呟いた時だ。

泉先生が驚いたように駆け寄ってきた。


「あなた、歌音を知ってるの!?」

「あーえっと、前にピアノを教えてもらった事があって」


そこでピアノの上に開いたまま置いてある楽譜に気付いたらしい。


「歌音の楽譜だわ。これを弾いていたの?」

「まだ全然練習中ですけど。あの、先生もピアノを弾くんですか?」

「……もう十年以上弾いていないわ。私だけピアノを弾くのはなんだか申し訳なくて」

「絶対にそんな事ない!寧ろ歌音ちゃんはずっと先生にピアノを弾いてほしいって願ってる。だからお願いします、またピアノを弾いてください!」


突然大きな声を出した僕に先生は驚いたかもしれない。

それに突拍子もない事を言っていると思う。

だけど今言わなきゃいけない気がした。

暫く間があって、先生が動く気配がした。


「……久しぶりだから、上手くは弾けないわよ」


先生が椅子に座る。どこか緊張した様子で指を鍵盤に乗せた。

十年以上ブランクがあると言うけれど、さすがは昔ピアノを弾いていただけの事はある。

その指は一所懸命練習した僕の演奏よりもずっと滑らかにメロディを奏でていった。

すると先生の隣に歌音ちゃんが立って、ピアノの音に合わせて口ずさみ始めた。

綺麗なハーモニーだった。

今までに聴いたどんな曲よりも優しい音色だ。


「歌音ちゃん!」


夕日に照らされた歌音ちゃんの体が足元から少しずつ透けていく。


「歌音……?」

「はーちゃん、律くん、ありがとう」


最後にきらきらと一瞬の光を残して、歌音ちゃんは光に溶けていった。


「……今、そこに歌音が」

「はい。笑ってましたね」


音楽室の幽霊はこうしていなくなった。

僕たちの心に確かな思い出を残して。




旧校舎の幽霊はいなくなった。

代わりに、時折彼女と同じ名前の曲が聴こえるようになった。

そのピアノの音は、滑らかな時もあればぎこちない時もあるという。


「僕ももっと上手く弾けるようになるよ」


この音が風に乗って、空にいる彼女に届いてくれていたらいいなと思う。







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旧校舎の幽霊 柚城佳歩 @kahon

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