第24話 アナザーストーリー

誤浄村


僕は三流大学を出て今の仕事についた。頑張った、とは思う。でもなんか、実感がない。自分の力で、というよりは、周りの圧力に流されて仕方なく……、という感覚。厄介払いされてる、といっても、過言ではないだろう。暇をしてると、人間何するか分からない。特に若くて元気の有り余ってる人間は。僕自身は、そんなに自分が元気だという感覚は無いのだが。周りや社会にとっちゃあ、とにかく暇せずに仕事して帰ったらクタクタに疲れて寝るだけ。そんな人間ばかりのほうが安心なのだろう。大学に入ったのも、特にやりたくも無い仕事についたのも、自分の意志では無かったように思う。ただ、流されて、仕方なく。そこにしか、自分の居場所は無いと思ったから。ずっと、くすぶっていた。ずっと、自分の意志で何かをやりたかった。でも、その何かさえも、日々の忙しい迷路に迷い込み、手の届かないところへ行ってしまった。慰めが欲しかった。せめて。誰かとこんな気持ちを共有したかった。だけど、皆忙しそうにしていて、誰も僕を振り向かなかった。人が良さそうな人ほど、特に。足を止めて話を聞いてもらおうとすると、露骨に迷惑そうな顔をする。人の良さそうな人にそんな表情をさせてしまったのが申し訳なくて、僕はまた黙ってしまう。たまに話を聞いてくれる人がいても、それは悩んで弱っている人をただ叩いてスッキリしたいだけの人だった。癒されない。どこに行っても、誰に会っても。職場では、一生懸命やっているつもりだった。だけど、いつの間にか嫌われ始めた。嫌わない人も、僕を見て失笑、口を利いてくれるかと思ったら、僕の批判ばかりしてくるようになった。どうして嫌いなのかを教えてくれるほど、人は親切では無い。ただただ、嫌なことをしてきて、排除しようという動きが急に始まる。僕にとっては晴天の霹靂で、ただただ唖然とするばかり。どうしてこうなったのか。考えても分からない。僕のほうは、仲良くしたいという気はあったのに……。家に帰って、心を慰めてくれるものを探す。また明日、働くためにも、何か心の傷を修復するものが必要だ。だって、働く場所にしか、僕の行き場所はないのだから……。アニメのDVDを手に取った。子供の頃から何回も見てきた。再生する。いつもの、声優さんの温かく優しい声に癒される。やっと、気持ちが落ち着く。無垢だった、あの頃に戻れる。いつもの可愛いドジしたところで、いつものように、ふふと笑う。良かった。今日も、笑えた。まだ僕は、大丈夫だ。人として、生きていける。分からないことだらけ。この世の中は。人の心も、自分の気持ちも。世の中の仕組みも、誰が何を考えているのかも。それでも僕は生きていかなくちゃいけない。気持ちの悪い、泥水の中を必死でかいて毎日生きている、そんな気分。でもそれを言ったところで誰にも共感してもらえないし、聞きたくもないだろう。だから今日も僕は、DVDを見る。じゃないと、気持ち悪くて眠れない。どんなに食べたかったものを食べても、何故か虚しさだけが残るのは何故だろう。だいたいの人は、食べたいものを食べると、満足そうな顔をする。羨ましい、幸せそうで。何故、僕の心には虚しさだけが残るのか、それすらも分からない。だから、僕は心を癒すために、DVDを見る。やましい気持ちで、とか、そんなんじゃない。ただ、子供の頃の、素直で無垢だったあの頃の気持ちに戻りたいだけ。ただ少し、大人になって変わってきたこともある。子供の頃は、当然絵のキャラクターが声を発していると思っていたけど、その裏には声優さんがいる、ということ。こんなに温かくて、優しい声を出すのは、どんな方なんだろう。深く考えずに、ただ興味が湧いて、僕は調べた。写真を見た。想像と違ってタレントさんのようにキラキラしていて……、そしてこれは僕の予想通り、とても優しそうな人だった。動画を見た。常に相手を気遣うかのようなその表情。想像と違わなかった。この人のいる世界に行きたい。でも、そんなこと出来ない。学校の発表でも決して自分から手を上げることなど無かったこの僕が……。だから僕は、DVDを見る。ただただ、癒されたくて。

 昨日は、上司に皆の前でどうでもいいことを面罵された。僕に落ち度などないのに。皆クスクス笑っていた。皆のストレスの捌け口のために、生け贄に選ばれたのだと思った。僕は、ツライ思いをしてもいいというのだろうか。そんなに嫌われているのか。何故?家に帰る足取りが重い。こんな思いをするのは、初めてだった。どうして、こんな思いをしながら、生きていけるというのだろう。誰も、僕に優しい言葉をかけてくれない。かつては口を利いてくれていた同僚も、僕を遠巻きに見るようになった。ツライ。何か、僕が悪いことをしたのなら、言ってくれないか。どうしてそんなに、僕を嫌うんだ。家に着いて、暗い部屋で買ってきた弁当を開ける。電気を着けるのも億劫だった。もさもさと食べ始めるが、味がしない。どうして、こんなことが人生で起きるのだろうか……。食べるのを諦め、DVDをつける。いつものところで、笑えなかった。こんなはずは……。無理に笑おうとすると、泣きたくなった。慌てて笑おうとするのを止める。泣きたくはない。どうして、泣かなきゃいけない?悪いのは、僕ではないのに……。寄る辺を失った。アニメを見て、こんなにつまらないと思ったのは初めてだ。そっか、そうだな。所詮は自分と関係のない世界だったんだ。仮初めの世界を見せられていただけ。何をこんなに僕は、一生懸命見ていたのだろう。もう一度、声優さんのことを調べた。驚いたことに、先週病気で亡くなっていたことが分かった。忙しいと、こうだ。大切な人の動向も分からない。知らなかったことを、心の中で詫びた。そして、この声優さんの墓参りに行きたいと思った。今まで、人生の糧になってくれた、お礼を言いに。


 調べると、声優さんの出身地までは分かった。お墓の場所は分からないけれど、とりあえず行ってみよう。

 電車に乗り一時間半。人生でこれ程までに電車に乗り続ける日々はもう来ないだろう、そんな心境になった頃、電車は目的の駅に溜め息をつくような音を立てて止まった。

 木造の、小さな駅舎。出ると、辺りには青空しか無かった。

 僕は、この世の最果て、あるいは、生者の世界を超えて、その先へ来てしまったのか。タイヤが四輪ついた荷物入れを押し静かに歩くおばあちゃんが一人。僕がぼうっと辺りの景色を見てる間に、振り返るともうおばあちゃんは居なかった。

 シャッターの閉まった、かつて個人商店だったかもしれない小さな建物を通りすぎる。

 僕は、何故こんな所にいるのだろう。ふいに、笑いが込み上げてきた。そして笑おうと思ったが、何故か自分の眉が下がろとするのに気付いて、僕は笑おうとするのを止めた。

 つくづく、僕はあの声優さんに、なんの縁もゆかりも無かったんだ。このまま、ごめんなさいをして周り右して帰りたくなった。だけど、せっかく時間をかけて来たんだし、自分の人生の中で大切な存在だったのは事実だ。せめて墓参りを。墓前で手を合わせるくらいなら、この世界を僕がかき乱し汚すことは無いだろう。

 しばらく、遠くの山並みを見ながら歩く。一番遠い山は、青く霞み、空と一体化しようとしている。優しい世界。それは、遠くで眺めているのが一番いい。近づいたら、それは現実となって僕を襲い、牙を剥く。

 広大に続く畑の中に、ぽつんと民家が見えた。ごく普通の、平屋の一軒家。そして、その近くに、石を重ねたものが。僕は目を疑った。近づいてみた。それは、墓石だった。彫ってある名は、声優さんのそれとは違う。自宅の敷地に墓がある世界は、僕は今まで生きてきて接点が無かった。辺りを見渡すと、遠くの民家の近くにも、それらしい石が。この辺りは、そういう文化なのか。これはもしかしたら、声優さんの墓を探し当てても、敷地に入れてもらえなければ墓参りも出来ないってやつか。探し当てたなら、敷地の外から拝ませてもらうしかない。

 歩いていると、ぽつん、ぽつんと見えてくる民家のすぐ近くに、必ずといっていいほど、それらしい墓石がある。ここまであると、何故、自分の生まれ育った地域には、各家庭の庭に墓が無かったのだろうかと、そっちのほうが不思議に思えてくる。この辺りは冬になると雪深く、自宅の庭にないと墓参りも出来ないからなのだろうけど、それにしても……。ご先祖がすぐ近くに眠ってあると、見守ってもらえてる安心感もあるのかもしれない。

 分岐路にくると、道の先の遠くに、食堂らしい建物を見つけた。青い幟が風にはためいている。あそこで、聞いてみよう。

 食堂に入ると、「いらっしゃい」とオバチャンの元気な声が飛んできて、僕は一気に夢から覚めた気分になった。気がついたら、唐揚げ定食を頼んでいた、たいして食欲もないのに。なんとなく、食堂に入ったら注文してしまった、押しの強いオバチャンの空気に流されて。まあ、お金払ったあとのほうが、オバチャンもこの小さな村について口滑らかに教えてくれるかもしれない。僕は入り口近くのテーブルについたのだが、奥のテーブルには地元の人らしい作業服の六十代くらいのオジサンが焼きサバ定食を掻き込んでいた。出された定食を僕は食べ始める。いつもは唐揚げは好きなのだが、今はろくに味がしない。僕は出先では食欲がさして湧かない。残すのも悪いのでもさもさと肉と小麦粉の合わさった固まりを味噌汁で胃に流し込む。奥のテーブルのオジサンは、壁の上、天井近くにとりつけられたテレビから流れる芸能ニュースを、つまようじで歯をいじくりながらつまらなそうに眺めていた。「お会計お願いします」僕はなんとか全ての唐揚げを胃に流し込み、立ち上がった。お金を渡したところで、僕はオバサンに尋ねる。「あの、この辺りは、有名な声優さんの出身地らしいんですけど、ご存知ですか?」

その瞬間、近くでガタン!と椅子の倒れる派手な音がした。驚く間もなく、僕はシャツの襟首を誰かに掴まれた。「お前か!うちの娘を死に追い込んだストーカー野郎は!」突然思ってもみなかった状況に追い込まれ、僕は何も身動き出来なくなってしまった。一体、何故こんな状況に陥った?僕は何をしでかしてしまったんだ?ストーカー?うちの娘?あの声優さんのお父さん?とにかくストーカーではないことを否定しなければ。「ち、違います。僕はストーカーではありません。草花なぎささんという声優さんの、ただのファンで……。亡くなられたと最近知って、どうしてもお墓参りをしたくて初めてこの村に来たんです……」

 「そうか……。まあ、お前さんは、ストーカーなどという人を食ったようなことが出来そうには無いもんな……」

 オジサンは、僕のシャツの襟首から手を離し、だらんと力なく下げた。

「この人は、あんたの言った声優さんの父親だよ。お墓参り、させてあげなよ」

 オバチャンが、助け船を出してくれる。

 オジサンは、僕を見るでもなくクルリと背中を向けた。「こっちだ。来な」

 オジサンは田舎道を何も言わずに進んでいく。こうなると、コミュ症の僕にはもうお手上げだった。そのいかつい背中に話かける勇気なと、僕には無い。

 「……悪かったな、掴みかかったりして」

 鳥の声と風の音しか聞こえない田んぼの真ん中の畦道で、いかつい背中がポツリと呟いた。

「あ、いえ……」

「あの子は、ストーカーに悩まされとった。滅多に親に相談する子じゃなかったんだが、たまに耐えきれなくなっのか、電話が着てな。だけど、親に心配かけまいと、明るく話すものだから、俺にはその深刻さが分からなくて……。死ぬほど辛かったのなら、もっと取り乱して、泣いて喚いてくれりゃ良かったのに……。人に迷惑かけまいと生きる、いい子だったんだ。そして、そんな人間に育てたのは、この俺だ」

 そのいかつい背中の、肩が少し下がり、震えたように見えた。

 オジサンは田んぼの端まで来て、そのまま森の中へ入っていく。

 「ずいぶんと、寂しいところに家があるんですね……」

「はあ?!」

 オジサンが険しい顔をして振り向き、僕はビクッとして足を止めた。

「こんなところに俺が住んでるわけないだろう?俺を熊かなんかだと思っとるのか」

「あ、いえ、そういうわけじゃ……。この辺りは、自宅の庭に墓があると思ったものですから……」

「ああ。そうだよ。ただ、俺は、毎日あの子の墓を目にするのは辛くてな。この森の中に墓を建てた。どれだけ雪深くなっても、墓参りには来るつもりだよ。それぐらい、してやらねえとな……。父親として、何も守ってやれなかったのだから」

 鬱蒼とした暗い森の中を進んでいくと、木々の間から一筋、光の差している場所があった。

「ここだよ」

 明るい陽光の中に、淡くひかる黒い御影石があった。

 草花なぎささんの名が刻まれていた。

 本当に、亡くなってしまったんだな……。

 実感として胸に迫ってきて、僕はひどく寂しくなってしまった。もう、この世界に、この現実に、僕はまだいるのに、なぎささんはもういない。置いてきぼりにされたような、ひどく寂しい気持ちになった。なぎささんは、もう何にも悩まされることは無い、それだけが救いだった。

 僕はしゃがみこみ、手を合わせて、目を瞑った。今まで、あなたは僕の心の支えでした。ありがとうございました。

 目を開けると、辺りがやけに静かなのが気になった。鳥の声、風の音すら聞こえない。振り返ると、オジサンはどこにもいなかった。道案内を終え、もう帰ってしまったのか。お礼も言えなかったな。それにしても、落ち葉を踏む音くらいしそうなものだが、何も聞こえなかった。なんだろう。なんかひどく、居心地の悪い感じがする。このままここにいてはいけないような。不穏な気配を感じる。早々にここを去ろう。僕は立ち上がった。

 「ここか~」

 突然、背後から男の声がし、僕は固まった。男はずかずかと落ち葉を蹴散らしながら歩いてくると、墓前にしゃがみこみ、手を合わせ目を瞑った。なんだ、こいつ。いつから、いた?男は三十代くらい、小太りで短い髪は油ぎっていてフケが見えた。チェックのシャツにヨレヨレのジーンズ。デザインではなく、経年劣化で穴が空いていた。

「いや~、僕は、君が駅を降りるとこから、遠くから見ていたんだよ。見慣れない人物が降りてきたな~と思ってね」

 あんな何も無いところで、僕に気付かれずに、僕を観察していたというのか。その事実に僕はぞっとした。マジで、なんだこいつ。

 「僕は草花なぎささんのご実家を突き止めてはいたんだけど、一向に庭に墓が立たないから、おかしいと思っていたんだ。こんなところに墓があったとはね」

「君は、一体……」

男が立ち上がると、チェックシャツの下に着てるTシャツに、僕がいつも心の支えにしていたあの作品の名前がプリントされてあった。この男と好きな作品が同じであるということが、堪らなく嫌になってきた。

「どう思う?」

唐突に問われ、僕は戸惑った。

「何が……?」

「彼女は、何で死んだんだと思う?」

男の目から、感情が消えた。野生動物のような目だと思った。鋭く、残忍で、相手に対する感情が無い。

「そんなの……。ただのファンだった僕に分かるわけがないだろう」

 男が僕を目で捉えたまま、ニチャアと笑った。男が口を開けた時、実際にそういう音がした。歯と歯の間に、筋を引いた唾液が陽光に光った。

「そういう、ただのファン、ってのが一番ダメなんだよ。僕は、積極的になぎささんを応援した。イベントがあったら、駆けつけ、なぎささんの出演する映画が公開されたら、毎日のように映画館に足を運んだよ」

「自宅にも押しかけたり、とか?」

「ん?」

 男が片方の眉を上げた。ずいぶん芝居がかった、大袈裟な表情だと思った。

「なぎささんが、ちゃんと無事に自宅に帰りつくか心配だからね。ファンとして、当然だろ?お前は、なぎささんのファンとして、何をしてきたっていうんだよ。イベントなんかでも全く見たことのない顔だが」

「確かに、僕は何もしていない」

 僕がやってきたことといえば、ただ家でDVDを磨りきれるほと見ていただけだ。

「だけど、自宅まで後をつけるのはやり過ぎでは?」

 男の顔から表情が消えた。男は、その信念のためなら何をしでかすか分からない、その様子がひどく怖かった。

「お前、よ~く聞けよ」

 男は、腕を僕に向かって突きだし、手をひらひらさせながら話始めた。僕の注意をそらさないためなのだろうが、逆にそれが気になって話が入ってきそうになかった。

「僕は、なぎささんが心配で、毎日なぎささんが無事に職場まで着くまで、毎日無事に自宅まで帰れるか、見守ってきた。そこで、たまに見かける人物に気が付いた。誰だと思う?」

 なんとなく、僕の背中が薄ら寒くなってきた。

 男が、ニチャアと音を立てて笑う。

「あの、親父さんだよ」

 男は、ニヤニヤ笑いを続ける。

「あの親父さんは、時々田舎から出てきては、娘の様子を見守っていた」

「そりゃあ、お前のような行きすぎたファンがいれば、心配だろう」

 男はまだニチャニチャと笑っていたが、その口が少し歪んだ。

「あの親父さんは、なぎささんを虐待していた。なぎささんは、しょっちゅう引っ越していた、あの親父さんに黙って。だけど、有名人だ、すぐに居場所はばれる。なぎささんは、逃れられない運命に絶望した。親父さんに、正しく自分を愛してもらいたかった。他の、ごく一般的な、家庭の父親のように。それを望んで、いつか父親との関係が変わることを望んで、なぎささんは、たまに父親に電話をかけた、架空の、自分をストーカーしている人物の話などして。親父さんに、お前はストーカーだと、その行動は異常だと気付いてほしかったんだ。だけど、いつまでたっても、何も変わらなかった」

「ストーカーは、お前だろ?」

「違う……」

 男は、チェックシャツの胸ポケットから可愛いらしい淡い色の封筒を取り出した。

「これは、僕がなぎささんのイベントに駆けつけた時に、なぎささんからそっと手に押し込まれた手紙だ」

 それを渡され、僕は中身を開いた。可愛いらしい女性の文字で、自分の行き帰りを見張り、何かあったら助けて欲しい旨が書いてあった。

「彼女は、イベントでいつも見かけ僕を、頼りにしてくれたんだ。僕しかいなかったんだ、頼れそうな人物が。ただ毎回イベントに来るだけの、一ファンの僕しか……。頼りにしてくれたのに、僕はなぎささんを、助けられなかった」

 男の目に、涙が光った。男の背後の木々の間で、何かが風も無いのに揺れた。誰かが、宙に浮いていた。あの親父さんの、作業服に見えた。

「警察を、呼んでくれよ……。僕だって、誰かに助けて欲しい時はある……」

 僕は、宙に浮いている何かに近づいた。それは、やはりさっきの親父さんだった。首にロープがかかり、木に吊るされていた。その目は飛び出しそうに剥かれ、肌は紫色に黒くなり、既に生気はなかった。何故、揺れたように見えたのか……。

 「黙っておくよ。親父さんは、自殺をされたってことにしておこう。気にするな。お前はよくやったよ。何も出来ない、何も知らない、ぼんくらな僕とは大違いだ」

 男は地面に膝をつき、声を上げ泣き出した。




 「それで、私にご依頼というのは……」

小さな喫茶店で、私は目の前に座る肩を落とした元気のない男に声をかけた。

「結局、男も亡くなってしまったんです。罪の重さに耐えられなかったんでしょう。僕はどうすればよかったのか……。ただ純粋に、アニメを見て楽しんでいたあの頃に戻りたい……」

 現実に立ち向かい、傷つき、この世を去る者もいれば、現実に耐えられず、現実を知らずに夢の中をいきてたほうが幸せな人間もいる。どうすればいいのか、どう生きればいいのか……。だけど時に人は、知らなくてもいいことを知りたくなる時がある。それが自分の生存に関係なくても、だ。

「皆、あの墓の周りに、成仏出来ずに漂っている気がするんです。楽に、してあげられませんか」

「分かりました……」

 男は、安堵したように、少し笑った。

「その前に、男の自宅に一緒に行ってもらいたいんです。あの後、少し男と交流を持ち、たまに自宅を行き来して、なぎささんのことを語り合いながら酒を飲む中になりました。やつのアパートの一階に住む大家さんにも会ったことがあるから、頼んだら鍵を開けてくれると思います」

「いいですよ」

 私は快諾した。誰かに頼りたいときは、誰にでもある。男は誰かに付き添そってもらい、最後に心の整理をつけたいのだろう。


 喫茶店を出て、最寄りの駅で電車に乗り、20分でとある下町に着いた。

 しばらく袋小路のような狭い道をぐねぐねと歩き、木造の小さなアパートの前に着いた。

 101号室の扉を、男が叩く。

「はい……」

 しわがれた声がし、八十代くらいの小柄なおじいさんが顔を覗かせた。

「こんにちは……」

 男が声をかけるなり、おじいさんはすがるように男に飛びついた。

「お前さん……。また来てくれて、良かったよ……」

 まるで今生の別れのように、おじいさんが涙を流し出す。

「ど、どうされました……?」

 男が驚いて訊ねる。

「あんたの友達の、あの澤木さん……、保証人の欄に書かれていた電話に連絡したら繋がらなくて……。遺品の整理も出来ない。わしは、どうしたら……」

「あー、そういえば、彼は天涯孤独だと言ってましたね……」

男は懐かしげに苦笑する。

「いいですよ、僕がなんとかしましょう。何もしてやれなかった僕の、冥土のみやげだ」

「ありがてえ、ありがてえ……」

 菩薩のように拝まれながら、男はおじいさんから鍵を受けとると階段を上がった。201号室のドアを開ける。中は、まだ誰かが生活しているような、そんな匂いがした。テーブル、洋服掛け、生活雑貨がそのまんまだ。テーブルの上のペットボトルの飲みかけの中身が茶色く変色し、その持ち主が長らく帰って来ないことを物語っていた。

 「懐かしいな……。あれから二ヶ月……」

 男が机の上のコルクボードに目を止めた。

「おや、最後に飲みに来た時は、あんなものは……」

 コルクボードには、望遠レンズで撮られたような、ぼやけた白い服を着た女が写っていた。

「これは、お二人の好きな声優さんの……」

「いや、違う。あいつは、そんな失礼なことをする男ではなかった……」

 男は首を振り、不穏そうに女の写真を見つめた。

「誰だ?この女……」

 男が机の引き出しを開けると、一冊のノートを取り出した。中身をぺらぺらとめくり出す。

「日記だ。こんなものをこまめにつけるようなやつでは……」

 横から日記を覗くと、亡くなる一ヶ月前から日付けは始まっていた。

「女の気配、女の気配を感じる。女の……。呪文のようにそれだけしか書いていない。やつは、罪の重さに耐えきれなくなり、気がおかしくなったのか……。でも、僕と飲む時は、普通に楽しそうにしていた。それに、この写真は……」

 ふいに、私は誰かの視線を感じた。窓に近寄ると、外を覗いた。電柱の影に、白い何か……。女だ。女はこちらが覗いていることに気付いているのか、一切動かない。それが、より不気味だった。動かなければ、自分をいないことに出来ると思っているのか?ふいに心の中に怒りが湧き、私は走って部屋を出た。階段を駆け降り、道路に出る。電柱の影に、既に女はいなかった。あいつは、生きているのか、死んでいるのか……。こんなにも判別のつかない存在は私にとって初めてで、私は混乱した。そして苛立ちもした。自分に判別のつかない存在がこれ程苛立たせるとは、初めての体験だった。いつも、生者は生者、死者は死者で、私の視界はクリアだった。馬鹿にされているように感じた、あの女に……。

 「これ、見てください……」

 いつの間にか後ろに来た男が、私にノートを差し出した。

 それは、さっきのノートの、最後に書かれたページだった。


 あの、女に殺される……。あの女は、僕を追い詰める。あの女は、いつも僕を見ている。朝起きる時、目を開けるのが怖い。あの女が、僕を見ている。僕の顔を、覗きこんでいる。目を瞑っていても、それが分かる。なのに、目を開けると、女はいない。どこにいても、トイレに入っても、シャワーを浴びている時でも、あの女が後ろにいて僕を見ている気がする。外を歩いていても、人混みの中にいても、好きな声優イベントに参加している時も、女は観客に紛れ込んで僕を見ている。女がしていることといえば、ただ、僕を見ているだけだ。それなのに、僕はこんなにも追い詰められている。最近では、耳元で女の声が聞こえるようになってきた。きっと、あの女の声だ。ぼそぼそと、何を言っているかは分からない。だけども僕の脳は、それを知っている言語にしように勝手に補填してくる。僕は耳を塞ぐ。だが、脳内で、女の声が高らかに響きわたる。


………………死ね………………、と……。

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白闇 砂野秋 紗樹 @goichido

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