君と通ったあの店で
ささたけ はじめ
千円の日々
学生時代、私の住むアパートの近くには、小さな焼き鳥屋があった。
大将が一人で切り盛りするためか、テーブル席はなくカウンター席のみの、とても狭い隠れ家のような焼き鳥屋だ。
そんな店へ、私は数年ぶりに足を運んだ。
*
「――いらっしゃい」
のれんをくぐり中へ入ると、かつてと変わらず愛想の無い大将が出迎えた。
彼が指し示す席へと座り、軽く店内を見回す。
時間が経ったぶん、店内は昔よりも汚れている気がする。それとも、以前からこんなものだったろうか。カウンターの中では赤く熱された炭火が、鶏肉が落とす油に音を立てながら燃えていて――そのたびに、狭い店内は白く香ばしい煙で視界が覆われる。
変わらないな、ここは――。
ネクタイを緩めながらそんな感傷に浸っていると、おしぼりとお冷を差し出しながら大将が声をかけてきた。
「――久しぶり。今日は一人なのかい?」
「覚えて――るんですか? 私を」
「当たり前よ。何年か前までは、よく来てくれてたじゃないか。彼女さんと」
「彼女――」
確かに当時、私はとある女性と二人でこの店を頻繁に訪れていた。
しかしその相手は――意中の人ではあれ、私の彼女ではなく――誰かの彼女であった。
彼女は道ならぬ恋に身を投じていた。
左手の薬指に銀色の指環が輝く相手を想う彼女は、その境遇ゆえに数多の不満を抱えていた。そのはけ口として私は選ばれ、彼女が耐えきれなくなるたびに、この店を共に訪れたのである。
飾らない女性であった。
このような店でも、服や髪に匂いがつくことを厭わず喜んでくれた。強くもないくせに日本酒を好み、酔いが回ると狭い店内で常連も一見もなく、手当たり次第に周囲の客へ絡んで見せた。
そのたびに私は他の客や大将に頭を下げつつも、内心ではまんざらではなかった。彼女に振り回される自分が、嫌いではなかったのだ。
「ワケありかい?」
「――ええ、まぁ」
楽しかった日々を思い出し、ふいに涙がにじみ出す。
結局、私は想いを口にできぬまま、彼女はその男性との子供を身ごもり――いずこかへと去って行ってしまった。
そして先日。
ついに彼と入籍できたと、久方ぶりに連絡がきたのだった。
「色々と、ありまして――」
「ふぅん。で、なんにする?」
目元を抑え
そのそっけなさが、今はとてもありがたく思えた。
「串盛りと、お酒を」
「あいよ」
涙でメニューも読めない私は、記憶のままに注文し、それを受けた大将は調理を始めた。
肉の焼ける音を聞きながら想い出す。
この店の串盛りは確か、焼き鳥が五本。それに日本酒で、ちょうど千円だった。あの頃は、それだけで満足できたな――と。
それはお金なんかなくても、彼女と付き合えなくても――千円で幸せを感じられる日々だった。
再び視界はにじみ始め――私は少しの間、感情に身を任せた。
「お待たせ」
――しばらくして、大将に声をかけられた。
「すまねぇな、鳥の油が多くてよ――煙が目にしみたろう」
「いいえ――ありがとうございます」
私が顔を起こすと大将は、そう言ってそらとぼけた。涙を認めてくれた彼の配慮に、感謝を述べて皿を受け取った。
涙で霞む目をこすって確認すると――私は皿の上に若干の違和感を覚えた。
この店の串盛りの内容は、ねぎまにもも、かわ、なんこつ、つくねの五種類だった――はずなのだが。
なぜかそこにつくねはなく、代わりに見慣れぬ肉が乗っていた。
「――大将、これは?」
「それはハツだよ。鳥の心臓だ」
「串盛りに、そんなの――」
「ありましたっけ」と続く私の疑問を置き去りにして、大将はお酒を手渡す。
「で、これがお酒ね。山形の『くどき上手』だ」
その銘柄を聞いて私は大将の意図するところを知った。
次は『上手く口説い』て、誰かの『
大将はそんなつもりで、私を励ましてくれているのだ。
彼の心遣いを知り、私はそれに応えるべく、きちんと料理を楽しむことにした。
ハツは歯応えある食感が心地よく、日本酒は華やかで優しい香りだった。身体の奥までお酒が行き渡ると、内側から私をじんわりと温めてくれて――それはまるで、大将の気遣いのように優しい温かみであった。
そのすべてが嬉しくなり、先ほどまでの涙を忘れられた私は、大将へと語りかけた。
「大将って、意外と粋な人だったんですね」
「何言ってんだ。俺は昔からこうだよ」
「でも僕らが来たときは、いつも無愛想だったじゃないですか。彼女が話しかけても、『ああ』とか『うん』ばっかりで」
「馬鹿野郎、あんたらが付き合ってると思って遠慮してたんじゃねぇか。男女の中に割って入るような野暮はしねぇよ」
「そうだったんですね――」
「そうだよ、やっと気付いたのかい」
彼は「やれやれ」といった感じで眉間にしわを寄せ、肩をすくめる。
「ま――」
そう呟くと、不愛想な大将が、初めて顔をほころばせながら言った。
「それだけあんたも、大人になったってことだろうな」
その笑顔に、私は気付かされた。
――そうだ。私は大人になったのだ。
ならば、甘く懐かしい感傷はもう終わりにせねばならない。
いつかまた、同じように過去に
その時は、いつでもここへくればいい。
いつまでも変わらない、狭く小さなこの店へ。
私は残りの串を平らげ、酒を一気に流し込むと、千円札を取り出しながら言った。
「大将、お勘定を」
「あいよ。千五百円ね」
君と通ったあの店で ささたけ はじめ @sasatake-hajime
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます