アーレシュルフト
アイゲマンの案内に従って、私たちは来た道とは違う山道を辿ってマイリンゲンの町の反対側に下った。町に至る前に、『アーレシュルフト』と呼ばれる、氷河が削った渓谷を通った。渓谷というよりは山の裂目とでも呼んだほうがよいような狭い谷だった。最も狭いところでは左右の壁面の幅が人がやっと一人しか通れぬぐらいのところもあった。谷底は急流で、私たちは行程のほとんどを壁面に打ち込まれた丸太の歩道を歩かねばならなかった。
さて、渓谷の半ばにさしかかった頃、壁面の一部に人が穿ったものか天然のものか、人の背丈ほどの洞窟が現れた。それほど深い穴ではなかったが、アイゲマンはそこへ入って行き、私たちにも一緒に来るように手招きした。私たち全員が狭い洞窟に身を寄せ合うようにして入ってゆくと、アイゲマンは奥の壁面を押した。
すると、壁面の一部が私たちの立っている地面ごとごそりと動き、数瞬の後、私たちは洞窟のさらに深部へと続く暗闇に立っていた。アイゲマンはマッチを擦り、壁際の桶に立てかけてある松明に火を灯した。奥へと続く細長い道が照らし出された。
「ロスリンの洞窟で同じような仕掛けを見ましたよ」
私がアイゲマンに告げると、モンゴメリが頷いた。
アイゲマンは得意げに微笑み、松明を掲げてゆっくりと歩き出した。
「メイスンはこういう手の込んだ仕掛けが好きでしてな」
洞窟の中はやけに寒かった。それもそのはず、奥へ進むと、壁面も床も天井もどちらを向いても氷に覆われていた。
「氷河時代の名残です。ここの氷は何十万年も溶けたことがない」
息を呑む私たちに、アイゲマンは説明した。
さらに奥へ進むと、氷の洞穴は行き止まりになった。
一番奥の壁面は真っ平で、自然の造形とは思われなかった。
アイゲマンが松明を近づけると、氷の壁はずっと奥まで見通すことができた。
「こんなに透明度の高い氷は見たことがない」
ホームズが氷の面に手を這わせ、感嘆の声を漏らした。
「あれを御覧なさい」
アイゲマンに促されて目を凝らすと、松明の明かりに照らされて、分厚い氷の向こうに何かが埋め込まれているのが見える。
「巻物だ・・・」
トレジャーハンターの血が騒ぐのだろう。モンゴメリが鼻面をくっつけるようにして、拳で氷の壁面を叩いた。しかし、無情な氷は音さえも響かせなかった。
「ここの氷は溶けたことがないと仰いましたね?」
ホームズが問うた。
「いかにも」
アイゲマンは頷いた。
「では、誰があの巻物をあそこに置いたのですか?」
「さあ。とんと見当もつきませんな」
アイゲマンはとぼけた調子で答えた。
「ご覧の通りここの氷は普通ではない。我々現代人は、これほど透明度の高い氷を作る術を持たない。そもそも、これを氷と呼んでよいのかどうかも分からないのです」
「これもアトランティスの叡智だと言うのですか?」
私は問うた。ホームズの鋭い視線が向けられるのを感じながら。
「ほう。そこまでご存知でしたか」
アイゲマンは眉を吊り上げた。
「あのモリアーティ教授が我々の秘密をどこまで解き明かしていたかと思うと、恐ろしくなります」
「じゃあ、本当なんですね。かつてこの世界にアトランティスが存在したというのは?」
アイゲマンは私の顔を見て、重々しく頷いた。しかし、それ以上喋るつもりはないと言うように、口をへの字に結んだ。
「モリアーティは徹底的にフリーメイスンを利用しようとしたんだ」
ホームズが呟いた。
「自分の知識を満たすため。革命の野望を実現させるため。ありとあらゆる目的のために・・・」
「そうです」
アイゲマンは重々しく頷いた。
「我々も早くから彼の動きを察知していました。しかし、彼の方から直接私のもとへ連絡があった時には、度肝を抜かれました。フリーメイスンの最高位階に属する私の正体をどうやって突き止めたのか・・・」
「教授は・・・」
その時、シェリルが口を開いた。
「私たちテンプル騎士団の末裔を集め、そこからフリーメイスンの秘密を引き出していました」
アイゲマンはシェリルに視線を向け、しげしげとその顔を見つめた。
「ふむ。あなた方は皆、テンプル騎士団、つまり、我々の同胞というわけだ。そこに目をつけたモリアーティの慧眼、まさに恐るべしですな。さらにあの男の頭脳は、世界の覇権を競う第一級の国々をも支配しうる我が組織をさえ手玉に取った。まったく稀代の天才と呼ぶにふさわしい人物でした。道を誤らねば、彼は偉人として歴史に名を刻んだことでしょう」
「彼が道を踏み誤ったのかどうか、我々には判断できないでしょう」
ホームズが言った。
アイゲマンはホームズに鋭い視線を向けた。
「それはどういう意味ですかな?」
「それは後世の人々が判断することです」
「何を仰りたいのかな?」
アイゲマンの目が翳りを帯びた。
「モリアーティの野望は、フリーメイスンが長年温めてきた計画そのものだったのではありませんか?」
「・・・・・」
ホームズの指摘に、アイゲマンは沈黙した。
「フリーメイスンは、現在世界に蔓延しつつある資本主義思想を廃し、別の思想で新たな統治体制を築こうとしている。モリアーティがどこまで踏み込んでいたか分からないが、僕なら・・・」
アイゲマンはホームズを押し留めるように掌を前に差し出した。
「そこまで・・・、そこまで。皆まで言われますな。それ以上喋れば、世界はもう一つの偉大な頭脳を失うことになる」
それは警告だった。
知りすぎた者は消される。
いつの世も変わらぬ、それは組織の掟だ。
ホームズは肩をすくめた。そんな警告を一向意に介する気振りはない。彼がそれ以上の言葉を慎んだのは、彼の身を案じる相手の気持ちを汲んだからだろう。
「驚いた御仁ですな」
改めてホームズを見やり、アイゲマンは言った。
「どうやってそこまでのことを・・・?」
「さすがの僕も、何の材料もなく推理を進めることは出来ません。少なくとも、モリアーティと同じだけの情報を手に入れなければ・・・」
そこまで言うと、ホームズはシェリルの方を見て片目を瞑った。
その瞬間、ようやく私の中で全てが繋がった。
すべての鍵はシェリルにあったのだ。
テンプル騎士団の伝える暗号は全てヘブライ語で書かれている。暗号の解読は教授が手がけたが、文書そのものの翻訳はシェリルが行った。つまり、彼女は教授にもたらされる情報の多くを知る立場にあった。その情報を彼女はホームズに流していたのだ。二人の間の接点がどこにあったのかは謎だ。しかし、ホームズが教授の行先を正確に予測できたことにも、これで説明がつく。
彼女は教授のそばに仕えながら、ずっと機会を窺っていたのだ。そして、私の手でグラハムへの、ホームズの手で教授への復讐を遂げたのだ。
私は唖然としてシェリルの美しい顔を見つめた。
「君は最初からそのつもりだったのか・・・?」
「それ以外に、私が教授のそばにいる理由があって?」
彼女の声は冷たかった。
私は、この時ほど女を恐ろしいと思ったことはない。
「私、以前からドクター・ワトスンの書かれる物語のファンでしたの。教授に対抗できるのはホームズ様しかいないと思い定めておりました」
ホームズを見つめるシェリルの眼差しには深い敬慕の念が表れていた。
「つまり、今件の依頼主はシンクレア嬢というわけだ。これをワトスンに教えてやれないのが残念だよ」
ホームズは軽く微笑んで、シェリルの視線を受け止めた。
またしても、あらぬ嫉妬の炎が私の心に燃え上がった。
「ヘル・アイゲマン」
ホームズはドイツ語でアイゲマンに呼びかけた。
「一つ些細な質問をお許しいただきたい。テンプル騎士団は、大陸ではひどい迫害を受けたはずです。あなた方はなぜ、このスイスの地に留まったのですか?」
「ほう。ホームズさんにも分からないことがあるとは、驚きですな」
アイゲマンは嬉しそうに目を輝かせた。
それを認めるのが口惜しいとでもいうように、ホームズは唇を歪めた。
「魔女狩りやテンプル騎士団への迫害が行われたのは中世までのこと。それ以降、このスイスの地にはテンプル騎士団が集まりだしたのです。氷に封印されたこの巻物を守るという使命もありましたが、何よりも永世中立国を謳うこの地に安住の地を求めたのです。それが現在の我々に繋がるテンプル騎士団の系譜です」
「なるほど。テンプル騎士団の生き残りはスコットランド人(ハイランダー)だけではないということですな。古代叡智の謎を解く鍵は世界中に散らばっているというわけだ」
「モリアーティ教授やあなたのような天才の前では、それも大した防護策にはならんようですな」
「少ない手がかりから謎を解いてゆくのが私の仕事です。数学者であったモリアーティ教授が私と同じ手法を用いたことは想像に難くない。ところで、あなた方は、ご自身の手でご先祖の残された秘密を解こうとはされないのですか?」
「それを試みる者もいます。占星術、錬金術、カバラ哲学・・・。我々の築いてきた知識体系は様々な形で現代科学文明の発展に寄与している。気付いている人は少ないがね・・・。ヘル・ホームズ、あなたも我々の謎に興味がおありですかな?」
「ない・・・と言えば嘘になりますな。しかし、モリアーティ教授の二の舞はごめんこうむりたい」
「賢明なご判断です。我々とてあなたのような方を敵に回したくはない。今後はどうされるおつもりですかな?」
「しばらくは、このヨーロッパの地を離れようと思います」
「それがよろしいでしょう。でも、この地へお戻りの際には、お声がけ下さい。あなたはいつも我々の友人として迎えられるでしょう」
組織に干渉しない限りホームズには手を出さないという、フリーメイスン長老の約束だった。
ホームズは軽く会釈をして謝意を示した。
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