ホームズの最期

 私とホームズは、モリアーティの落ちた滝壷を言葉もなく見下ろしていた。

 瀑布となって流れ落ちる水の音が耳に甦ってくるにつれ、私は正常な感覚を取り戻して行った。

 それは恐怖だった。

 私は『教授』と呼び親しんだ人を見殺しにした。いや、この手で殺したも同然だった。

「教授・・・」

 声に出して呼んでみても、返って来るのは滝の轟音だけだった。

 全身の力が抜け、私は地面にがっくりと膝をついた。

 私の肩に、そっと手が添えられた。見上げると、ホームズが私を見下ろしていた。

「君は立会人として役目を果たしただけだ。この責めを負わねばならぬのは僕だ」

 私は首を振った。

「いいえ。こうなることは最初から分かっていたんだ。結果がどうあろうと、僕はあなた方を止めるべきだった。僕だけが・・・、僕だけが、それを出来る立場にあった。なのに・・・」

「マーカス」

 女の声が私を呼んだ。

 振り向くと、そこにはシェリルが立っていた。


 なぜ君がここに?


 私が問う前に、シェリルは言った。

「見ていたのはあなただけじゃない。私たちみんなが見ていたのよ」

 彼女の隣にはモンゴメリともう一人、見知らぬ老人が立っていた。

 私は立ち上がり、その場にいる人々の顔を順に見回した。


 ホームズ。

 モンゴメリ。

 シェリル。

 腹部まで届く長い白髭を生やした老人。


 何がなんだか訳が分からなかった。

「こちらは、ラインハルト・アイゲマン様。フリーメイスンの最高位階に序せられる方よ」

 シェリルが老人を紹介した。

 フリーメイスンと聞くと腰が引けたが、儀礼上、私は名乗り、右手を差し出した。

「お若い方、辛い思いをされましたね」

 穏やかだが、力強い声が言った。

 老人は私の手を握る時、かすかに指を立てた。互いの素性を確かめる時にフリーメイスンが見せる仕種だ。すでに紹介された後だからその必要はないのだが、習い性になっているのだろう。

「フリーメイスンの最高位階?」

 我知らず、声に不審が滲んだ。

「『聖堂の騎士(オーダー・オブ・テンプル)』。そうでしたね?」

 ホームズが老人に同意を求めた。

 老人は頷いた。


 オーダー・オブ・テンプル。


 私にとっては不吉な響きを帯びた名だ。それがフリーメイソンの最高位階の名前だとしたら、やはりフリーメイソンとテンプル騎士団には強いつながりがあるのだ。

「自らの素性を明かすことはメイスンの慣例に反しますが、モリアーティ教授を滅ぼしてくださったあなた方に名乗らねば、我々は忘恩の徒となりましょう」

 アイゲマン老人は言った。

「とにかく、ここを離れよう。じきにワトスンが戻ってくる」

 ホームズが時計を見て言った。

 私は信じられぬ思いでホームズを見つめた。


 なぜ?


 これ以上あの善良なるワトスン医師を騙す必要などないではないか。

「シャーロック・ホームズはモリアーティ教授とともにここで死んだ」

 私と目が合うと、ホームズは言った。

「世間にはそう思わせておきたい」

 ホームズの冷淡な口ぶりに、私は憤りを覚えた。

「世間?ドクター・ワトスンはあなたの友人でしょう。なぜ・・・?」

「彼にはそれを世間に伝える役を担ってもらう」

「それならそれで、本当のことを言えばいいじゃないですか」

 ホームズは手を挙げて私の非難を遮った。

「私が手がけた事件を彼が世間に公表していることは知っているね?え、知らない?僕らも思ったほど有名ではないらしい。それはともかく、彼には嘘をつくという芸当ができんのだ。多少の誇張癖はあるが、決して嘘は言わない。真相を知れば、彼の筆が鈍るというものだ。

 ああ、親愛なる我が友ワトスン。彼こそ良心の権化、まことの人格者なり」

 冗談めかした賛辞に私はホームズを睨みつけた。

 この男には人並みの感情というものがないのか。自分の死が・・・たとえそれが真実ではないとしても・・・、どれほど友を悲しませるか、分からないのか。

「これは彼自身のためでもある。まだ、『ネクロポリス』は根絶されたわけではない。私が生きていると分かれば、その残党が黙ってはいまい。ここにいる彼のようにね」

 ホームズはモンゴメリのほうを見やった。

「あっしは別に・・・」

 モンゴメリは目を丸くした。

「この決闘は教授自身が望んだことでさ。教授が負けたからって旦那を恨む筋合いはありませんや。そもそも、旦那の相手をするのはあっしには荷が勝ちすぎまさ」

 ホームズは肩をすくめた。

「皆が皆、彼のように話の分かる人間ならば問題はないがね。中には道理の通じない相手もいる。道理の分からぬ人間に道理を説くほど馬鹿らしいことはない。しかし、逆恨みというやつは、軽く見れば痛い目を見る。それこそ、ワトスンに累が及ぶことにでもなれば、僕は悔やんでも悔やみきれん。シャーロック・ホームズはこの世から消えた。そうしておけば、すべてが丸く収まる。さあ、さっき渡した手紙を返してくれたまえ」

 ホームズの理屈には一応筋が通っている。

 私はしぶしぶ懐に仕舞ったホームズの手紙を取り出した。

 ワトスン宛の手紙を受け取ると、ホームズは手近の岩の上に置き、風で飛ばされぬよう、銀製のシガレットケースで重しをした。

「さあ、では急ぎましょう。あなた方にお見せしたいものがあります」

 アイゲマン老人が私たちを促した。



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