ライヘンバッハの滝
マイリンゲンはアルプスの山懐に抱かれた小さな町だ。谷間(たにあい)の盆地に家々が建ち並び、豊かな牧草地の広がる山の斜面には、そこここで羊や山羊がのんびりと草を食んでいる。
この牧歌的な風景を眺めていると、これからこの地で血生臭い決闘が行われることなど、想像もできなかった。
教授と私は放牧地を抜けて山道に入り、山の中腹に巡らされた遊歩道を案内の道標に従って登って行った。教授は驚くべき健脚ぶりを発揮し、若い私のほうが置いて行かれる始末だった。もし、本当にホームズと格闘することになったとしても、背格好も似た二人のこと、どちらも体力では引けを取らないだろう。
山道に穿たれた天然の隧道を抜けると、激しく水の流れ落ちる音が聞こえてきた。木々の生い茂る森を抜けると、突然目の前に、山腹の断崖を流れ落ちる滝が現れた。落差百メートルをゆうに超える瀑布は、まるでアルプス中の雪解け水が一箇所に集まったかのような勢いで奈落に吸い込まれてゆく。白煙のごとく舞い上がる水飛沫で滝壺は見えない。
私たちの歩いてきた小道は、ちょうど滝の真ん中ぐらいの高さで流れ落ちる水に削られ、滝と接する辺りで途切れていた。突き出た岩棚の端まで歩いて行くと、地面はぬかるんでいて、真下を見下ろすと、目も眩むばかりの高さだ。ここから落ちれば、まず命はない。
「ライヘンバッハの滝だ」
私の後ろで教授が呟いた。
「当代きっての二つの頭脳が雌雄を決するにはふさわしい場所だ」
教授の皮肉は、いつにない哀愁を帯びている。
ホームズをこの滝壷に落とすつもりで、教授がこの場所を選んだことは間違いない。それはとりもなおさず、自らの命をも危険に晒すということだ。
そこまではっきりと決着をつけねば、教授の怒りは収まらないのか。
そう思うと、この場所はまさに、二人の宿命を顕現させた場所のようにも見える。
「そろそろだな」
教授はポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめた。
私たちは隧道の脇の潅木の茂みに身を隠し、ホームズたちを待った。
ほどなく、隧道を抜けてホームズとワトスンが姿を見せた。二人は、私と同じように雄大な滝の流れに目を瞠り、小道の先の岩棚に歩み寄り、滝壷を見下ろした。
私たちが茂みから身を出そうとしたところ、隧道のほうから一人の少年が現れ、ホームズ達のほうへ駆け寄った。そして何事かを告げると、ワトスン医師を連れて隧道のほうへと戻って行った。ワトスンは、何度も心配そうにホームズのほうを振り返りながら、私たちの隠れている茂みの前を通り過ぎ、山道を引き返して行った。
滝の音のせいで、彼らが何を話しているのかは聞こえなかったが、何かのっぴきならぬ事態が出来したらしい。
隧道の向こうにワトスンの姿が消えると、私と教授は潅木の間から小道に出て、ホームズの退路を塞いだ。
私たちが隠れていたことを知っていたかのように、ホームズは落ち着き払った様子で私たちに向き合った。
「そちらの立会人はどうしたのかね?」
声が届くところまで来ると、教授はワトスンが引き返した理由を問うた。
「我が友には、ロンドンに待っている人がいる。これ以上付き合わせるわけには行かない。宿の厩番に頼んで、ひと芝居打ってもらったのさ」
こともなげに言ってのけるホームズだが、その言葉の裏には彼の決意の程が伺える。教授と同様彼もまたこの戦いに命をかけるつもりなのだ。
「ところで、モリアーティ教授。あなたに騎士道を重んずる心がおありなら、少しばかり時間を頂きたい。図らずも友を欺いたことに対する詫び状を書きたい」
教授は鷹揚に頷き、唇の端を歪めた。
「それが君の遺言状となる」
ホームズは懐からノートとペンを取り出し、その場に立ったまま、几帳面な手つきで何やら書き始めた。
「君は神を信じるかね?」
一心にペンを走らせるホームズを眺めながら、教授はかつて私にしたのと同じ問いを投げかけた。
ホームズは答えなかった。
「運命を司る神がもし存在するとして、我々ほどうまく計算された関係はあるまい。ここで君と決着をつけられることを神に感謝せねばなるまい」
「その点に異論はないよ、モリアーティ教授。我々の出会いは、まさに天の配剤というべきだろう。その故にこそ、僕は神を信じることができる」
「お褒めの言葉と受け取っておこう。そろそろ始めるかね?」
言葉の応酬は、最早何の意味も持たなかった。
メモを書き上げると、ホームズは私に歩み寄り、ノートから引きちぎった紙を私に手渡した。
「そちらの立会人が君でよかったよ、ガレット伯爵。私に万一のことがあったら、これをワトスンに渡してくれたまえ」
私が返事を返す前に、ホームズはくるりと背を向け、教授と対峙した。
なんて悲しい光景だろう。世界最高の頭脳を持つ二人が、こんな野蛮な方法で決着をつけなくてはならないなんて・・・。
予想に反し、決闘は一方的な展開となった。
肉体の強靭さでは、教授とて引けは取らなかったろう。その自信があったからこそ、教授は素手での決闘を選んだのだ。しかし、実際のところ、教授はホームズの相手ではなかった。ホームズは拳闘の名手で、その鉄のような拳を容赦なく教授の顔に叩き込んだ。教授はふらふらになりながらも、よく耐えた。生まれ持った肉体の強さもさることながら、それは執念のなせる業であった。ホームズにだけは負けぬという一心で、殴打の嵐に向かって立つその姿は美しくさえあった。
その教授を前に、一切手を緩めることなく拳を繰り出すホームズ。
そこには、単なる肉体の勝負を超えた、戦いの美学があった。人間は、意思の力で人間であることを超越できる。打たれても打たれても尚、敵の前に立ち続ける教授の姿は、私にそのことを確信させた。
しかし、ついに、意思の力の潰える時がきた。
教授は両膝からくずおれ、両手を地面についた。激しく息をつきながらも、ホームズを見上げる目はらんらんと輝いている。真っ赤に輝く双眸は地獄の魔王そのものの目だった。
一方のホームズは、軽い運動の後のすっきりとした顔をしている。
「さて・・・」
ホームズは、跪いたまま立ち上がることのできぬ教授を見下ろして言った。
「こんな形で勝負をつけることは、あなたも僕も望んでいない。どうだろうか、モリアーティ教授。あなたが野心を捨て、今後フリーメイスンとの関わりを絶つと約束するなら、僕もここで手を引くことにしよう」
フリーメイスン・・・。組織の枠組みを利して古の秩序を顕現しようという教授の目論見の、それは要である。
「ホームズ・・・。貴様は自分のやっていることが分かっているのか。わしの前に立ちはだかるということは、それだけ、人類の救済を遅らせるということだぞ。大きな流れの中で見れば、大罪を犯しているのは貴様のほうだ」
教授は息を喘がせながら言った。
ホームズは冷ややかに教授を見下ろしている。
「救世主にでもなるおつもりですかな?だとしたら、やはりあなたは間違っている。我々はすでにその方を得ているのだから」
「くくく・・わはははは・・・救世主だと?片腹痛いわ」
腹の底からこみ上げる笑いを堪え切れぬというように、教授は哄笑した。
「貴様の言う救世主がこの世界に何をもたらした?不平等と混沌、そして、絶えることのない争いばかりではないか。世の中はきれいごとでは治まらぬ。万人の平等などというものは存在せんのだよ。世界は・・・、選ばれし一握りの人間によって統べられるべきものだ。優れた人間の手によって・・・。貴様は・・・、貴様とて、その一握りの人間になれるものを・・・」
「あなたのお考えには賛同できかねますな、教授。あくまでもその野望を捨てぬというのであれば、僕は今日ここで、あなたを亡き者にせねばならない。そうなれば僕は殺人者として犯罪者の仲間入りをすることになるが、甘んじてその汚名を被りましょう」
ホームズはずいと教授の方へ足を踏み出した。
「待て」
教授は拝むように片方の掌をホームズに向けた。
「この勝負は私の負けだ。私が手を引けば、命はとらぬというのだな?」
ホームズは頷いた。
「二度と革命など企てぬことを約束して頂きます」
「大人しく教授の職にもどれ、と?」
「このヨーロッパでは、もうそれも無理でしょうな。しかし、あなたほどの頭脳をお持ちなら、新大陸でならやり直せるでしょう」
「分かった。言う通りにしよう」
教授は地面に両手をついてがっくりと頭を垂れた。
ホームズは、ふうっと大きな溜息をつくと、振り返り、決闘の前に手近の岩の上にかけた上着に手を伸ばした。
その瞬間、跪いた姿勢から教授が猛然と突進し、ホームズに体当たりした。
不意を衝かれたホームズはよろめきながらも、何やら不思議な体術を使って、教授と体の位置を入れ替え、その体を岩棚の向こうへ投げ飛ばした。しかし、勢い余ってホームズ自身の体も崖の向こうに消えた。
立会人としてことの顛末を見守っていた私は、その瞬間我に帰って、岩棚の淵へと駆けた。崖下を覗くと、崖っぷちの草をホームズが掴み、かろうじて転落を免れている。その少し下の岩の出っ張りには、教授がしがみついている。ホームズのほうは足場がなく、その全体重を支えているのは、根こそぎ抜けかけている数本の草だけだ。教授の方は岩の窪みに足がかかり、自力でも何とか這い上がれそうだ。
「ガレット、何をしている。そやつを蹴落とすのだ」
教授は恥も外聞もなく、私に向かって喚いた。
私は耳を疑った。今しがた目にした決闘の美学は幻だったのだろうか。
「何をぼうっとしている?そやつを・・・、ホームズを蹴落とせ。それで全てけりがつく。お前はこの私とともに、新しい世界を築く人間だ。やれ。お前自身の手で決着を付けるのだ」
本性をむき出しにして喚き散らす教授の醜態を目の当たりにして、私は急速に心が冷めてゆくのを感じた。
その時、ホームズと目が合った。
ホームズは一言も発さなかった。掴んだ草に一縷の望みを繋ぐ必死の形相の中にも、私を見つめる目は不思議なほど静かだった。
教授の喚き声は遠のき、もはや、滝の音さえ聞こえなかった。
私は岩棚に腹這いになり、ホームズの手を掴んだ。
それが合図ででもあったかのように、教授の掴んでいた岩が壁面から剥がれ落ち、この世のものとも思えぬ絶叫とともに、教授の体は瀑煙の中に消えた。
岩棚からホームズの体を引き上げると、ホームズは私と向かい合い、不思議そうに私を見つめた。
なぜ助けたのか?
とは、彼は問わなかった。
たとえ問われたとしても、私にも答えようがなかった。
こうして筆を執っている今も、あの時の自分の気持ちは分からない。ただ一つ言えることは、あの咄嗟の判断が正しかったということだけだ。
あの後、私はホームズの教えを仰ぐ身となり、ホームズは我が人生の師となった。
しかし、時々ふと思うことがある。
もしかすると・・・。
もしかすると・・・、あの時私が手を差し伸べた相手がホームズではなくモリアーティだったとしても、私は同じように思っているかもしれない、と。
私にとって、それは永遠の謎だ。
奇しくも今、モリアーティの言葉が甦る。
人間には善悪の判断などできないのだ。
ともあれ、この話には後日譚がある。もう少しお付き合い願うとしよう。
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