決戦の地へ

 湖上搬送用の小型帆船は、アルプスを吹き下ろす山風を帆いっぱいに孕み、トゥーン湖の湖面を滑るように帆走した。湖面に映るアルプスの峰は白く輝き、頬を打つ五月の風はさわやかだった。東西に細長い湖の湖上には、網を打つ漁師の船やヨット遊びに興じる人たちの姿がちらほらと見え始めていた。

 ホームズとモンゴメリは気が合ったのか、船が船着場を離れる前から、引きも切らずずっと話し続けている。ワトスン医師と私は、移り行く湖上の風景に目を楽しませていた。

 ああ、これが休暇であったなら、私たちはきっとよい友人になれただろう。しかし、束の間の船旅を終えれば、私たちはまた敵同士、最期の戦いに臨まねばならないのだ。

 対岸のインターラーケンに着くと、私たちは桟橋の上で互いに固い握手を交わした。

 ホームズとワトスンの目は実にさわやかで、死地に赴く悲壮感など微塵も感じさせなかった。日常生活を離れ、ちょっとした冒険の旅に出る。そんな気軽ささえ漂わせている。

 アルプスの山並みに向かって桟橋を歩いてゆく二人のイギリス紳士の後姿を、私は相反する二つの思いで見送った。二人は教授の敵で滅ぼすべき相手であるはずなのに、私は心から彼らの無事を祈った。運命のめぐり合わせの皮肉を思わずにはいられなかった。

 私は重い気持ちで任務に戻った。いや、重いというよりは、厳粛なというべきかも知れない。

 モリアーティ教授とシャーロック・ホームズ。余人の介入を許さぬ二人の対決を、私たちは静かに見守らねばならない。


 インターラーケンからマイリンゲンまで小一時間、馬車に揺られて、ホームズ達が『英国館』という宿に入るのを見届けた後、私はモンゴメリの案内に従って教授と合流した。

 教授は古民家を借り切り、そこにひっそりと身を潜めていた。シェリルも一緒に来ていた。

 教授に寄り添うようにして立つ彼女の姿を認めたとき、彼女との再会に胸が高鳴る一方、私の心には嫉妬の炎が渦巻いた。結局、最後まで、シェリルは教授のそばを離れることができなかったのだ。ほかに行く当てのない彼女がそうする外ないことは分かっていたが、それでも彼女は教授から離れるべきだ。強くそう思った。


 教授に対する忠誠か、それとも恐怖か。


 彼女の真情を読めぬことが、私を苦しめた。

「手筈は整っている」

 ホームズの到来を知らされると、教授は言った。

「ミス・フルブライト。君はこの手紙をホームズに届けてくれ」

 教授はシェリルに一通の手紙を渡した。

「モンゴメリ。君にはミス・フルブライトの付き添いを頼む。ホームズが泊まっている宿まで彼女を案内するのだ。君自身は姿を見られないように、気をつけたまえ」

 手紙には決闘の日時と場所が記されているのだろう。

「ワトスンとかいう医者が一緒にくっついてきてますぜ」

 モンゴメリが告げた。

「ふん、ホームズの友人とかいう例の医者か」

 教授は不興げに鼻を鳴らした。イギリスを脱出する時、教授はワトスンの名を借りている。それがもとで、危うくフランス警察の手に落ちるところだった。教授を罠にかけたのはホームズであったにせよ、その名を聞いて、教授が面白かろうはずはない。

「放っておきたまえ。くだらん友情にほだされて地獄への道連れになりたいというなら、好きにさせてやるまでだ」

 むしろそうなることを望んでいるかのように、教授はほくそ笑んだ。

「ガレット君」

 二人が出て行くと、教授は私と向き合った。

「君には決闘の立会人を頼みたい」

「教授とホームズさんの・・・?」

「そうだ」

 私は即座には肯じなかった。

「なぜ、僕なんですか?」

 私からの反問を予期していなかったと見え、教授はつと親指を顎先に当てて考え込んだ。

「ふむ・・・。まず、ミス・フルブライトは女だ。決闘などという野蛮な行為に関わらせる訳にはいかん。それから、モンゴメリだが・・・、あれは人間が単純にすぎる。有能だが、物事の機微には疎い」

 確かにその通りだ。モンゴメリには、何事につけ白黒をはっきりつけたがる癖がある。竹を割ったような真っすぐな性格は、逆を言えば、曖昧さを認めぬ偏狭な態度とも取れる。

「君と付き合い始めてどれくらいになるかな?」

 教授はふと話題を転じた。

「僕が大学に入る前からですから、一年と半年ぐらいでしょうか」

「まだそれぐらいにしかならないのか。もっと長いように感じるが・・・。だが、君とは色々な話をしてきたね。そうする中で私が感じたことは、君には思考の柔軟性があるということだ。これは私が常に重視する点でね。『ネクロポリス』などという巨大な組織を束ねるには、そのような能力が必要なのだよ」

 私は唖然とした。一敗地にまみれた今なお、自らの野望を遂げんとする教授の執念に・・・。

「『ネクロポリス』を再興されるおつもりですか?」

 教授は不敵な笑みを浮かべた。

「ふふふ・・・、何を諦めることがある。ホームズと決着をつければ・・・、奴さえいなくなれば、組織の再興は可能だ。その時こそ、君には私の右腕となってもらいたい」

 私はその展望に胸を膨らませるというよりも、その余りもの大きさに圧倒される思いだった。

「組織は壊滅させられたが、フリーメイスンという枠はそのまま残っている。メイスンの位階とネットワークを利用すれば、前よりも早く組織は組み上がる」

 私に否やはない。すでに腹は決まっている。しかし、教授に心からの忠誠を誓うには、最後のひと押しが必要だ。

「一つだけお聞きしたいことがあります」

「何かね?」

「教授は、ただ、父を利用しただけだったのですか?教授にとって、僕たちガレット家の人間はただ利用するためだけの存在なのですか?」

 教授はしばし私を見つめた後、ゆっくりと古民家の窓に歩み寄った。教授が歩くのに合わせて、痛んだ床板がぎしぎしと軋んだ。

「父上のことは・・・」

 窓の外のアルプスの山並みを見上げて教授は言った。

「今、君に対するのと同じように思っていた。ガレット家の秘密がほしかったことを否定するつもりはない。だが、父上には私の考えを理解してもらえると思っていた。

 結局、父上はテンプル騎士団の伝統に従うという判断を下した。つまり、私と袂を分かち、フリーメイスンという組織を守ってゆくことを選択したのだ。

 私と対立する立場に立った父上は、図らずも私とフリーメイスンの抗争の犠牲となったが、それが私の望んだ結果でなかったことは誓って本当だ」

 教授の言葉を噛みしめたあと、私はその背に向かって深く頭を垂れた。

 私がホームズに抱いている敬意と、我がガレット家、テンプル騎士団、フリーメイスン、そしてモリアーティ教授という存在に対して負うているものの重さは、比べるべくもなかった。いや、そもそも両者は比較の対象になりえない。

「決闘の時間と場所をお教えください」

 頭を垂れたまま、私は尋ねた。



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