前哨戦
その日の夕刻、私はホームズの泊まっているホテルに乗り込んだ。民宿風の小さなホテルの食堂は夕食時の賑わいを見せ、数脚のテーブルは全て埋まっていた。残照の下、春の花々が咲き誇る中庭が浮かび上がる窓際の席にホームズとワトスンを見つけると、私はつかつかと二人のテーブルへ歩み寄った。
ホームズはおやというように眉を上げると、食事の手を止めて、ナプキンで口元を拭いた。
ワトスンは少し驚いた様子で、警戒の色を浮かべてホームズと私の顔を交互に見やった。
「とうとう姿を見せたね」
私の来訪を予期していたかのように言うと、ホームズは足を組んで私を見上げた。
私の方は挨拶を述べる余裕もなかった。相手は座っているのに、こちらが見下ろされている気分だった。
「いつから僕の尾行に気づいていたのですか?」
「カンタベリーに着いたときからだ」
こともなげに言うと、ホームズは私に空いている椅子に座るように促した。
周りを見ると、私の剣幕に、他の泊り客が不審の眼差しを向けている。
「最初から気づいていたというわけですか?」
私は肩をすぼめて椅子に腰かけ、今さらながら声を落とした。
「なぜ、僕に尾行を続けさせたのですか?」
「君が僕を襲う刺客でないことは分かっていたからね」
「なぜ?」
「モリアーティが自分の手で決着をつけたがっているからさ。でなければ、自分で追ってきたりはしない。自分の手は汚さないという彼の信条には反するが、この僕が相手ではそうも言っていられなくなった。何しろ、僕のせいで全てを失ったわけだからね。
僕のほうとしても、万が一彼を取り逃がした場合、・・・実際そうなったわけだが・・・、僕と彼を繋げる糸は君だけだからね」
「あなたもご自分の手で決着をつけるつもりだった、と?」
「彼が警察の手を逃れた今、そうする以外にないだろう。あれほど危険な男を野放しにはできんよ」
「ご自身の命を危険に晒しても?」
「望むところさ。当世最高の頭脳と対決するチャンスを与えられたんだ。喜んでお相手申し上げるよ」
「あなたよりも向こうが上手だったら?」
「結果から言えば、僕とモリアーティの勝負は引き分けだ。向こうは大事に育ててきた組織を失い、古今稀に見る遠大な構想が水泡に帰した。一方の僕は、肝心要の組織の頭目を取り逃がした。結局はお互い自分の手で決着をつけるしかないのさ」
ホームズは掌を上に向けたり下に向けたりしたあと、ぎゅっと握り締めた。細身の長身のせいで普段は目立たないが、節くれだった拳には力が漲っていた。
「教授がどこにいるかもご存知なんですね?」
「僕がただあてもなく旅をしてきたと思うかね。パリでモリアーティを取り逃がしたとなれば、次の手を打たねばなるまい」
「教授があなたの後を追ってくることは計算のうち、というわけですか」
「君がうまく連絡係を務めてくれたからね」
ホームズは眉を吊り上げてにやっと笑った。
口惜しさと不甲斐なさで顔が上気した。私はずっとホームズの掌の上で踊らされていたのだ。
「もっとも、罠にはまっているのはこちらかも知れないがね。何しろ、網の目をくぐった教授の手下がぞくぞく集結しつつあるようだからね」
教授の手下というのは、僕とモンゴメリのことだろうか。それとも他にまだ誰かいるのか。ホームズがどれほどの情報を握っているのか、またそれをどこから手に入れているのか、私には見当もつかなかった。いずれにしても、これがホームズにとって危険極まりない旅であることは確かだ。
そこへたった二人で乗り込もうというのだ。からりと笑うホームズと、彼と運命を共にしようとするワトスン医師。私はこの時、二人の覚悟の程を知った。
「マイリンゲンに何があるというのです?」
私は最後の質問をぶつけた。
「ふふふ・・・。種明かしは最後のお楽しみさ」
ホームズはいかにも楽しげに、その風貌に似合わぬ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ここから先はもうこっそり僕たちの後をつけることもない。明日は呉越同舟、一緒に湖上の舟遊びと洒落込もうじゃないか。くれぐれも、あの船頭君に言っておいてくれたまえ。途中で僕を襲おうなんて気を起こさないように・・・と。ここまで来れば逃げも隠れもしない。教授も僕も互いに相見えることを心待ちにしている、とね」
途中でホームズ達を襲うことは教授の意に背くことになる、という警告か。
私はただ黙って頷くしかなかった。戦いを前にした男にかけるべき言葉はない。私は立ち上がると、折り目を正し、深々と頭を下げた。この不世出の名探偵とその友人に最上の敬意を表したかった。
翌朝、約束の時間に、ホームズとワトスンはトゥーン湖畔の船着場に姿を見せた。
私は先回りして、モンゴメリに前夜の経緯を話し、教授とホームズの決闘に水を差さぬよう言い含めておいた。
いつになくむっつりとした様子のモンゴメリは、私の念押しに返事を返しもしなかった。私以上に教授に心服している彼のこと、彼なりに期する所はあったかも知れない。機先を制されて機嫌を損ねるのも無理はない。それにしても、いつも陽気な男の沈黙は不気味だった。
ところが、ホームズたちが姿を見せると、それまでの不機嫌はどこへやら、モンゴメリはころりといつもの明るさを取り戻した。
「おはようごぜえやす、ホームズさん、ワトスン先生」
モンゴメリが英語で声をかけると、ホームズはにっこりと笑って挨拶を返した。
まるで旧来の友人同士が、朝の挨拶を交わしているといった風情だ。
「旦那も人が悪いですぜ。こっちの正体が分かっているなら、最初からそう言ってくれりゃいいのに・・・。こちとら、慣れねえドイツ語で猿芝居を打つこともなかったんだ」
モンゴメリはおどけて唇を尖らせて見せた。
「いやいや、君のドイツ語は大したものだよ。だけど地元の人間に化けるにはもう少し訓練が必要だね」
ホームズのほうも上機嫌で応じた。
「はっは・・・。こいつは一本とられやしたぜ。こっちの魂胆は最初からお見通しって訳ですな。それを承知で下手な芝居に付き合ってくださるたあ、あっしとは役者が違いまさ。恐れ入りやした。
ささ、どうぞご乗船下さい。こうなったら、あっしの名誉にかけて、無事対岸まで送り届けて差し上げやすぜ」
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