援軍
トゥーンはおとぎ話から抜け出してきたかのような、中世から続く宿場町だ。峻険なアルプスの山間(やまあい)に伸びる細長い湖の名を冠する町には、赤みがかった煉瓦造りの家が建ち並び、踏みならされた石畳の道が湖畔の船着場へと続いている。水際では白鳥や鴨、家鴨といった鳥たちが戯れている。白いアルプスを背景に広がる湖と町の眺めは、まるで一枚の風景画を見るようであった。
ホームズたちの足取りを追って湖畔へ下りた私は、船着き場の手前でホームズの姿を確認し、近くのボートハウスの陰に身を隠した。ホームズの話しかけている相手は、私の知った顔だった。意外な人物の登場に、私は驚きもし、またちょっぴり嬉しくもあった。
モンゴメリだ。
顔はモンゴメリだが、どこからどう見ても、地元の渡し守にしか見えぬいでたちをしている。船賃の交渉でもしていたのか、何事か話し込んだ後、ホームズとワトスンは町のほうへ帰って行った。
二人をやり過ごした後、私は隠れ場所から出て、モンゴメリに声をかけた。
「よう。なかなかうまくやってるみてえじゃねえか」
私の顔を見て特に驚いた様子もなく、モンゴメリは陽気に挨拶を返した。
「ここで何をしているんだ?」
私の方は聞きたいことが山ほどあった。
「何って、お前・・・。助っ人に来たのよ」
「僕の?」
「他に誰がいるって言うんだ」
モンゴメリは辺りを見回し、さも不思議そうに言った。
「どうして僕らがここへ来ると分かった?」
この日、私はまだ教授への電報を打っていなかった。それに、モンゴメリがこの土地の渡し守に化けるのには、多少の準備が要ったはずだ。前もってホームズがこの町を通ると分かっていなければ、その時間は取れない。
「さあな。教授は全てお見通しみてえだぜ。あちらさんの目的地は、この湖の向こうのマイリンゲンって町だ」
私は狐につままれた気分だった。私はただホームズとワトスンの後を追ってきただけで、その時々の居場所を電報で伝えてきただけだ。教授が私以外の情報源を持っていることは間違いない。だが、それにしてもわからない。この追跡・逃亡劇で上を行っているのは、果たして教授か、それともホームズか。
「マイリンゲンという町に何があるんだろう?」
「知るもんか。俺たちゃ、余計なことを考えなくていいんだよ。ことの始末は教授がつけるさ」
教授に心服しているモンゴメリは、何ら疑問を抱く気ぶりもない。
「それにしても、何故君がここにいるんだ。航海中じゃなかったのか?」
「ああ。地中海のほうへ出向いていたんだが、マルセイユで教授からの連絡を受け取ってな。フランスの沿岸を北上してル・アーブルで上陸して汽車に乗った。教授と落ち合ったのはパリだ」
航海中のモンゴメリを呼び戻すとなると大ごとだ。教授はどれほど前からこの事態を予測していたのだろう。
「ここ二、三ヶ月、教授の近辺が急に慌しくなったろ?」
確かに、オックスフォードから姿を消す前の教授にそんな様子は見えなかった。
「あのホームズとかいう探偵のせいさ」
モンゴメリはホームズの去った道のほうを顎でしゃくった。
「今やネクロポリスは壊滅寸前。長年温めてきた計画もおじゃんだ。危うく教授まで敵の仕掛けた網にかかっちまうところだった。そこをこの俺様がお救い申し上げたってわけだ」
モンゴメリは得意満面に語り始めた。
「まさに危機一髪ってやつよ。ロンドン警視庁(スコットランドヤード)からの要請でパリ警察が動いていやがった。俺は大丈夫だったのかって?俺はノーマーク。敵さんの標的リストに俺の名前は載っていなかったのさ。俺は教授の一味でも、政治活動には関わっていなかったからな」
とはいえ、ことはほぼホームズの計画通りに運んだのだ。ヨーロッパ世界の再構築を目論む教授の野望を打ち砕いた点では、ホームズの大勝利といってよい。ただ、その核となる教授を捕え損なったことは将来に大きな禍根を残すだろう。
これはただではすむまい。
自らの命運を賭けて臨んだ大事業を挫かれた教授は当然のこと、ホームズも一味の首魁を取り逃がしたとあっては、収まりがつかぬだろう。
だが、二人の勝負の行方以上に気にかかるのは、図らずも騒動の渦中に置かれたシェリルのことだ。
「シェリルは?」
「安心しろ。教授と一緒だ」
そうは言われても、世界の裏側で繰り広げられる暗闘の渦に翻弄される彼女の運命を思うと、私はいても立ってもいられなかった。
この追跡行の途上、彼女のことを考える時間はたっぷりあった。
思えば、私と教授が出会うきっかけを作ったのが彼女だった。今となってはその時の彼女の真意は知りようもないが、私の方は一目見た瞬間からずっと彼女に惹かれていた。憂いを帯びた神秘的な眼差しと時折見せる優しい笑顔に魅せられ、私の心は彼女に囚われていった。
世界革命の構想を描く教授にはテンプル騎士団の謎を解くという命題があり、教授に恩のあるシェリルは積極的にその事業に荷担していた。古くさい家のしきたりにうんざりしていた私には、先祖伝来の秘密を明かしたことについて教授や彼女を恨む気は毛頭ない。だが、我がガレット家がシェリルのシンクレア家と同じ運命を辿ることは目に見えていた。シェリルはそれを看過し、私を自分と同じ運命に引き込んだ。両家を崩壊に追い込んだグラハムに対し、私に復讐の鉄槌を振り下ろさせる為に・・・。その瞬間から動き出した運命の歯車(ホイールオブフォーチュン)を、最早私の力で止めることは出来ない。こうなることが分かっていながら、彼女は何も話してくれなかった。私がロスリンへ向かう前にシンクレア家の辿った運命を話してくれていたら、もしかすると私は道を過たずに済んだかも知れない。もし、あの時、私がグラハムに手を下さなかったならば、私はこの手で彼女を忌まわしい運命から解き放ってあげることが出来たかもしれない。私が彼女を愛していることを知っていながら、彼女は自らその道を閉ざしてしまったのだ。
何故?
自らがはまり込んだ運命を思えば、私は彼女を憎んで然るべきだろう。しかし、それでも私は彼女を愛し、彼女の身を案じている。
私の心に生じた葛藤は、この先どれほど時が経とうと解けることはないだろう。たとえいつの日か彼女が私の思いに応えてくれる時が来たとしても・・・。
「それにしても、ホームズってのは恐ろしい男だぜ」
モンゴメリの声が私を現実に引き戻した。
「あの教授をあわやってところまで追い詰めたんだからな。教授もとんだ誤算だったろうぜ。周到に進めてきた大事業を、たった一人の探偵に潰されるなんてな。それもあと一歩という所まで来て・・・」
モンゴメリは心底感心している。この男の不思議なところは、人に対する評価が素直なことだ。単に敵だからという理由で相手を憎んだり、見くびったたりしない。未知の世界の冒険で彼が生き残ってこられたのは、敵の力を正しく見極めるこの素直さ故かも知れない。
「教授はどうやってホームズの手を逃れたんだい?」
よくぞ聞いてくれたと、モンゴメリは目を輝かせた。
「まず、教授がパリに辿り着けたこと自体が奇跡だ。ホームズ達の後を追ってロンドンを出た教授は、臨時列車でドーヴァーに到着した。ここで待ってるはずのお前の姿が見当たらないもんで、この時点で教授はホームズ達が途中で進路変更したことに気付いた。しかし、そこでお前の連絡を待ってホームズの後を追う余裕は、教授にもなかった。何しろ、すでにロンドン警視庁(スコットランドヤード)の手が回って、教授自身の尻に火がついていたからな。そこで、追跡はお前に任せて、教授は一旦国外へ脱出することにしたんだ。ドーヴァーからカレーへの連絡船に乗ったお手並みも気が利いてらあ。当局に厳しくマークされている教授が国外へ出るのは至難の業だ。だけど教授はホームズの連れのワトスンになりすまして、船に乗ったんだ。何しろ、その名前で予約が入っているし、荷物も一緒に運ばれていたからな。官憲もそこまでは怪しまなかったのさ」
なるほど。その上、ワトスンの荷物を追って行けば、どこかでホームズと行き会う可能性もあったわけだ。窮地に立たされながら、逆転への布石を打つ教授の機転はさすがだ。
「ところが、教授がパリまで追ってくることも、ホームズの計算のうちだった。俺がパリに着いた時にゃ、教授はフランスの憲兵に逮捕される寸前だったんだぜ」
「フランス警察がロンドン警視庁(スコットランドヤード)に協力したってことかい?」
「その点は俺も不思議に思ったんだ。フランスとイギリスは決して仲のいい国じゃねえ。表面上協調関係を保っちゃいるが、世界戦略においてはあらゆる局面で対立している。そんな国同士の警察がそううまく連携を取れるわけがねえ。ホームズが直接フランス政府と掛け合ったんだよ」
「まさか・・・」
個人の、しかも、ライバル関係にある隣国の一個人の要請に応えて、一国の政府が動くなどということがあるのか。
「本当さ。ホームズにはフランス政府を動かすだけの実績があるんだよ。少し前の話だが、フランス政府がらみの重要案件を、ホームズが解決したらしい。こいつは教授から直接聞いた話だ」
「その案件には、教授も関わっていた・・・?」
「・・・かもな。ここまでのネクロポリスの動きを考えりゃ、教授が裏で糸を引いていた可能性は十分にある」
だとすると、教授の目論みは悉くホームズに挫かれてきたわけだ。
「ま、何にせよ、教授にはこの俺様という切り札がついていたわけだ。何しろ、パリじゃこの俺もちょっとした顔だ。なじみの一人や二人はいる。憲兵にとっつかまる前に教授と落ち合えたのは、不幸中の幸いよ。俺様のつてを頼りに、ほとぼりが冷めるまで市内に潜伏していたって訳だ。
その間に、ロンドンのホテル経由でお前から連絡が入って、ホームズの足取りがつかめた。その移動経路を辿るうちに、教授にはホームズの行き先が分かったみてえだぜ」
「それで、教授は今どこに?」
「すでにマイリンゲンに入っている。あそこでホームズと決着をつけるつもりだ」
私の頭にまた新たな疑問が浮かんだ。
教授とホームズは互いに示し合わせたわけでもなく、導かれるようにこの地に辿り着いた。マイリンゲンなどという辺鄙な田舎町に、一体何があるというのか。
「大方、ホームズの旦那も気付いているんじゃないか」
モンゴメリは続けた。
「気付いてるって、何に?」
「向こうで教授が待ってるってことに・・・さ」
モンゴメリは顎で湖の向こうを指した。
「さっき、明日の朝一番で湖を渡してくれって頼まれたんだ。多分、俺っちが教授の回し者だってこともばれてんじゃねえかな。俺のドイツ語なんて怪しいもんだからな」
知的活動とは無縁に見えるモンゴメリがドイツ語を話せること自体、私には驚きだった。長年の航海で培われた能力には端倪すべからざる重みがある。しかし、そのモンゴメリを戦わずして感服せしめるホームズはやはりただ者ではない。
「お前の尾行だって、とっくに気付かれてるに違えねえ」
自分ばかりが道化を演じるのは面白くないとばかり、モンゴメリは私の身に話をふった。
確かに、その通りかもしれない。ホームズは全て承知の上で、私に尾行を続けさせているのかもしれない。わざと教授に自分の足取りを掴ませるために・・・。
だとしたら、こんな追跡劇は茶番ではないか。
私は何だか急にばかばかしくなった。と同時に、もう一度ホームズと対決してみたいという思いに駆られた。自分の力が遠く及ばないことは分かっている。私にはまだ知らないことが多すぎる。教授やホームズと接して、そのことをいやというほど思い知らされた。だからこそ、私は二人からもっと多くのことを学びたいと思った。
しかし、今、この二人、ホームズとモリアーティ教授は、持てる力の全てを結集して互いを滅ぼそうとしている。
もし、二人のうちどちらかが命を落とすことになれば、世界は大きな損失を被ることになるだろう。たとえ教授が悪に与する者であったとしても、それは世間一般の価値観に照らしての話であって、二人はそんな善悪の観念をはるかに超越した世界で戦っているのだ。
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