追跡

 パディントンのワトスン医師の診療所はすぐに見つかった。

 私は診療所に駆け込んで、一切を先生(ドクター)にぶちまけたい思いに駆られた。しかし、私は教授の側に与した人間だ。今さら宗旨変えは出来ない。

 教授の予想通り、その夜遅く、ホームズは姿を現した。足早に通りをやってきた人影が、通り過ぎると見せて不意に診療所の中へ入って行った。扉を開けたときに中から洩れた光で、私はホームズの横顔を確認した。

 私はそのまま朝まで見張りを続けたが、ホームズはついに出てこなかった。真夜中過ぎに診療所の明かりが消え、中で休んでいるのだろうと思ったが、私の方は一晩中まんじりともできなかった。通りの向かいの路地の影で、いつ出てくるとも知れぬホームズをひたすらに待ち続けた。冷たい夜気のせいで眠くはならなかったが、夜は長かった。

 東の空に薄明がさし、夜が明け染まる頃、ついに診療所の扉が開き、ワトスンが姿を現した。

 ホームズの姿はない。

 ワトスンは通りがかった二台の辻馬車をやり過ごし、三台目に飛び乗った。私は慌てて路地を飛び出し、走って後を追ったが、馬車の背はあっという間に遠のいてゆく。幸い、一つ目の角を曲がったところに辻馬車が止まっていたので、それに飛び乗ってワトスンの馬車を追わせた。教授が前もって追跡用の馬車を手配しており、どうやら私はその一台に乗り合わせたらしかった。御者は怪しむ様子もなく、素直に私の指示に従った。ワトスンの乗った馬車はストランド街で止まり、遠目にワトスンが下りるのを確認した私は、御者にシリング銀貨を握らせ、まだ走っている馬車から飛び降りた。ワトスンは小走りに人影もまばらなロウザーの商店街を駆けてゆく。私は物陰に身を潜めながら、その後を追った。商店街の反対側に一台の箱馬車が止まっており、ワトスンが飛び乗ると、待ちかねたように走り出した。


 しまった。尾行をかわすための逃走経路は前もって用意されていたのだ。敵が教授と似た思考回路の持ち主だということを肝に銘じておかなければ・・・。


 今度こそ、私は走って馬車の後を追わねばならなかった。一頭立ての箱馬車は辻馬車ほどのスピードはなかったが、人間の足で追うのは限界があった。私は息が切れるまで走り、徐々に遠ざかる馬車の背を見送るしかなかった。

 しかし、ここまで追いかければ、馬車の行き先は見当がついた。

 ヴィクトリア駅だ。

 ヴィクトリア駅からは大陸行きの特急が出ている。ワトスンはイギリス国外へ脱出するつもりなのだ。ホームズの行方が気になったが、ワトスンの後を追って行けば、いずれどこかで落ち合うに違いない。

 私は手近の電報局の夜間窓口でケンジントン・ホテル404号室宛てに電報を打ち、その足でヴィクトリア駅へ向かった。


 大陸行きの汽車は、ターミナル駅の引き込み線路上ですでに蒸気を吹き上げていた。ほとんどの乗客が、一等二等それぞれの客車に乗り込み、今や遅しと出発の時刻を待っている。その中にホームズとワトスンがいるかどうか、今から確認している暇はない。私は切符売り場でパリまでの切符を購入し、汽車に飛び乗った。客車は敢えて二等車を選んだ。乗客が多い分、敵にも気付かれにくい。私はボックス席の一角に座を占め、ホームに知った顔が現れないか、窓外を見張った。

 出発を告げる汽笛が鳴り響いたが、ホームズとワトスンらしき影はついに現れなかった。既に他の客車に乗り込んでいるのか。

 汽車の車輪が空転し、客車ががくんと揺れた。

 列車を降りるなら今のうちだが、私は座席に留まった。ワトスンがこの列車の発車時刻に合わせて家を出たとしか考えられなかったからだ。

 汽車が加速し始めると、私は腹を決めて座席に座りなおした。考えてみると、イギリスを出るのはこれが初めてだった。これから始まる追跡行を思うと心細くはあったが、あのホームズの向こうを張っていると思えば、大いに胸が躍った。


 ごみごみしたロンドンの市街地を抜けると、窓外の景色は牧歌的な田園に変わり、じきになだらかな丘陵とこんもりとした森が織りなす自然のつづれ織へと切り替わった。力強く芽吹く新緑は目にも鮮やかで、不揃いであるかに見える個々の事象が生み出す調和を前に、人間の営みの拙さを思わずにいられなかった。

 さて、この列車にホームズとワトスンが乗っているかどうかをどうやって確かめるか。客車をうろつき回って敵にこちらの存在を気付かれる愚は避けねばならない。私は検札に来た車掌を呼びとめ、車両連結部付近のデッキに連れ出し、二人連れの紳士が乗車していないか尋ねた。

「一人は長身で細身の目つきの鋭い男で、人目を引くタイプだ。もう一人は、口髭を蓄えた温厚な顔つきの紳士。二人とも四十前後で、身なりはきちんとしている」

「さあ。そうしたお客様でしたら、一等車におられるかも知れませんが、お二人連れと言われましても、ご乗車の方はたくさんおられますので・・・」

 不審げな眼差しで私を眺める車掌の答えは要領を得ない。

「そんな乗客を見かけたら、僕に知らせてほしい。向こうには何も言っちゃだめだよ」

 私は念を押し、車掌の手にシリング銀貨を握らせた。金満家のような真似はしたくなかったが、口止めはしておかねばならない。

 ところが、銀貨は予想以上の効果を発揮した。

「お名前が分かれば、乗客名簿を探してみますが・・・」

 車掌は取り澄ました顔で名簿を取り出した。

「ワトスンという名前は載っていないかな?」

すぐさま、私は尋ねた。

「ワトスン様・・・。事前にご予約頂いているお客様でしたら、私の持っているこの台帳にお名前があるはず・・・」

 車掌はぶつぶつ呟きながら、ページを繰っていった。

「ああ、ありました。ジョン・H・ワトスン様ですね。御荷物も御預かりしています。パリ行きですね。二号車の六番コンパートメントにご予約頂いております」

「ありがとう。助かったよ。いいかい。この男と連れはある政治犯罪に関わる重要参考人で、国外へ逃亡しようとしている。彼らに気付かれないように尾行したい。このことは絶対喋っちゃだめだよ。この二人にも、他の誰にも、だ」

 もう一枚シリング銀貨を握らせると、体格のよい初老の車掌は昔からの忠僕のごとく何度も頷いた。

 私はこの時、金という道具の新たな使い道を知った。

 この列車にホームズが乗っているかどうかはともかく、ワトスンを追っていれば、いずれどこかで姿を見せるはずだ。開業医のワトスンが、突然海外への一人旅を思い立ったなどということはありえない。

 まず、このことを教授に知らせねばならない。乗客名簿にワトスンの名前が載っていたなら、ヴィクトリア駅にも記録が残っているはずだから、教授ならそこで確認を取って次の手を打つだろうが、念のため電報は打つとして、ふと気になったのは、列車の予約を入れたのがワトスン本人か、それともホームズか、ということだ。予約を入れる時にワトスンの本名を使ったのは、重大な手抜かりではないか。あのホームズがそんなミスを犯すだろうか。

 これはホームズが仕掛けた罠かも知れない。

 そう思い至った時、私はこの追跡行の容易ならざることを知った。


 停車駅ごとに私は列車の前方に移動し、一等客車に乗り降りする乗客の顔を確かめた。教授の追跡をかわすために、二人が途中下車する可能性が排除できない上、そもそも二人ともこの列車には乗っていないということもありうる。だが、汽車がカンタベリーの駅に到着した時、ついに、ホームズとワトスンが一等客車の乗降口に姿を現した。顔を隠すために用意したハンチング帽を目深に被り、他の乗客にまぎれて私も列車を下りた。結局二人は再乗車せず、大陸への連絡船が出るドーヴァーへ向かう列車を見送った。

 二人はホームに立って、なにやら話し込んでいる。この先どこへ向かうか相談しているのだろう。新聞を買う風を装って駅の売店に向かった時、ワトスンのぼやく声が聞こえてきた。

「これじゃ、どっちが犯罪者か分からんよ」

 その場にじっとしてもっと話を聞いていたかったが、その危険は冒せなかった。私はホームのベンチに腰かけ、新聞を広げて読むふりをしながら、遠目に二人の様子を見守った。

 来し方に広がるケントの森から、噴煙をたなびかせ、次の汽車が現れた。カンタベリーのような田舎町をそう頻繁に汽車が通ることはない。教授が手配した臨時列車に違いない。

 私と同じことを考えたのだろう。ホームズがワトスンの袖を引き、積み上げられた手荷物の陰に身を隠すのが見えた。

 機関車と客車が一輌だけという二輌編成の列車は猛スピードで駅を通り過ぎていった。広げた新聞の端に、乗降口に立って駅の様子に目を凝らす教授の姿が見えたが、私は合図を送ることができなかった。汽車の死角からホームズたちも汽車を注視しているため、不用意な動きを見せれば、私が尾行していることに気付かれてしまう。

 こうなれば、教授とは電報で連絡を取り合い、単独で尾行を続けるしかない。

 教授を撒いたことで二人のほうも警戒心が緩んだのか、そこからの追跡はそれほど困難ではなかった。それとも、ホームズは私の存在に気付いていながら、わざと後を追わせているのだろうか。

 二人はニューヘイヴン経由で大陸へ渡り、ブリュッセルで二泊した後、三日目にはストラスブルグまで足を伸ばした。この時点で教授の言った三日間が過ぎた。ホームズの張り巡らした網は、教授の一味を一網打尽にすることに成功したのだろうか。それとも、教授がホームズを出し抜いたか。

 このことに関して何ら情報を得る手段を持たぬ私は、ただ二人の尾行を続け、教授宛に電報を送り続けることしかできなかった。

 結局この後も彼らの旅は続き、その日の内にスイスのジュネーブに至った。そこからはまるで観光旅行と言った風情で、二人はのんびりと旅を楽しんでいるようだった。ローヌ渓谷からルークへ足を伸ばし、まだ雪深いジェミの山岳道を抜けて、一週間ほどで湖畔のトゥーンという宿場町に到達した。その頃には、追いつ追われつの追跡・逃亡劇の最中にあることなど、私自身も忘れてしまっていた。尾行は日常の一部と化し、雪に覆われた峻険なアルプスや山裾の牧草地を巡る旅は楽しくさえあった。わが故郷イングランドとは、言葉も風景も育まれてきた文化も違う、私が初めて体験する異国の地であった。


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