次に教授と顔を合わせたのは、ハムステッドのガレット邸でのことだった。現在姉が暮らすこの家には母が療養中で、ロンドンにおける私の居所ともなっていた。わが師と仰ぐ相手とは言え、突然訪ねてこられた時は、私的な空間を侵された気がして、正直のところあまりいい気はしなかった。どうやって私の所在を突き止めたのか、などというのは愚問だ。教授は我が家の内情を知りすぎるほどに知っている。そのことが私に、我が家にいながら居心地の悪い思いをさせた。

 社交上の面倒を嫌う教授が他人の家を訪ねるなど異例中の異例で、教授自身、止むにやまれぬ事情があってのことだった。

 書斎に通された教授は、憔悴しきった様子だった。

「まったくいまいましい。ホームズめ、本気でこの私とやり合うつもりか」

 開口一番、教授は憎しみもあらわにホームズを罵った。

 かなり追い詰められているのだろう。これほど余裕のない教授を見るのは初めてだった。

 父の遺品であるカップボードからウイスキーのボトルを取り出し、グラスに半分ほど注ぐと、私はそれを教授に差し出した。

 決して酒を好む質ではない教授がぐいとグラスを呷った。それで幾許の慰めが得られたわけでもないだろうが、教授はため息混じりの笑みを浮かべて私を見た。

「すまんね、ガレット君。あまり図々しい真似はしたくなかったのだが、ここの他に安全な場所を思いつかなくてね」

 いつになく弱気な口調だった。

「ここだって安全とは言えませんよ」

 私とてホームズに宣戦布告した身だ。どこで見張られているか知れたものではない。

「いや、今のところ、君は安全だ」

「今のところ?」

「うむ。いずれ君にも働いてもらうつもりだが、今危険に晒されているのは、わが事業に古くから参画する同志達だ。このままでは、ことごとく向こうの仕掛けた網に絡め取られてしまう。なかなかの切れ者だよ、あのホームズという男・・・。

 すまんが、もう一杯頂けんかね?」

 私は手酌で教授のグラスに酒を注いだ。

「失礼ですが、教授のお仲間とはどういった人たちですか?」

「私の計画については、先夜話した通りだ。その計画に賛同する、わが同胞だ。その中には列強各国の要人や著名人も含まれる。彼らが一網打尽に法の網にかかることになれば、ヨーロッパ全土を巻き込むスキャンダルに発展するだろう」

 そう聞いても私は驚かなかった。本気で革命を起こそうと思えば、現体制下で権力を振るう者の力も必要だろう。

「世の変革を遂げる為には血を流すことも厭わない人たちですか?」

 私はさらに踏み込んだ。別に責めるわけではなく、教授とは忌憚なく腹を割って話がしたかった。

「色々と話を聞いてきたようだね。ホームズとの会見はどうだったね?」

 教授は話を逸らした。単刀直入に尋ねる私の態度に、かえって落ち着きを取り戻したようだった。

「教授は僕を試しているのだ、と言っていました」

 私はありのままを答えた。

「試す?」

「こちらが警告してもホームズが聞く耳を持たないことは、初めから分かっておられたはずです。僕があそこへ送り込まれた本当の理由は、僕が教授とホームズ、どちらにつくかを確かめる為だった。違いますか?」

「なるほど。そんな見方もできるか」

 教授は眉ひとつ動かさなかった。

「それで、君はどう答えたのかね?」

「教授のそばを離れるつもりはない、と」

「ほう。それで後悔はないのだね?」

「教授。僕は自分の運命をあなたに託したのです。もう、腹の探り合いはやめましょう」

 教授は私の真意を読み取ろうとするように、鋭い目でじっと私を見つめた。

 その目がホームズの目と重なった。この二人は本当によく似ている。顔形は違えど、二人はまったく同種の人間だ。それも、この二人以外には存在し得ない異形の・・・。世界がどれほど広くとも、同じ時代に生まれた以上、二人はどこかで出会い、戦う運命にあったのだ。

「わかった。私も少し疲れているようだ。どうも疑り深くなっていかん」

 やがて教授は言うと、ふっと私から目を逸らした。

「座っても構わんかね?」

 ウイスキーのグラスを両手に持って呟く教授は、急に老け込んだように見えた。

 教授に対して、私は不屈の鉄人のようなイメージを抱いていた。その教授に垣間見える人間性は、私をほっとさせると同時に不安にもさせた。

 私がソファを勧めると、教授はゆっくりと腰を下ろした。そして、手に持ったグラスを回して、揺れる琥珀色の液体を眺めた。

「すぐに寝室を用意します」

「いや、それには及ばん。私はすぐに出て行くよ」

 今ほど、ここの他に安全な場所がないと言ったばかりなのに、なぜ?

「ここへ来る前、ホームズと会って来た」

 無言の私の問いに答えて、教授は話し始めた。

「この間君が訪れた、やつの部屋だ。ピストルなど構えて出迎えおった。ふふ・・・、向こうも相当参っていると見える。かなり追い詰めてやったからな。お互い、ここが正念場だ。私が手を引くように忠告すると、三日後までは手を引けぬと言う。だが、三日後では遅いのだ。やつの入れ知恵でロンドン警視庁(スコットランドヤード)の張り巡らした網が、三日後に閉じられる。わが同志達は悉くその網にかかるだろう。この私も含めてね」

 教授の口許に皮肉な笑みが浮かんだ。

「ふふふ・・・、実際凄い男だ、あのホームズという男は。よもやこの私がここまで追い詰められるとは・・・。だが、私がただ手を拱いて網にかかるのを待っていると思ったら大間違いだ。その前に必ず決着をつけてやる」

 決着をつけるというのがどういう意味なのか、私は尋ねるのが恐ろしかった。

 教授は両手に収まったグラスをさも大切そうに見つめている。

「どうするおつもりですか?」

「すでに手は打ってあるが、まだ十分ではない。そこで、君に頼みたいことがある」

 私はごくりと唾を飲み込んだ。

 事態がすでに抜き差しならぬ状況に至っていることは察せられた。教授はホームズをどうするつもりなのか。そして、私に何をさせようというのか。

「先夜、君はワトスン医師と会ったね?」

 まだその話はしていなかったが、教授はすでにどこからかその情報を手に入れている。あの夜、私に見張りがついていたか、それとも、マダム・マゴットから調べをつけたか。いずれにせよ、私の行動を逐一教授が把握していることは確かだ。

 あの善良なワトスン医師を巻き込みたくはなかったが、私は頷くしかなかった。

「彼は今、パディントンで開業している。このワトスン医師の家を見張ってほしいのだ。ホームズが最後に頼って行くのはワトスンのところだ。兄のマイクロフトのところへは行くまい。弟に劣らず頭は切れるが、あれはどうにも身動きの取れね男だ。かえって足手まといになるだろう」

「今からですか?」

「うむ。三日間彼らに張り付いて、彼らの行動を私に報告してもらいたい」

「連絡方法は?」

「ケンジントン・ホテルの404号室だ。ここに電報を打つなり、メッセンジャーを送るなりすれば、私のところへ連絡が来るようにしておく」

「ホームズをどうするおつもりですか?」

 私はどうしてもそれを尋ねずにはいられなかった。

「安心したまえ。君にこれ以上の面倒をかけるつもりはないよ」

 教授は答えをはぐらかした。

 だが、言わずとも考えていることは明らかだ。


 教授はホームズを亡き者にしようとしている。


 はっきりと言葉にしないことがかえって、教授の決意の固さを物語っている。

「もうすぐ日が暮れる。動き出すのはその後にしよう。それまでここで休ませて貰うよ」

 教授はソファに身を沈めて腕を組むと、静かに寝息を立て始めた。

 人前に寝姿を晒すなど、これまでの教授にはなかったことだ。



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