マダム・マゴット

 馬車が止まったのは、テムズ河岸の貧民街だった。ロンドンの吹き溜まりと呼ばれるこの一画にはすえた匂いが漂い、街灯もまばらな街の霧に煙る闇の奥からは人ならぬ化物が飛び出してきそうだ。

 御者は人通りのない通りの入口で私たちを下ろした。

「お目当ての住所はこの先でさ。あっしはここでご勘弁を。夜、この街に入るなんて、正気の沙汰じゃねえ。旦那方の行くような所じゃねえですよ。悪いことは言わねえ。あっしと一緒に引き返しなせえ」

 私たちが肯じ得ないと分かると、御者はそそくさと馬車に乗り込み、逃げるように去って行った。

 実際、気味の悪い通りだった。時折、澱んだ空気をつんざくような猫の鳴き声が夜のしじまを破り、闇の中から突如現れた酔っぱらいの浮浪者は、道を譲りもせず、私たちに不躾な視線を投げかけ、ぶつぶつと呟きながら通り過ぎてゆく。牧歌的な田舎に育った身には信じられない光景で、私はこの世ならぬ魔界に足を迷い込んだ気分だった。

 強盗にでも出くわすのではないかとびくびくしながら歩いてゆくと、やがて目指す建物に行き着いた。闇に聳える建物を見上げると、いくつも並んだ窓からぼんやりと明かりが洩れている。分厚いカーテンが引かれているため、中の様子は分からないが、真っ暗な闇にその建物の輪郭だけが浮かび上がっている。何とも怪しげな建物から洩れる明かりで、かろうじて看板の文字が読みとれた。

「ここは・・・、娼館じゃないか。こんなところへ私たちを寄越すとは、ホームズめ、一体何を考えているんだ」

 憤慨とも嘆きともつかぬ声をあげるワトスンの後に続いて、私は建物の戸をくぐった。

 いやな予感がした。

 私の脳裏をよぎったのは、シェリルのことだった。信じたくはなかったが、女衒の手に落ちた過去は、彼女自身の口から聞いた話だ。よもや再び下賤の暮らしに身を落とすことはあるまいが、彼女はまだこの世界と繋がりを持っているのだろうか。

 娼館などという忌まわしい場所に付き纏うイメージに反して、建物の中は思いのほか立派だった。真っ赤な絨毯の敷き詰められた床と階段に大理石の壁、色とりどりのビロードで飾られた内装は、悪趣味と言えばそれまでだが、見た目の豪華さは一流ホテルも顔負けだ。照明はやや暗めだが、娼館という場所柄、これぐらいが調度よいのだろう。上品な演出とさえ言える。はきだめの町に突如現れる不夜城は、下町の混沌を象徴しているかのようだ。


 何なのだ、この場所は。


 そこは私の理解を超えた世界だった。

「ああら、立派な殿方がお二人・・・。珍客だわね」

 私たちを出迎えたのは、酒焼けした甘ったるい女の声だった。

 見ると、幅の広い正面階段の踊り場に、けばけばしい紫色のドレスを纏った女が立っていた。分厚い化粧のせいで年を取っているようにも見え、また若くも見えた。ひどく太っているが、さりとて醜いわけではなく、見方によっては美しいとも言える。女であることは間違いないが、何やら性別を超越した空気を纏っている。

「マダム・マゴットですな」

 尋ねるワトスン医師の姿が、ひどく真面目くさって見えた。

 生来の人柄か、職業柄か、ワトスンという人はどんな相手にもまっすぐに正対する人のようだ。娼館の女主人に対しても毅然とした態度を崩すことはなかった。

「ええ、そうですよ、ミスター・・・」

 女主人はとろんとした目つきで、値踏みをするようにワトスン医師を眺めた。

「ドクター・ワトスンです」

「あら、お医者様・・・。ここへは何の御用・・・、とお聞きするのは野暮かしら?」

「お考えのような用向きではない。シャーロック・ホームズ氏の代理で来たのだが・・・」

 「ミスター・ホームズの・・・?」

 マダム・マゴットの声から、甘ったるい響きが消えた。

「他の者に聞かれないところで話をしたいのだが・・・」

 ワトスンは私のほうを一瞥した。

 場所柄、大声で私の名前を口にせぬよう気遣ってくれたのだ。

「ここには私のほか誰もおりませんわ」

 そう言いながら、マダム・マゴットは億劫げに私たちのいるホールまで下りてきた。きつい香水の香りが辺りに漂う。彼女は、貴婦人のように私たちのそれぞれに手を差し出し、私たちがその手に口づけする様を眺めていた。彼女にはそうするのが当然と思わせる威厳があった。

「こちらはマーカス・ガレット伯爵」

 ワトスンは小声で私を紹介した。

「お初にお目にかかります、伯爵様。あら、近くで見ると、ますますいい男・・・」

 マダム・マゴットはあだっぽく片目を瞑って見せた。妙に艶(なまめ)かしいその仕種に、私は柄にもなくどぎまぎした。

「ガレット伯爵・・・。どこかで聞いた名前ね」

 私の名前に聞き覚えがあるらしく、マダム・マゴットは小首をかしげた。

「ああ、思い出した。ご用件が分かりましたわ」

 素っ頓狂な声をあげると、マダム・マゴットは不意に真面目くさった顔になった。

「お待ちしておりましたのよ、伯爵。どうぞこちらへ」

 取ってつけたような猫なで声で言うと、マダム・マゴットは先に立って階段を上り始めた。


 この先に何が待っているのか。


 私は不安に駆られた。もしシェリルがここにいたらどうしよう。あらぬ想像に私の心は苛まれた。

 私たちが通されたのは、目にも艶(あで)やかな家具調度を備えたスイートルームだった。娼館とは言え、余程の上客でなければここへは通さぬだろう。

 天蓋つきのベッドに、一人の女が腰かけていた。私たちが入ってきたことに気付く風もなく、一心にキセル煙草をふかしている。焦点の定まらぬ目は、忘我の境地をさ迷うかのごとく澱んでいる。

 女の顔を認めた私は愕然とした。たとえそこにいたのがシェリルだったとしても、これほどの衝撃を受けることはなかっただろう。


 ベッドの上で科を作っているのは、私の母親、デイジー・ガレットだった。。娼館の部屋に溶け込むその姿は、本物の娼婦と見まごうばかりだ。


「グラハム子爵夫人という名前をお聞きしていたので、すっかり元の素性を忘れておりましたの。ガレット伯爵、こちらがあなたのお探しのお相手ではなくて・・・?」

 マダム・マゴットは好奇の眼差しを隠そうともせず、私の反応を眺めている。

 不躾な視線に抗議することも忘れ、私はよろよろと母に近づいた。

 母の視界は私をとらえているはずだったが、その目は私を認識していなかった。完全に意識が飛んでいる。

「なんてことを…。阿片(アヘン)を吸わせたのか・・・」

 明らかにおかしい母の様子を見て取ったワトスンが、母の傍らに走り寄り、その手からキセルを取り上げた。

 陶然とした母の目が、取り上げられたキセルの行方を追った。

 目の前にいる息子に気付きもせず、別世界をさ迷うかのごとき母に、私は激しい怒りを覚えた。しかし、その怒りのやる瀬なさは、どうしようもない無力感に変わった。

 不意に眩暈を起こした私を、ワトスン医師が支えてくれた。

「いたいけなご婦人に阿片を飲ませるなど、許されざる悪行ですぞ、マダム」

 母のベッドの端に私を座らせながら、ワトスンは厳しい口調でマダム・マゴットを非難した。

「これが重大な法律違反であることはご存知ですな?」

 マダム・マゴットの口元に笑みが浮かんだ。

「売春も違法・・・。阿片も違法・・・。そんなことは百も承知・・・。世の中にはそういうものを必要とする人もいるんですよ、ドクター」

 諭すような口調は、まじめなワトスン医師をからかっているかのようだ。

「この人はそれだけ辛い思いをしてきたんだ。逃げ場の一つも作ってやらなくちゃ、苦しくって苦しくって・・・生きていられなくなっちまう。そうではなくて、お若い伯爵様?」

 マダム・マゴットは母の方へ歩み寄ると、生気のない目で空を見つめる母の頬をつるりと撫でた。

「知っている人かね?」

 ワトスン医師は私に向かって気遣わしげに尋ねた。

「母です。家族を捨てて家を出たのですが・・・、まさか、こんなところにいるとは・・・」

 私はようやくの思いで言葉を絞り出した。家族の醜態を人前に晒すのは、耐え難い恥辱だった。

「・・・・・」

 ワトスン医師は唖然として口をつぐんだ。

 それはそうだ。こんなときに口にすべき言葉など、見つかるはずもない。私自身、破廉恥な姿をさらす母がいっそ哀れであった。

「それにしても、なぜこんなところに・・・」

「グラハムに連れてこられたんだ。そうでしょう?」

 私はマダム・マゴットに向かって尋ねた。

「ひどい男だわね。あたしがあんたなら、こんな仕打ちをする相手は殺しても飽き足らないだろうよ」

 マダム・マゴットの口調から、取りすました商売女の慇懃さが消えた。

「悪魔だよ、あの男は・・・」

 この館に入って初めて、私はこの醜悪な女に共感を覚えた。このほうが率直に話が出来る。しかし、ここからは心してかからねば・・・。決して耳にしたくないような話を聞かされることだろう。

「ま、あたしも人のことを言えた義理じゃないけどね。だけど、こっちも商売だ。いちいち他人の事情を斟酌する余裕なんてないのさ」

 自嘲気味に呟いた後、マダム・マゴットは自らを鼓舞するように言った。

「安心おし。まだ客を引かせちゃいないよ。これほどの上玉は滅多に手に入らないからね。おいそれと傷ものにするわけにはいかないさ。そこで、ものは相談だが・・・」

 商売人の計算高さを目に浮かべ、マダム・マゴットは私に顔を近づけた。

「あんたに彼女を身請けする気があるなら、相談にのるよ」

 強欲に歪んだ笑顔の裏から、算盤を弾く音が聞こえてくる。

「・・・・」

 救いようがないほどに堕落した不愉快な女を、私は能う限りの軽蔑を込めて眺めた。

 そんな私の目つきに頓着する風もなく、マダム・マゴットは勝手に話を進めた。

「それなりの金額は用意してもらわないとね。何しろ現伯爵家の奥方様だ。あんたの他にも引く手は数多だ」

 顔に張り付いた歪んだ笑みに辟易しつつ、私はベッドの端で居ずまいをただした。これほどの侮辱を受けたのは初めてだったが、この話に応じないわけには行かない。

「これはれっきとした人身売買ですぞ、マダム。我々が法に訴えれば、あんたは身の破滅だ」

 見かねたワトスン医師が割って入ったが、その程度の警告に動じる相手ではなかった。

「まったく、ホームズの旦那も間抜けな使いを寄越したもんだ」

 マダム・マゴットは肩を竦め、馬鹿にしきった目つきでワトスンを眺めた。

「法に訴えるだって?そんなことすりゃ、奥方の醜聞が世間の耳目を集めるだけだよ。この話には伯爵家の名誉がかかってるんだ」

「さらに恐喝の罪を重ねるつもりですかな?」

 ワトスンも引き下がらなかった。

「いいんです、先生。これも元はと言えば、母の不始末が招いたこと」

 私は立ち上がり、義憤に駆られるワトスン医師を諌めた。

「しかし・・・、君の母上は罠にはめられたのではないかね。その上、こんなひどい仕打ちを受けて・・・。高貴の生まれのご婦人に対して何てことを・・・・。許し難い蛮行だ」

 ワトスンは正気の戻らぬ母に同情の眼差しを向けて、見るに耐えぬというように首を振った。

 私はワトスン医師を部屋の隅へと誘った。そして、マダム・マゴットに聞かれぬよう、声を落として話した。

「お気持ちには感謝します。でも、今あの女が言ったように、このことには我が伯爵家の名誉がかかっています。家族の恥を世間に晒したくはない。いや、それだけは絶対にできない。名誉だけの問題ではないのです。このイギリスという国で爵位を与えられた以上、その立場にふさわしい振る舞いをすることは、世間に対する我々の義務でもあるのです」

 憤りの冷めぬ目をマダム・マゴットに向けつつ、ワトスンは頷いた。

「むしろ、金で話のつく相手でよかった。そのことが分かっていたから、ホームズさんは我々だけで来させたのでしょう。いずれにしても、あなたとホームズさんには心から感謝します。あなた達とは敵対する立場ですが、このご恩は決して忘れません」

 そう言い置いて、私はマダム・マゴットに向き直った。

「そちらの要求は?」

 マダム・マゴットはにたりと貪欲な笑みを浮かべた。

「さすがは伯爵家を継ぐお方。お若いとはいえ、話が分かる・・・。どこぞの意地悪なお医者様とは違う・・・」

 ごにょごにょと妙な褒め言葉を口走りながら、マダム・マゴットは抜け目ない目で私の顔色を窺っている。いくら吹っかけてやろうかと値踏みしている目だ。

「五千ギニーで手を打ちましょう」

 やがて彼女は言った。

「五千・・・。いくらなんでもそれは法外だ」

 ワトスンが異を唱えた。

「伯爵夫人を身請けしようってんだ。あまり低い金額じゃ、そちらのお顔が立ちますまい」

 妙な論法だが、この際、そんな言葉遊びに付き合っている暇はない。

「分かりました。明日中に小切手を届けさせましょう」

「おっと。こちとら現金商売だ。支払いは金貨でお願いしますよ。小切手なんて紙切れは信用できないのでね」

「ギニー金貨五千枚・・・?そんなものがすぐに用意できると思っているのか」

 呆れ顔のワトスンを手で制し、私は頷いた。

「三日待ってください。その間に必ず用意します」

 マダム・マゴットは意を得たりと頷いた。

「母は今連れて行きます。いいですね?」

 マダム・マゴットが応じるかどうかは賭けだった。だが、この状態の母を放って帰る訳には行かない。

 案の定、彼女は渋い顔をした。

「金が届けられる保証は?」

「そちらが証文の類を受け取らないなら、僕の言葉を信用してもらうしかない」

「あたしも舐められたもんだね。そんな甘い世渡りをしてきたつもりはないんだがね」

「医者としてご忠告申し上げよう」

 マダム・マゴットを制するワトスン医師の声には有無を言わせぬ威厳がこもっていた。

「ガレット伯爵のご母堂は、今非常に危険な状態にある。ここまでの事態に立ち至った責任は、仮にも彼女の身柄を保護するあなたにある。このままあなたの手に委ねて、万一のことがあった場合、マダム、その時こそあなたは身の破滅ですぞ」

 マダム・マゴットは不貞腐れたように口をへの字に結んだ。

「お受けいただけますな?」

 ワトスンは念を押した。

「法律や警察が恐くって、こんな渡世(とせい)はしてられないんですよ、ドクター」

マダム・マゴットは反抗的な目でワトスンを睨み、啖呵を切った。しかし、紅潮し膨れ上がったその顔は風船がしぼむように勢いを失った。

「でもね、あんたらの後ろにいるのが、ミスター・ホームズだってんなら、話は別だ。あたしもあの人だけは恐いからね。あの人の顔を立てて、今回だけはお受けしますよ。だけど、証文は書いてもらいますからね」

 マダム・マゴットは自分に言い聞かせるように言った。

 彼女の言葉は負け惜しみには違いなかったが、私はこの時、ホームズという人物の向こうに広がる世界の奥行きを垣間見た気がした。これからその人と敵対することになると思うと、先行きに不安がよぎった。


 果たして、『教授』はホームズに勝てるのだろうか。


 とにかく、ワトスン医師と私は、阿片の毒に冒されて朦朧としている母を抱え、忌まわしい魔女の館を後にした。


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