シャーロック・ホームズ
ベーカー街221番地B。
後に、著名な探偵の事務所兼住居として、歴史に名を刻む住所。
その建物の前に、私はしばし佇んだ。
奇妙な感慨があった。
この建物の中に、教授の不倶戴天の敵が待っている。あの『教授』に匹敵する頭脳の持ち主とは、一体どんな人物だろう。
心なしか、私の足は震えていた。
何の変哲もない建物の扉をノックするのに、私は大いに腹を据えねばならなかった。
鉄の叩き金(ノッカー)を数回叩くと、少しして中で足音が響き、扉が開いた。
「はいはい。慣れていますよ、深夜のお客様にはね。それにしたって、少しは常識ってものを弁えてもらわなくちゃ・・・」
ぶつぶつ呟く声と共に顔を覗かせたのは、小柄な老婦人だった。若い頃の美貌を留める目鼻立ちは、頭髪が白銀に染まった今も十分に魅力的(チャーミング)だった。
「申し訳ありません、奥様(レディ)。シャーロック・ホームズ氏はご在宅でしょうか」
もうそんなに遅い時間だろうかと思いながら、私はぎこちなく頭を下げ、取り次ぎを頼んだ。
「どういったご用件でしょうか?」
取り澄ました顔で老婦人は言った。
「マーカス・ガレットと言います。用件はお会いしてからお伝えしたいのですが・・・」
不審げな目つきでひとしきり私を眺め回した後、門番の老婦人はようやく身をかわして道をあけてくれた。
中へ入ると、階上へ続く階段の薄暗い踊り場に人影が立っていた。
渋いツイードの背広に身を包んだ、鼻の下の口ひげが印象的な中年の紳士だった。彫りの深い眼窩の奥の目は、知性と共にどこか人懐こい温かみを宿している。
「お客さんですかな、ハドスン夫人?」
優しげな声には人を安心させる深みがある。
「あら、先生(ドクター)。こちらはマーカス・ガレット様。ご依頼人の方かと存じます」
老婦人が私の名前を憶えていたことに感心しつつ、私は階段の紳士を見上げた。
「そうですか。では、どうぞこちらへ」
紳士は私に向かって言い、先に階段を上がって行った。
この人がシャーロック・ホームズだろうか。
風貌はマイクロフトとは似ても似つかない。それに『先生(ドクター)』という呼称は、探偵という職業に似つかわしくないような気がした。
通されたのはこじんまりとした居心地の良さそうな部屋だった。お世辞にも片付いているとは言いがたいが、雑然とした中にある種の統一感があり、住人にとってはそれが整理された状態なのだ。この部屋の住人は他人が自分の部屋のものに触ることを嫌がるだろう。典型的な男所帯だ。階下で会った下宿の女主人が部屋のものに手をつけていないことは一目瞭然だった。
部屋の片側に据えられた食卓には飲みさしのお茶が置かれたままになっており、その横の安楽椅子に一人の男が腰かけていた。部屋着にガウンを纏っただけの寛いだ格好で、入口に背を向けて新聞を広げている。
私たちが入ってきたことに気付かないのか、男は身じろぎもせず新聞を読み耽っている。
「ホームズ、お客さんだ」
私を部屋に案内してくれた紳士が、安楽椅子の男に向かって言った。
私の目指す相手は、こちらの紳士ではなく、部屋着の男のほうか。
「帰ってもらってくれ。今夜は店じまいだ」
やや甲高い神経質そうな声が答えた。
つっけんどんな返事に、紳士は私の顔を見て困ったような顔をした。そして、申し訳なさそうに首を振り、肩を竦めて見せた。
「と言いたいところだが・・・」
部屋着の男は新聞を折りたたむと、安楽椅子に腰かけたまま、くるりと私たちの方を向いた。
私は、はっと息を呑んだ。
そこには、一見してマイクロフトの兄弟と分かる男が座っていた。真っすぐに通った鼻梁と猛禽を思わせる鋭い眼差しが瓜二つだ。ただ、こちらの男はひどく痩せていて、こけた頬はやつれているようにさえ見えた。
「あたら有望な若者をこのままあの悪魔のもとへ帰したとあっては、僕の名がすたる」
男は立ち上がると、真っすぐに私の方へ歩み寄り、右手を差し出した。
相手の背の高さに圧倒されながら、私はその手を握り返した。マイクロフトの手と違い、ごつごつとした職人のような手だった。
「ようこそ我が城へ、マーカス・ガレット伯爵。シャーロック・ホームズです。むさ苦しいところだが、どうかご容赦いただきたい」
ホームズは私を部屋の隅に誘い、来客用のソファに座らせた。
「僕をご存知なのですか?」
ホームズは鼻頭に皺を寄せて薄く笑った、
「今年発刊された貴族年鑑に君の名前が載っている」
「いえ、そうではなくて、僕が来ることが分かっておられたようなので・・・」
「ああ、そのことなら驚くには当たらんよ。マイクロフトが知らせを寄こしたのだ。たった今ね」
「どうして、僕がここへ来ることが分かったのでしょう?」
本当に不思議な兄弟だ。彼らは何もかもお見通しなのだろうか。
「兄もようやくベーカー街不正規隊(ベーカーストリート・イレギュラーズ)の有用性を理解し始めたということさ。実務に疎い彼としては、大きな進歩だ」
ホームズは私にというよりも、もう一人の紳士に向かって説明した。
私には何のことかさっぱり分からなかった。
「こちらは友人のワトスン医師だ」
ワトスンは私の向かいに腰掛け、私たちは小卓ごしに握手を交わした。
どちらかというと、私はこちらのワトスン医師のほうに好感を抱いた。さして多くの言葉を交わしたわけではないが、彼の落ち着いた物腰や人間味溢れる暖かい眼差しには、信頼を寄せるに足る安心感がある。それに対してホームズのほうには、どこか心を許せない感じがある。『教授』からの情報によって、私の目が先入主で曇っていたことは否めないとしても・・・。
ホームズはソファに腰を下ろさず、マントルピースのほうへ歩いてゆくと、そこにあったパイプを取り上げて口に咥えた。私たちに半ば背を向けて煙草を詰めるその仕種が、教授の姿と重なった。
当代随一の知性を誇る教授に並ぶ才能を持ちながら、社会的には対極の位置に立つこの男が教授と同じ嗜好を持つことにおかし味を覚えつつ、私は彼が紫煙を燻らせるのを眺めた。そうしていると、『教授』とホームズ、立場を異にする二つの知の巨魁が、実は同じ一人の人物ではないのかという奇妙な錯覚にとらわれた。
「先程、悪魔がどうとか仰いましたが、それは教授のことですか?」
なかなか話が始まらぬことに焦れて、私は自分から切り出した。
性急な私の言葉など歯牙にもかけぬ顔で、ホームズは一服の煙草を堪能した。空を見つめていたその目が、つと私のほうを向き、
「君は質問をしにここへ来たのかね?」
思わぬ切り返しに、私はもじもじと俯き、座りの悪いソファの上で居住まいをただした。
「僕は・・・、教授の言葉を伝えに来ただけです」
ホームズの視線はゆるぎなく私に注がれている。
「これ以上、教授の事業の邪魔をしないで頂きたい・・・」
「君が教授と呼んでいるのは・・・」
突然、弾けたようにホームズが話し始めた。
「ジェームズ・モリアーティという人物のことだね?」
「そういう名前で呼ばれることもあるようです。僕が知っている名前とは違いますが・・・」
「この際、名前などどうでもよい。君は教授の警告を僕に伝えるために、ここへ来たのだね?」
私は頷いた。
「彼の邪魔をすれば、命はない・・・、と」
そのとおりだ。
しかし、私は頭を振った。
「教授はあなたの才能を惜しんでおられるのです。あなたは教授に匹敵する頭脳の持ち主だ、と」
自分の口からなぜそんな言葉が飛び出したのか分からない。二人を戦わせたくなかったのかも知れない。一度対峙すれば、この二人はどちらかが滅びるまで戦いを止めない。直に二人に会った私にはそんな予感があった。
「だから、手を引け・・・と?」
私は頷いた。
「教授は本当にそう言ったのかね?」
その問いに、私ははっとホームズの顔を見上げた。
心の内奥を見透かすような冷徹な眼が私を見下ろしている。
「彼はこう言わなかったかね?好敵手があってこその人生だ・・・と」
ホームズは手に持ったパイプで私の方を指した。
私は返す言葉もなかった。
実際に顔を合わせなくても、教授とホームズの間には対話が成立している。
私は一体何のためにここへ来たのだろう?
「彼には分かっているはずだ。私はこの手の脅しに屈する人間ではない。となると、問題は私ではなく、君だ」
「え・・・?」
ホームズは頷いた。
「教授は私ではなく、君を試しているのだよ」
突然我が身に話が及び、私は虚を衝かれた。しかし、冷静に考えてみると、ホームズの指摘は正鵠を射ている。
「教授は、僕が裏切ると考えているのでしょうか?」
「あるいはね」
「それはありません。あり得ない」
自分は誰に向かって抗弁しているのだろう。
そう思いながら、私は強く頭を振った。
ホームズは私の斜向かいに腰を下ろし、独特の射抜くような目でじっと私を見つめた。
「君も大変な男に見込まれたものだ。彼がどれだけ危険な人間か分かっているかね?」
「危険な人間は、偉大な人間にもなりうるのではないでしょうか」
「ふむ」
ホームズは、一理あるな、とでも言うようにしげしげと私を見つめた。
「教授は後世に名を残すべき人です。その名は、必ずや歴史に刻まれるでしょう」
何かに取り憑かれたかのような私の声には抑揚がなかった。まるで自分以外の誰かが喋っているようだった。
「ワトスン」
ホームズは私たちのやり取りを注視している傍らの紳士に呼びかけた。
「モリアーティの呪縛からこの若者を解き放ってやることは、職業人としての私の務めだ。医者である君が患者を治すのと同じだ。しかし、これは重症患者だぞ」
「そうかい。私には普通の若者に見えるが・・・」
歯に衣着せずずばりと核心を衝く友人とは対照的に、ワトスン医師は極めて暢気そうに構えている。しかし、それはいかにも医者らしい、相手を安心させる職業的習慣から来るものかも知れない。
才人に友ありと言うが、この二人にはまさに阿吽の呼吸が感じられた。
「普通・・・か」
ホームズは嘆かわしげに呟いた。
「君の目には何もかもが普通に映るのではないかね。いつも言っているだろう。君はただ見ているだけで、観察していないのだ」
「そうは言うがね、ホームズ。私は何も知らないのだ。この若者に会うのも初めてだし、そもそもモリアーティなる人物のことも知らない。何か意見を立てようにも、私にはその材料が与えられていない。君の批判は不当だよ」
ワトスン医師は憤慨した様子で反駁した。
「不当・・・か。しかし、少ない手がかりからいかに正しい結論を導き出すかが、探偵たる者の腕の見せ所だ」
「残念ながら、私は探偵ではない」
「だが、長年僕の仕事ぶりを見てきたはずだ」
やれやれというように、ワトスン医師は私に向かって肩をすくめた。
二人はいつもこんなやり取りをしているに違いない。
「そのモリアーティという人物は犯罪者なのかね?」
ワトスン医師というのは余程温厚な人らしく、たとえ相手の無礼に気を悪くしたとしても、すぐに忘れてしまうらしかった。
「犯罪者?ふむ・・・、そこが難しいところだ」
ホームズはつと立ち上がり、腕を組んだ。ワトスンの気遣いには気付く様子もない。
「犯罪者を、所謂法を犯した者と定義するなら、彼はその範疇には含まれないだろう」
「どういう意味だい?」
「決して自分の手は汚さない、ということさ。汚れ仕事は誰か他の者にやらせる」
「なかなか狡猾な男のようだね」
狡猾という言葉には異論があったが、とにかく今は二人のやり取りを拝聴することにした。
「うむ」
ホームズは頷いた。
「だが、問題はその彼に追従する者が大勢いることだ。『教授』のためなら自らの手を汚すことも厭わない連中だ。ここにいる彼のようにね」
挑発的な言葉に私は腰を浮かせかけたが、ホームズの鋭い視線にぶつかり、ソファに押し戻された。
ホームズは私が殺人に手を染めていることを知っているのだろうか。いや、そんなことはあり得ない。グラハムの死はテンプル騎士団によって闇に葬られたはずだ。
だが、迂闊に挑発に乗れば、墓穴を掘ることになる。巧みに言葉を弄し、ホームズはこちらから何かしらの反応を引き出そうとしているのだ。
油断ならぬ相手だ。
今さらながら、私はそう肝に銘じた。
「おい、ホームズ」
ワトスン医師は友人を見上げて嗜めた。そして、非礼を詫びるように私に向かって頷いた。私とホームズの間に交わされた暗闘に気付いた様子はない。戦いよりも、社会性や人の善意に重きを置く。ワトスン医師はそういう性質の人間なのだ。
「おっと。これは少々言いすぎたかな。君を犯罪者呼ばわりするつもりはないのだ、ガレット卿。許してくれたまえ」
私はぎこちなく会釈を返した。シャーロック・ホームズなるこの人物を前に、私は明らかに動揺していた。社会通念に囚われない、特異な価値観に従って生きる彼のような人間に対処する術を持ち得なかったのだ。ただ、この種の人間に出会うのは、これが初めてではない。『教授』とホームズにはおそらく多くの共通点がある。二人は同種の人間だ。ホームズと出会って間もないこの時点ですでに、私はそう直感していた。ホームズが教授と同等の能力の持ち主なら、私がホームズに抗し得ないのは無理もないことだ。
忘れてはならないのは、『教授』は味方で、ホームズは敵だということだ。
「たとえるならば・・・」
ホームズは話を続けた。
「網の目のように張り巡らせた蜘蛛の巣の中心にいるのがモリアーティ教授だ。我々や警察が法に照らして彼を告発しようとしても、彼のところまで手が届かない。モリアーティはいつも法の及ぶ範囲の外にいる」
「犯罪組織の大棟梁(おおボス)というところかな」
ワトスンが合いの手を入れた。
「言い得て妙だよ、ワトスン」
ホームズは、ぱんと手を鳴らした。
「ところが、彼の築き上げた組織が犯罪組織かと言ったら、必ずしもそうとは言い切れないのだ」
「どういうことだい?」
「カエサルやナポレオンを犯罪者と呼ぶ者はいないだろう?彼ら歴史上の偉人に比肩する壮大稀有の構想の持ち主だよ、モリアーティ教授という男は。先程ガレット卿も言ったとおり、世が世なれば、歴史に名を刻んだかも知れぬ不世出の傑物だ」
『教授』に対するホームズの賛辞は、私の胸を高鳴らせた。敵対しながらもこれほどまでに認め合える二人が羨ましくもあった。
私はふと傍らのワトスン医師に目をやり、この人なら私の気持ちを理解できるだろうと思った。天の配剤か運命の悪戯か、稀代の才人の隣に居合わせることになった人間は、凡人の望みえぬ洞察をもって世界を眺める栄に浴すと同時に、自力では決してその域に達せぬことをまざまざと思い知らされるのだ。私がワトスンに親しみを覚える理由は、そうしたところにもあるのかも知れない。
「英雄にもなりえた男だ」
ホームズの話は続く。
「しかし、現体制には馴染まぬ人間だ。19世紀イギリスにおいては、社会の逸脱者と言わざるを得ない」
「でも、現在の社会や国家が完璧だとは言えないでしょう」
私は反論した。教授に対する一方的な批判は許せない。
ホームズは、おやと言うように私を見た。
「勿論、完璧などということはあり得ない。だが、機能はしている」
「教授はより良い社会を作ろうとしているだけです」
「理想郷(ユートピア)思想というのは古くから存在した。だが、あくまでもそれは思想(イデオロギー)上のものであり、かつて実現したためしはない。根本的な変革などというものは誰も望まないし、社会の変革はそう簡単には起こりえない」
「難しいと言って諦めるのですか?」
「変革には多大の犠牲が伴う。まず、現体制を打ち壊さねばならない。そうなれば、多くの血が流れることになる。教授の掲げる理想主義は、無政府主義(アナーキズム)と何ら変わるところがない」
「教授は無政府主義者(アナーキスト)ではありません」
「それは分かっている。だが、放っておけば、時代の破壊者となるだろう。よいかね。君や私が生きる現代社会は、偶然今あるこの形に収まったわけではない。数知れぬ人間の多大なる努力と犠牲の上に今という時代があるのだ。それをたった一人の人間の思惑で、短期間のうちに作り変えてしまおうというのは、余りにも乱暴だ」
「革命とはそうしたものでしょう」
「そう。モリアーティ教授が一個の革命家であることは間違いない。優れた思想家であることも認めよう。だが、彼がどれほど高邁な理想を掲げようと、革命には犠牲が伴う。人の血が流れる。それは許されることではない。この僕がそれを許しはしない」
正義の為というよりも、それはホームズの教授に対する意地ではないのか。
教授とホームズ。この二人は善悪の観念を超えたところで戦っている。どんな立場にあろうと、彼らは敵対する運命にあるのかも知れない。
「差し出がましいようだが、ガレット卿」
おずおずと前置きをして、ワトスン医師が言った。
「あなたの冠する伯爵という爵位も、イギリス王家の統治の下に与えられたものだ。それを覆すことはご自身の首を絞めることになりますぞ。王制や帝国主義の全てが正しいとは言わないが、大英帝国の繁栄がその上に成り立っていることも事実だ。王制を打倒した隣国のフランスは衆愚政治に陥り、ナポレオンの台頭を許した。ナポレオンの築いた大帝国は脆くも瓦解し、あの国は未だに迷走を続けている。イギリスがフランスの二の轍を踏むことがあってはなりますまい」
「フランスは今、共和制を敷いています」
「現状、優位に立っているのはイギリスではないかな?」
「王制のほうが正しいやり方だと?」
「共和制にも優れた指導者が必要だと言っているのです」
「現体制が覆った暁には、『教授』が新たな指導者となります。教授なら、旧弊に囚われぬ、よりよい世界を築くことができるでしょう」
「君にそう思わせる根拠は何かね?」
ここでホームズが割って入った。
そう問われて、私はふと答えに迷った。
「君はただ、そう思い込まされているだけではないかね?あるいは、そうあって欲しいと願っているだけではないのかね?」
「違う」
自分でも驚くほど大きな声で、私は否定した。
「あなたもさっき仰ったはずだ。教授は優れた思想家だ、と。現に教授を追って国家権力も動き出している」
「国家権力?」
「あなたのお兄さんは当局の人間でしょう」
「彼は単なる公僕だよ。私やモリアーティに匹敵する頭脳の持ち主だが、善良なる一市民に過ぎない。公権力とは何の関わりもないよ」
「うそだ。彼自身が、国家機密に触れることがあると言っていた」
「機密に触れることと権力を振るうことは別物だ。しかし、まあ仮にだ、仮に君の言う通りだとして、君が教授を信じる根拠はそれだけかね?」
「それだけ・・・とは?」
「君は第三者の評価によってモリアーティという人物を判断しているだけではないかね?君は彼がどんな思想の持ち主で、彼が生み出そうとしている新世界をどのように構想しているか分かっているのかね?」
私は答えに詰まった。
教授との出会いは哲学問答から始まった。大学に入ってからは、教授の勧める様々な本を読み、それぞれの主題について議論を戦わせてもきた。しかし、それらは全て表向きの話であり、教授が世界の裏側で進めている事業について直接言葉を交わしたことはない。教授の裏の顔については、グラハムやモンゴメリ、マイクロフトと言った人たちから間接的に聞いたことばかりだ。私が教授の構想についてどの程度のことを知っているかと問われても、それは答えようのない問いだった。
「君はただモリアーティという怪人物に盲従しているだけではないかね?」
「では尋ねますが、あなたが教授を敵視する理由は何ですか?」
「さっきも言ったが、それは彼が社会に害をなす危険因子だからだ」
「それこそ、根も葉もない決め付けではないですか?」
「僕は犯罪の専門家だ。このイギリスやヨーロッパ各地で起こる重大犯罪については知悉している。面白いものでね、ガレット卿、一つのことを極めてゆくと、全く別のものが見えてくることがある」
「・・・・・」
私にはホームズの言わんとするところが理解できなかった。
「私は政治には疎いが、組織犯罪を研究してゆくと、政治的な色相が浮かび上がってくる。このモリアーティ教授のケースがそうだ。互いに無関係に見える様々な犯罪の裏に、ある一つの意思が見えてくるのだよ。個々の犯罪がそれぞれ別個の意思によって犯されたものなら、社会全体から見てそう大きな問題にはならない。しかし、それらがある一つの意思の下に仕組まれたものだとしたら、これは由々しき問題だ。
僕は調べのつく限りのことを調べ、モリアーティのところへ行きついたのだ。彼が裏で糸を引いている犯罪を数え上げればきりがない」
「教授がどんな犯罪に関わっていると言うのです?」
ホームズは溜息をついた。
「君はモリアーティがどれほど危険な相手かを知りたいのだね?」
私は肩をすくめて、先を促した。
探偵などという怪しげな職業を営む、このホームズという男の化けの皮を剥いでやるつもりだった。しかし、彼の口から飛び出した言葉に驚いたのは私のほうだった。
「モリアーティのところにシンクレア家のお嬢さんがいるだろう」
シェリルのことだ。ホームズはそんなことまで調べ上げているのか。
「私がモリアーティの関与を嗅ぎ付けた事件の一つが、彼女の父親のサディアス・シンクレア卿から依頼されたものだった。すでにご存知のことと思うが、賭け事で身を持ち崩した人物だ。そのこと自体に弁護の余地はないが、ただ、関わった相手が悪かった。彼を破滅に追いやった賭け事の相手は、グラハム子爵というスコットランド出身の貴族だ」
え?
声こそ押し留めたが、私は思わずホームズの顔をまじまじと見つめた。
氷のように冷たい目が私を見下ろしている。
彼は一体どこまで知っているのだろう?
彼の口からグラハムの名が出たことが私を動揺させた。
「紅顔の美男子、社交界の花形ともてはやされるは表の顔。その本性は、名うてのいかさま賭博師(ギャンブラー)だ。その正体に気付き、シンクレア卿が私のもとを訪れた時には、事態はもう取り返しのつかない段階にまで進展していた。シンクレア卿の凋落ぶりは見るに忍びなかったよ。健康状態も悪化していた。目は黒く落ち窪み、鼻の頭は赤く充血してアルコール中毒の症状を呈していた。仕立てのよい服は何日もブラシを当てた様子がない。まさに人生に絶望した男を絵に描いたようだった。彼は全財産を巻き上げられた上、借金のかたに娘のシェリル嬢まで差し出していた。せめて娘の身一つでも救ってほしいと僕のところへ来た時には、彼女はすでに女衒の手に落ちた後だった。
さすがの僕も手の施しようのない状況だったが、幸い、シェリル嬢は何者かに身請けされて無事だということが確認できた。残念ながら、そのニュースを伝える前にシンクレア卿は亡くなったがね」
淡々と語るホームズの話しぶりに、大して同情している様子は見受けられなかった。
「ところで、シンクレア家のご令嬢を救ったのが、他ならぬモリアーティ教授だったわけだ」
「今のお話では、教授は何も悪いことはしていませんね」
私は指摘した。
「いかにも」
もっともだと言うように、ホームズは肩をすくめた。
「しかし、ガレット卿、君自身の身にシンクレア嬢と同じことが起こっている。そして、君たちは二人とも、今モリアーティ教授のもとに身を寄せている。これは単なる偶然だろうか?」
そうではないだろう、と言わんばかりのホームズを前に、私は口をつぐんだ。
「私の調べた限りでも、君たちと同じ境涯の人間が数人いる」
見方によれば、モンゴメリもそうだ。ホームズの言うことには筋が通っている。
「では、モリアーティ教授は何のためにそんなことをしているのか?
その線を手繰っていくと、テンプル騎士団という組織が浮かび上がってくる。この古臭い昔話から飛び出してきた組織に、彼の興味を引きつけるものがある。そして、テンプル騎士団と切っても切り離せぬ関係にあるのが、フリーメイスンだ。教授の狙いは他にもあろうが、この既存の組織を土台にして彼は新たな組織を作り上げようとしている」
「ネクロポリス・・・」
マイクロフトから聞いたその名を、私は呟いた。
「そう。『死者の都』という意味だ。もう少し気の利いた名前もあろうに・・・」
言わずもがなの皮肉を口にして、ホームズは言葉をおいた。
「教授は・・・、教授は古い世界の秘密を探り出そうとしているのです」
今、この期に及んでも、私は教授を悪だと断定することはできなかった。教授は、善悪の範疇を超えたより高い次元で思考している。その判断は、善悪の二項対立の下で思考する世間一般の判断よりも優れているはずだ。私はそのことをホームズに分からせたかった。
「古い世界の秘密?」
ホームズはその言葉に興味を引かれたようだった。
「ペルシャやエジプトよりももっと古い世界です。教授は『アトランティス』と呼んでいました」
「アトランティス?」
鼻でくくったような口調とは裏腹に、ホームズの目に好奇の光が宿った。
「テンプル騎士団に遺された秘密はその時代から伝わるものです。フリーメイスンはその秘密を守るための組織なんです。組織自体が大きな記憶装置として働いている、と教授は言っていました」
「ふむ」
ホームズは私の言葉を吟味するかのように目を瞑った。
「アトランティスは、現代よりも高度な文明と成熟した社会を形成していました。その世界から伝わる叡智に学ぼう、というのが教授の考えです」
「空想か、現実か・・・」
ホームズはぶつぶつと呟きながらマントルピースのほうへ歩いてゆくと、またパイプに煙草を詰め始めた。
「面白い。実に興味深い話だ」
パイプを咥えた歯の隙間から、ホームズは言った。
「だが・・・」
ホームズはマッチを擦ってパイプに火をつけた。彼が煙を吸い込むと、パイプの火皿が赤熱した。紫煙を吐き出すと、ホームズはくるりと私のほうを向いた。
「それが事実であろうとなかろうと、目下我々が直面している問題とは何の関係もない」
「そんなことはありません。僕は教授のやろうとしていることの正当性を主張しているのです」
私は強い口調で反論した。
「君が言っているのは、あくまでも理想論だ。現実世界はそれほど単純ではない。君はものの道理を説きたいのだろうが、理想を追い求めすぎるとその道理さえ見失うことになる」
厳しい指摘だった。理想と道理は同義ではない。ある点を通り過ぎると、理想は道理から乖離してゆく。ホームズはそう言いたいのだ。
「アトランティスがどんな世界で、その時代からどんな知恵が伝えられているかは知らない。その中にはおそらく有用なものも含まれるだろう。だが、そんな大昔に栄えた文明の社会制度を、いきなり現代社会に当てはめるのは乱暴だ。それがどんなに優れたものであったとしても・・・」
「でも、大きな力があれば、世の思想や社会制度を変えることはできます」
「それには、長年の研究となだらかな変化が必要だ」
「社会の変革は短い期間でも可能です」
「君の主張は、結局、革命論に収斂してゆく。先ほども言ったが、革命とはつまり現体制下における反社会運動だ。その思想をもとに新体制を築こうとするモリアーティが現体制下で不穏分子とみなされるのは当然だ」
「それでも僕は教授についてゆきます」
ホームズは鼻頭に皺を寄せると、くるりと背を向けた。これ以上議論しても無駄だ、と言わんばかりに・・・。そして、部屋の奥の窓際にある書き物机のほうへ行き、万年筆で紙に何かを書きつけると、私たちのところへ戻ってきた。
「世の中には知らないほうがよいこともある。しかし、これを知らせずに君を帰すことは、僕の良心が許さない」
そう言いながら、ホームズは走り書きのメモを私に差し出した。
そこには、
『マダム・マゴット(ウジ虫)』
という名前と、ロンドンの下町の住所が記されていた。
本名ではあり得ない奇怪な名前を訝しく思いながら、私はメモを受け取った。
「一筋縄で行く相手ではないが、私の名前を出せば、話には応じるだろう」
「何者ですか?」
「君には忘れてはならない人がいるだろう」
はっきりとした答えを言わず、ホームズはワトスン医師を見やった。
「ワトスン。付いて行ってやりたまえ。あの界隈を夜一人で歩くのは危険だ」
「君は行かないのか?」
「僕と彼が一緒に出歩くわけにも行くまい。ここ数日、僕自身モリアーティの部下に付き纏われている。僕とガレット卿が肩を並べて歩いているところを見たら、モリアーティがどう邪推するか分からんからね」
ホームズは邪魔者を追い払うように手を振って窓際へ戻ると、出窓の棚に無造作に立てかけられたヴァイオリンを手に取り、やおらかき鳴らし始めた。時間もあろうに・・・。
ただ、腕前は見事だった。
悲しい旋律の中に、人の気持ちを昂ぶらせる激しさを伴った曲は、全体として素晴らしい調和を生み出していた。ホームズの演奏は作曲者の哀切を巧みに表現している。
私はしばし我を忘れ、音の世界に身を浸すひとりの演奏家の姿に見入った。
この人は芸術家だ。
ホームズは自分の行為の中に美を見いだそうとしているのだ。それが犯罪捜査であるか、楽器の演奏であるかは問題ではない。人間としての営みの中に何かしら美しいもの探し求めている。一心に楽器をかき鳴らすその姿に、私はホームズという人間の真情を見た気がした。
「行こう」
ワトスン医師が立ち上がり、ぽんと私の肩をたたいた。
「彼も少し気が昂ぶったようだ。落ち着かないときは、いつもああして気を鎮めるんだよ」
後ろ髪を引かれつつ、私はワトスン医師の後に従って部屋を出た。
外へ出ると、ひんやりとした夜気が肌に心地よかった。ホームズのかき鳴らすヴァイオリンの音が階上の窓越しに聞こえてくる。私は細いシルエットの踊る窓を見上げ、『教授』と並ぶ不世出の天才との邂逅を胸に刻んだ。
少し道を歩いた後、私たちは通りかかった辻馬車に飛び乗った。
「ああ見えて、ホームズは人情家だ。君が助けを求めれば力になってくれるだろう」
御者に行き先を告げると、ワトスンは若い私を諭すように言った。
「ご忠告には感謝します、先生。でも・・・」
「君には君の事情があるだろう。私の口からとやかく言うつもりはない。ただ、一つだけ知っておいてほしい。ホームズは正しい心の持ち主だ。彼は特異な才能の持ち主だが、私が彼を信じるのはそれ故にではない。彼の心に正義が宿っていることを知っているからだよ」
ああ、このワトスン医師の温かい眼差しがあればこそ、ホームズはその能力を遺憾なく発揮することができるのだ。
ワトスン医師の言葉には、強く私の心を揺すぶるものがあった。しかし、もう後戻りは出来ない。私の心はすでに『教授』と共にあるのだ。
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