ジェイムズ・モリアーティ
ディオゲネス・クラブを出ると、門前に黒塗りの四輪馬車が停まっていた。
「マーカス・ガレット卿」
突然名前を呼ばれて、私は足を止めた。
見ると、ガス燈に照らされる馬車の影に隠れるように、御者が立っていた。
「お迎えに上がりました」
馬車の扉を開けると、御者は恭しく頭を下げた。
誰が寄こした迎えか確かめるまでもなかった。夜陰にぽっかりと開いた暗い闇に吸い込まれるように、私は馬車に乗り込んだ。
馬車には先客があった。窓にカーテンが引かれているため顔は見えなかったが、私にはそれが誰だが分かっていた。私がその人物の向かいに腰を下ろすと、馬車は石畳の道を滑り出した。走り出した拍子にカーテンに隙間ができ、窓から差し込んだ街灯の明かりが私の前に座る人物の顔の下半分を照らし出した。
「ジェイムズ・・・モリアーティ教授」
私が相手の名を口にすると、無表情に閉じられていた口元がかすかに緩んだ。
「色々話を聞いてきたようだね」
慣れ親しんだ声が返ってきた。
「この際、私の本名など瑣末な問題だ。問題は、君がどうするつもりか、だ」
「僕は・・・」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「あなたについていきます」
「私を謀るつもりではあるまいね?」
「僕にその選択肢がないことは、よくご存知のはずです」
「よろしい」
『教授』は満足げに頷いた。
「今宵、君を『ネクロポリス』の一員に迎えよう」
ネクロポリス。
『教授』がフリーメイスンのネットワークを駆使して立ち上げた秘密結社。マイクロフト・ホームズ言うところの、ヨーロッパ世界の地図を描き変えかねない危険な政治結社。
「組織の目的を教えていただけますか?」
さかしらな質問だったかも知れない。だが、『教授』と運命を共にすると決めた今、率直に話がしたい。もう腹の探り合いはしたくなかった。
「太古の昔、この世界に存在した理想郷を、現在19世紀の世に現出させること」
教授の答えに澱みはなかった。
「太古の昔・・・」
「エジプトやペルシャが文明の萌芽を見るよりもずっと前だ。ギリシャの哲学者プラトンが『アトランティス』と呼んだかの地には、現代をはるかに超える高度な文明が栄えていたと言う」
アトランティス。
架空の都市の名前だ。本気で言っているのか。教授は正気だろうか。
暗闇の中の私の表情が見えるかのように、教授の口元に笑みが広がった。
「高度な文明と聞くと、未だ人類が目にしたことのない科学の発達した世界を想像するが、私が思い描く世界はそれとは少し違う。宇宙万物の原理を解き明かすにおいて、アトランティスが我々現代文明を凌駕していたことは十分に考えられる。しかし、それだけではなく、政治や社会、経済、思想、言語、あらゆる分野において、歴史上のどの時代も比肩し得ぬ洗練された社会をアトランティス人は1万年の昔にすでに築いていた。それは現代ヨーロッパ社会よりも成熟した、万人が幸福に暮らせる社会だった。私が思い描くのはそうした一つの理想世界だ」
大英帝国に脅威を及ぼすほどの人物だ。教授が現代世界に生まれ落ちた知の巨魁、一個の天才であることを認めるにやぶさかではない。しかし、これが賢者の妄想か実現可能な未来かと問われたら、それを判別する術を私は持ち得ない。話は大きければ大きいほど現実味を失う。逆に言えば、どんな大法螺もそれらしく語られれば本当らしく聞こえる。
「信じられないかね?」
私の沈黙を迷いと取ったのか、教授は言葉を継いだ。
「フリーメイスンは古代世界の叡智を人間の記憶を介して未来へと送り伝える、実に巧みな情報伝達装置なのだよ。その片鱗を君も目の当たりにしてきたはずだ」
私の記憶に組み込まれたヘブライ語の詩。
詩の中に隠された暗号。
テンプル騎士団の遺物。
騎士団の血を引く者にしか見えない光。
これらは全て古代叡智の片鱗だというのか。
教授はそれらを繋ぎ合わせ、失われた世界の謎に迫ろうとしている。いや、それだけではない。その謎を解き明かし、現世界に新たな秩序を生み出そうとしている。
マイクロフトが恐れる、ヨーロッパ世界をも震撼させる計画。そこに留まらず、教授の目はそのさらに向こうを見ているのかも知れない。全世界を束ねる統治機構を構築し、その上に君臨する。かつて、アレクサンダー大王もローマ帝国もナポレオンも果たし得なかった夢。世界の王になるという野望・・・。
「可能ですか・・・、そんなことが?」
「約束しよう。君は歴史上どんな偉人も思い描きすらしなかった大事業の目撃者となるだろう。我が『ネクロポリス』の一員となった今、君はすでにこの事業に参画しているのだよ」
「僕が・・・?」
教授は頷いた。
「君は新しい世界の支配者の一人となるのだよ」
教授の口調には明らかな変化が見られた。すでに覇王としての自覚が芽生えつつあるのか。
今目の前にいるのはやはり狂人ではないだろうか。
「それを許さぬ人もいるのではないでしょうか」
心に兆した懸念をそのまま口にすることは憚られる。しかし、教授の正気の度合いは確かめておきたかった。
闇の奥に潜む教授の目が私を見つめているのが分かる。
「ひとつ事をなそうとする時、抵抗が生じるのは人間社会の常だ」
その声には一片の乱れもない。
「勿論、邪魔者はいる。旧態依然とした制度にしがみつき、変化を拒む輩だ。現状のままの世界のほうが居心地がよいのだよ、支配者側に立ち、時の世に権勢を振るう人間にはね。しかし、生得の権利などというものは幻想だよ。時代の変革期には天才が現れ、その天才が新たな時代の波を生む。潮目を読み誤った者は波に呑まれる」
「大英帝国を敵に回すおつもりですか?」
私が尋ねると、少しの間があった。
「手強い相手ではある」
「当局の手がすでに背後に迫っているのではありませんか?」
マイクロフトから得た情報によれば、教授はすでに追われる身だと言う。オックスフォードでの職を追われ、ロンドンに潜伏中の彼が、危険を押して今私の前に現れたのだ。
「心配には及ばぬ。私の敵となりうる人間はたった一人だ」
私に思い当たるのは一つの名前だけだ。
「マイクロフト・ホームズですか?」
私が口にした名前に、教授はくっくっと含み笑いを漏らした。
「もっと手強い相手だ」
教授を追い詰めるほどの人間が他にいるのか。
「我が天敵の名は・・・」
教授は厳かに宣言した。
「シャーロック・ホームズ。マイクロフトの弟にして、新進気鋭の私立探偵だ」
「私立探偵?」
「彼が世に生み出した職業と言っていいだろう。他に類を見ない男だよ。私に匹敵する頭脳の持ち主だ」
教授にしてみれば、これは最高の賛辞だろう。
「かつて、ここまで私を追い詰めた敵はいない」
「それほど危険な相手ですか」
「いかにも。国家権力の笠を着ずここまでやるとは、敵ながら天晴れというほかない」
他人の能力をこれほど素直に認める教授は初めてだ。たとえ敵だとしても、シャーロック・ホームズという人物は、教授にとって特別な存在なのだ。
「だがね、ガレット君、私は嬉しいのだよ。この世の中に私と互角に渡り合う人間が現れたことが・・・。彼という好敵手を得て初めて、私は生きているという感覚を味わうことができた。文字通り、生まれて初めてだ。だからこそ、彼だけは・・・、あのシャーロック・ホームズという男だけは、私の前に跪かせねばならない」
憎しみのありったけをこめるかのように、教授はその名を口にした。
これほど感情を剥き出しにする教授を、私はかつて見たことがなかった。
「ところで、我々は今どこへ向かっていると思うね?」
教授は不意に話題を転じた。
何の手がかりも与えられていない私には答えようがなかった。
「ベーカー街221番地B」
それが何か特別な住所であることは、想像するまでもない。私は次の言葉を待った。
「ホームズの居所だ」
今からホームズと対決するつもりなのか。
「会いに行かれるのですか?」
「いや、今はまだその時ではない。今夜は、私の代理として君に行ってもらいたい」
「代理?僕が教授の・・・?何を話せばよいのでしょう」
「警告だ。これ以上私の邪魔をすれば、命はない・・・と」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
教授が一目置く相手を前に、そんなことが言えるだろうか。
「それで手を引く相手ですか?」
「いや、引かぬだろう」
「では、何のための警告ですか?」
「彼を闇討ちして亡き者にするのは簡単だ。だが、それでは私の気が済まん。歩む道は違えど、彼には敬意を表したい。だから、事に及ぶ前に十分に私の気持ちを伝えておきたいのだ」
「教授のお気持ちを・・・?」
「彼・・・シャーロック・ホームズは、我が人生に立ちはだかる最大の敵だ。そして同時に、人間という知性の最も深い部分で理解し合える、真の友でもある。そう、奇妙なことに、私は彼に対して他の誰に対しても抱きえぬ友情を感じている。表裏一体の運命共同体とでも言うのか。おそらく、彼も同じ気持ちを抱いているだろう。彼とは、互いの知力の限りを尽くして、真正面から戦いたい。
ふふ・・・。戦うことでしか分かり合えぬ相手がいる。しかし、その相手こそが真の友となりうる。こんなことがあるのだな・・・」
深い感慨を込めて話す教授は、どこか寂しげだった。だが、その言わんとするところは理解できる気がした。
馬車が止まり、目的の建物の前で扉が開かれた。
ペル・メルを出てベーカー街に着くまで、少し時間がかかった。おそらく教授と私が話をしている間、回り道をしていたのだろう。
私が通りに降り立つと、馬車は静かに走り去った。
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