ディオゲネス・クラブ

 大学寮の私の部屋に一通の手紙が舞い込んだのは、イングランドの田園が色づき始める爽やかな季節のことだった。

 年度末に向け、私は進級のかかる試験の準備や論文の執筆に目の回るような日々を送っていた。忙しい最中ではあったが、封筒に差出人の名前が書かれていないことが気になって、私は怪しげな手紙の封を切った。

 中身は『ディオゲネス・クラブ』という社交クラブからの招待状だった。四月某日という日付と、ロンドン・セント・ジェイムズ地区ペル・メルという住所だけが記されている。

 その日その場所へ来いということだろう。こんな招待を受ける心当たりと言えば、父がロンドンに住んでいたことぐらいだった。父がこのクラブのメンバーだった可能性はある。それにしても、差出人の素性も知れぬ怪しげな招待に軽々に応じてよいものか。誰かに相談したかったが、教授はここのところ留守がちで、大学の研究室にも授業にもほとんど顔を出していなかった。

 シェリルは教授のお供。

 モンゴメリはとっくに船の修理を終え、今頃は異国の海の上。

 学生の身としては、社交クラブからの招待に応じている場合ではないのだが、差出人が不明だという点が気にかかった。甚だ失礼な話には違いないが、このところ私の身辺に起こる様々な出来事を考え合わせると、この謎を解かないことにはどうにも落ち着かなかった。

 週末の休みを待って、私はまずロンドンの姉のもとを訪ねた。

 姉のケイトリンは父の後を継いで新聞社の仕事に精を出している。この手の仕事に従事する女性は皆無と言ってよく、そもそも職に就かねばならぬ境涯でもないのだが、父が亡くなって数ヶ月、ケイトは未だに父の影を追っていた。いつもそばにいて、あれほど敬慕していた父を、忘却の彼方に葬り去ってしまうことが出来ないのだろう。時間にすればそれほど長い間ではなかったろう、父と共に歩んだ記者という道を姉は選んだ。選んだと言うよりも、しがみついていた。


 ロンドン中心部の鉄道駅チャリング・クロスからガレット家の邸のあるハムステッドまで馬車で小一時間。市(シティ)を一望できる丘の上の佇まいには、のんびりと優雅な空気が流れる。ここでは町の喧騒に煩わされることなく、世界随一の発展を遂げた市の繁栄を享受できる。

 市(シティ)北郊の瀟洒な住宅地は、父の生前と何ら変わるところがない。人が一人いなくなっても、世界は回り続けるのだ。しかし、私にとって最早そこは別世界だった。ここへ来ても、もう父に会うことはできない。一方、ケイトは晩年父が愛したこの町に留まった。町の空気の中に父の温もりや匂いを求めるかのように・・・。

「ディオゲネス・クラブ?」

 私が見せた招待状に目を通すと、ケイトは呟いた。その顔にはありありと不審の色が浮かんでいる。

「父さんから聞いたことがないかな?」

「さあ・・・」

 姉は首を傾げた。

「本当にお父様と関係があるの、そのクラブ?」

「それが分からないから聞いてるんだよ」

「お父様と関係があるなら、そう書くはずでしょ。怪しいじゃない。名前も書かずに招待状を送りつけてくるなんて」

「でも、気になるんだよ。これは確かに僕に宛てられたもので、向こうはオックスフォードの僕の住所まで知ってるんだぜ」

 姉はふと私に不安げな眼差しを向けた。

「お父様にも色々なお付き合いがあったから、そのクラブにも出入りがあったかもしれないわ」

「仕事上の付き合いってこと?」

「それもあるわね。記事を書くのに色んなところから情報を集めていたから」

 姉の言葉つきからすると、それだけではなさそうだ。

「その他には?」

「勿論個人的なお付き合いもあったし、ガレット家の当主としてどこかへ招かれることもあったわ」

 姉は社交界の話をしているのだろうが、私の頭に浮かんだのは別のことだった。それは、今まで敢えて考えまいとしていたことだった。

「テンプル騎士団・・・」

 口にするのも忌まわしいその名を、私は小さな声で呟いた。

「私も今それを考えていたところよ」

 沈んだ姉の声。

 ケイトにとってもそれは口にしたくない話題だろう。

 ロスリンでの出来事はまだ話していない。私が自らこの手で、父の仇を討ったことを姉に話すべきかどうか、私はまだ迷っていた。


 ケイトは喜ぶだろうか。それとも、悲しむだろうか。


 いずれにしても今はまだ言えない。

「行くの?」

 姉は短く問うた。

「確かめないわけには行かないよ。今は僕がガレット家の当主だ」

「私も行くわ」

「だめだ」

 私は姉の申し出を拒んだ。

「・・・・・」

 言葉を返しこそしなかったものの、ケイトの表情は曇った。『ディオゲネス・クラブ』の招待状に危険な香りを嗅ぎ取ったのは、私だけではなかった。私の身を案じるその顔に、深い憂慮が浮かんでいた。

「もし僕が戻らなかったら、警察に連絡してほしい」

 相手が私に害意を抱いていた場合、私の身の安全を担保してくれるのは外部との繋がりだ。今私が頼れるのは姉だけだった。

 ケイトはしぶしぶ頷いた。


 セント・ジェームズ通りからトラファルガー広場へ抜けるペル・メル一帯は上流階層向けの高級住宅街で、豪壮な建物が並ぶ通りには他所者が立ち入ることを拒むかのような風格が漂う。

 その日は夜になると霧が立ち込め、じとじとと肌にまとわりつく空気は冷たかった。ガス灯の明かりにぼんやりと浮かび上がる街は不気味なほどの静けさに包まれ、時折通りかかる辻馬車の石畳を叩く音だけが、通りを囲む壁に甲高くこだました。

『ディオゲネス・クラブ』は通りに何軒かある社交クラブの一つで、黒大理石を前面に配した建物の威容は、その場所にふさわしい格式を備えていた。看板などは出ていない。ただ大理石に小さくクラブの名前が彫られているだけだ。

 文字通り敷居の高い扉を開けて中に入ると、まず二階へ上がる階段が現れた。周囲と同じ四、五階建ての建物は奥行きが深く、表から見るよりもずっと広い。

 社交クラブと聞いて紳士淑女が集うサロンのような場所を想像していた私は、建物の中の静けさに拍子抜けした。気味が悪いほど静まり返った階段を上がって、すぐ前の扉を開けると、カウンターの後ろに燕尾服に蝶ネクタイという出で立ちのいかめしい顔の男が立っていた。男は新来の客を出迎えるでもなく、胡乱な眼差しで私を見ている。いかにも場違いなところへ来たような気がしたが、受付の執事に気後れしている場合ではない。私はクラブからの招待状を取り出し、カウンターの上に置いた。

 執事は招待状にちらりと目をやったが、手に取って見ようとはしなかった。

「当クラブの規則はご存知ですかな?」

 第一声はその言葉だった。

 甚だ失礼な態度に腹が立ったが、私は怒りを飲み込んだ。執事に構っている暇はない。

「いや。このとおり、ここへ来るのは初めてだ」

 私は精一杯の威厳を繕って、カウンターの上の招待状を指で叩いた。

「でしょうな。でなければ、私の方でお顔を存じ上げているはずだ」

 これではどちらが客か分からない。この男は執事と言うよりは門番だ。

「だから、こうして招待状を見せているだろう。早く取り次いでくれ」

 くだらないやり取りにうんざりして、私は執事の方へ招待状を押しやった。

 ようやく招待状を手に取ると、執事はいかにも権高な目つきで私の顔と招待状を見比べた。

 ここへ来て私は招待状の差出人に取り次いで貰えるかどうか不安になった。招待状にはこのクラブの住所と今日の日付が記されているだけで、こちらは差出人の正体も知らないのだ。

「まずお断り申し上げておきます。その扉から中に入ったら、一切口をおききになりませぬよう。それが当クラブ唯一の規則でございます」

 謎のような言葉を残して、執事は奥の扉から中へと姿を消した。

 まことにもって不可解だった。


 人と話をしてはならない社交クラブ?


 そんなものに何の意味があるのだ。そもそもディオゲネスなどという名を冠していること自体奇妙だ。古代ギリシャの哲人として名を遺してはいるが、実際は乞食同然の変人だったと言うではないか。このクラブはきっとそんな変人の集まりに違いない。とにかく、これで一つ謎は解けた。この建物の不自然なまでの静けさはその規則のせいだったのだ。

 ほどなく、今ほどの無愛想な執事を伴って、恰幅のよい長身の紳士が姿を見せた。男は私の姿を認めると、目に笑みを浮かべて近づいてきた。ゆったりとして落ち着いた身のこなしは自信に満ちている。

「やあ、これは。ガレット伯爵ですな。どうも、はじめまして」

 押し出しの利く巨体と野太い声に圧倒されつつ、私は差し出された手を握り返した。

 見た目の印象とは裏腹に、男の手は柔らかく繊細だった。

「マイクロフト・ホームズです」

「え、あなたが・・・?」

 相手の名乗った名前に、私は言葉を失った。

「私の名前をお聞きおよびでしたか」

「ええ。以前、父から・・・」

 初対面の相手にどこから何を話せばよいか見当もつかぬ私は、ごにょごにょと口ごもった。

 マイクロフトはしばし私の顔を見つめた。私の中に父の面影を見出したのであろうか、懐かしさや悲しみ、悲喜こもごもの思いのこもった眼差しだった。温かい人間の目だった。

 ここを訪れる前に私が抱いていた警戒心は、その瞬間、氷解した。得体の知れぬ招待に、執事の応対にさえ悪意を見出し、マイクロフトと握手をする時にも心に猜疑の炎が燻っていた。しかし、彼は指を立てて合図をするような怪しい仕種は見せなかったし、目下の私に話しかけるその言葉つきにも心からの敬意がこもっていた。ここでは訳の分からぬ組織の掟に縛られることなく、自分の立場にふさわしい扱いを受けられる。逆に言えばこの相手に対しては礼を欠いてはならぬということだが、一瞬のやり取りで察せられるこうした暗黙の了解が私を安心させた。そして、何よりも父の名を私が口にしたときの彼の目に偽りはなかった。


 この人は信じて大丈夫だ。


 それは教授に対する信頼感とはまた別の、直感的な安堵とでも言うべきものだった。

 マイクロフトの案内に従って、私は『ディオゲネス・クラブ』なる珍妙な名前のついたクラブの中へ足を踏み入れた。

 建物の全面(ワンフロア)をぶち抜いた空間は相当に広かった。通りに面した側と奥の中庭に面した側に窓があり、壁面には木目の目立たぬ黒っぽい材木が用いられている。窓際に配されたテーブルに座を占めれば、窓の外の風景を眺めながら寛ぐことができる。フロアの中央部には一人で座れるものから数人で囲んで座れるものまで様々な形にソファが配されている。それぞれのソファの脇にはその大きさに合った小卓が据えられ、読書用のランプや灰皿が載っている。壁面に備えられた暖炉には赤々と火が燃えさかり、フロア全体が心地よい暖かさに包まれている。暖炉の火と壁に配された燭台の灯りが部屋に落ち着いた趣を添えている。

 おそらく五十人以上の人間を収容できるであろうこの快適な広間に、今は十人ばかりの人が座を占めている。皆立派な身なりの紳士たちだ。ソファに座って琥珀色のグラスを傾ける者、煙草をくゆらせる者、読書する者、中には床に胡坐をかいて瞑想に耽る者まで、思い思いに自分の時間を過ごしている。

 特筆すべきは、この部屋には一切の話し声がしないことだった。暖炉の薪のはぜる音や、誰かが立ち上がって歩く時の靴音が響くほど、広間全体が異様な静けさに包まれている。ここは男の世界だ。きっと女性には耐えられないだろう。ただ、クラブの会員は互いの存在を無視しているわけではなく、何か用があって立ち上がった時などは、目顔で会釈を交わしている。

 一人になる時間がほしい。一方で、同じ価値を共有できる仲間もほしい。そんな矛盾した男の理想を叶えてくれるのが、この『ディオゲネス・クラブ』という場所だ。一旦その理念(コンセプト)を理解すると、私の目にもここが居心地のよい場所に見えてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る