誘惑

 教授宅を辞し、玄関を出たとき、私を追ってシェリルが出てきた。

「そこまで一緒に行くわ」

 彼女のほうから私に誘いかけるなど滅多にないことだった。

 つい嬉しくなって微笑み返したが、いつになく憂いを帯びた彼女の顔に、私はすぐに笑顔を引っ込めた。

 何か話したいことがあるのだ。

 大学の寮へ戻る道すがら、私はシェリルが話し出すのを待った。

 ぴりっとした空気が肌に心地よい初春の夕暮れだった。連れ立って歩くにはよい季節だ。

「グラハム子爵のこと、聞いたわ」

 人通りのまばらな通りにさしかかった時、ようやく彼女は切り出した。

 その話か。

 彼女はロスリンでの出来事を知っているのだ。

 私の上に重い空気がのしかかった。

「殺すつもりはなかった」

 私は小声で答えた。早く話を終わらせたかった。

「本当に?」

 え?

 意外な問い返しに、私は横を歩くシェリルの顔をまじまじと見つめた。

 彼女は前を向いたまま歩き続け、問いを重ねた。

「彼のことを恨んでいたんでしょう?」

「恨んでいたさ。あいつは父の仇だ。だけど・・・」

 仇を討ったからと言って、心の整理がつく問題ではない。父が帰ってくるわけでもない。私はさらに大きな重荷を負うただけだ。人を殺めた記憶は、これから先ずっと私の心を苛むだろう。

 煮えきらぬ私の答えに、シェリルは聞こえよがしの溜息をつき、失望を露わにした。

 彼女らしからぬ反応に私は戸惑った。と同時に、腹の底から沸々と怒りがこみ上げてきた。

 私が人を殺してよかったとでも言うのか。

「殺すつもりなんてなかった。あれは事故だ。相手がナイフを持って襲いかかって来たから・・・」

 何故私が言いわけをしなくてはならないのだろう。

 私を一瞥するシェリルの目に、あからさまな侮蔑の色が浮かんだ。

 こんな目で見られるのは耐えられなかった。彼女がこんな表情を見せること自体、信じられなかった。

「僕が自分の意思でグラハムを殺したと言えばいいのか。そう言えば、君は満足なのか?」

 我知らず、声が荒くなった。

 シェリルはすっと視線を前に戻し、歩き続けた。冷たい仕種だった。

「君のお父さんがグラハムに食い物にされた話は聞いたよ。その後、君がどんな目に遭ったかも・・・」

 考えるよりも先に言葉がほとばしり出た。しかし、それを口にした瞬間、私は後悔した。

 シェリルはただ黙々と歩き続けた。私の言葉が耳に入らなかったかのように・・・。

 その時、私の心にある疑いが首をもたげた。

 もしかして・・・。

 もしかして、グラハムにロスリンの秘密を漏らしたのは、シェリルだったのではないか。

 彼女は教授が解き明かした秘密を知る立場にあった。モンゴメリがスミス・アンド・ウェッソンなどという物騒な代物を持ち歩いていることも知っていたかも知れない。

 彼女の家庭を破滅に追い込み、人生を狂わせた男への復讐を、同じ憂き目を見た私に託そうとしたのだとしたら・・・?

 彼女の私に対する思いが、グラハムに対する復讐心から生じたものだとしたら、それは私たちの間の強い絆となり得る。

 何という皮肉だろう。

 私たちの分かち合う思いが誰かを憎む心から生まれたものだとしたら、今後二人の間にどんな気持ちが育まれようと、それは歪んだものにならざるをえない。

「その通りよ」

 シェリルの声が私の思考を破った。

「え?」

「全てあなたが思っている通りよ」

「僕が何を思っているか、分かるのかい?」

 彼女に対する反感から、私は声高に言い募った。

「私がグラハムに・・・」

 彼女は努めて平静に言葉を絞り出した。

「私がグラハムにロスリンへ行くように言ったの。教授からの命令だって。勿論、あなたとモンゴメリが同じ命令を受けていることは言わなかったわ」

「僕に復讐をさせるために?」

 シェリルは足を止め、挑むような目で私を見た。

 私も足を止め、彼女の視線を受け止めた。

「そうよ」

 きっぱりと言い切る彼女に、私は唖然とした。

 何か言おうとしたが、言葉が声になって現れるまで、数瞬の間を要した。

「君の思ったとおりになったわけだ」

「その通りよ。でも・・・」

 彼女は言葉の継穂を失い、逡巡した。

「君は僕に、復讐の意思を持って彼を殺してほしかった。だけど、僕にその気概がなかったことが不満なんだ」

 私の非難を受け止める彼女の目に苦渋の色が滲んだ。

「何て人だ、君は・・・。人を殺めることがどんなことか分かっているのか?」

「そうよ。全部あなたの言う通りよ。私が復讐に狂った恐ろしい女だと思う?」

 心の乱れを見せまいとする努力とは裏腹に、彼女の声は震えていた。

「あの男が私にしたことを許せと言うの?私には許すなんて出来なかった」

「君は僕を利用したんだ」

 私は彼女を詰った。

 彼女の気持ちは完全に理解できた。だが、殺人の負い目を負うことが恐かった。ただ、そこから逃げたかった。

「あなたなら分かってくれると思った」

「シェリル・・・」

 私は彼女の肩を掴んだ。こんなに細かったのかと、今まで気付かなかったのが不思議なほど頼りなげな肩だった。

「こんな・・・、こんなところから始めちゃいけない。僕らは・・・、僕らの関係は・・・」

 私は言葉を続けることが出来なかった。

「マーカス。私はここから始めることしか出来ないの」

 シェリルは抑揚のない声で言った。

「私は汚れた女・・・。人生の時計を巻き戻すことはできない。それでもあなたが私を愛してくれるのなら、私と同じ気持ちを抱いていてほしい・・・。たとえそれが薄汚い男への憎しみだったとしても・・・」

 彼女の言葉には甘い響きがあった。

 恐ろしかった。この誘惑に負ければ、私の魂は地に堕ちる。

 神の御使いであり、その寵愛を一身に受けた天使が地に堕ち、地獄の王となった。かつて天界で起こったその出来事が、今まさに私の身に起ころうとしている。聖人君子を気取るつもりはない。自分を天使になぞらえるなど、不敬を通り越して滑稽だ。だが、今私は堕天使ルシフェルの身に起きた悲劇を現実のものとして感じることができた。

 私が額ずく相手は、果たして天使か、それとも悪魔か。

 私はシェリルを抱き寄せ、その芳しい髪の匂いをかいだ。

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