嵐の後

 私は銃の引き金を引いたことを覚えていない。

 その感触すら、銃の発砲音さえも、私の記憶には残っていない。

 憶えているのは、無念の表情を残してくず折れるグラハムの顔だけだ。

 うつ伏せに倒れたまま動かなくなる彼を、私はただ見下ろしていた。

 何の感慨も湧いてこなかった。

 目の前に倒れているのは、父の仇だ。

 そう思おうとしても、思考が前に進まなかった。まるで時間が止まってしまったかのように・・・。

 私は完全に我を失っていた。

「おい」

 モンゴメリに肩を掴まれて初めて、私は現実世界に引き戻された。

 私は両手に銃を握り締め、眼前の虚空に銃口を向けていた。

 銃口からはまだ煙が立ち上っている。

 硝煙の匂いが、つんと鼻腔をついた。

 モンゴメリは撃鉄が上がらぬよう、私の手に握られた銃の回転弾倉にそっと手を置いた。

「気にするな」

 そして、銃に絡みついた私の指を一本一本ほどきながら言った。

「やらなきゃお前がやられていた。まったくひやひやさせやがって」

「彼は・・・、死んだのか?」

 私は馬鹿みたいな質問をした。

 モンゴメリは私から銃を取り上げると、床に突っ伏したグラハムの傍らに身をかがめた。そして、その肩に手を置き、体を仰向けにひっくり返した。

 グラハムの目は見開かれ、くず折れる瞬間に見せた無念の表情がまだ顔に張り付いていた。一目見て絶命していることが分かった。

 モンゴメリはグラハムの首筋に指を当てて脈がないことを確かめると、その瞼の上に手を滑らせ、虚空を見つめる目を閉じた。


 人を殺めてしまった。


 その罪悪感が私の心の中に滲み出した。

 私は父の仇を討ったのだ。

 自分に言い聞かせようとしても、心に広がってゆくどす黒い感覚を拭い去ることはできなかった。

 麻痺していた心が現実感を取り戻してゆく中で、私はふとこの部屋にいるもう一人の人物に目を向けた。

 オズワルド老。

 テンプル騎士団に属するこの老人を、私はどうすればよいのだろう。

 彼は私が犯した殺人の目撃者だ。

 私と目が合うと、オズワルドは怯んだように上体をのけぞらせた。


 この男を消さねばならない。


 言葉にするのもおぞましい考えが、私の心に浮かんだ。自分でも信じられなかった。だが、まず私の心が思考したのはそのことだった。

「じいさんのことは放っとけ」

 私の心の動きを読んだかのように、モンゴメリが言った。

 私はその理由を求めて彼の顔を見た。

「このことは表沙汰にはならねえ」

「なぜ?」

「ことはテンプル騎士団内部で処理される。そうだろ、じいさん?」

 モンゴメリはオズワルド老に同意を求めた。

 老人はごくりと唾を飲み込み、小刻みに頷いた。

「け、警察には喋りませんじゃ。け、決して・・・」

 私は老人に懐疑の眼差しを向けた。

「信用できるのか?」

「万一ことが表沙汰になりゃ、その時こそこのじいさんの命はねえ」

「何故そんなことが分かる?」

「テンプル騎士団が許さねえからさ。だから、変な気を起こすんじゃねえぞ、マーカス」

 そう釘をさされてもなお、私の心には不安が燻った。

「ロンドン警視庁(スコットランドヤード)が介入してくることにでもなれば、フリーメイスン内部の抗争が世間の目に晒される。組織はそんな状況を望まねえってことさ」

 不審顔の私にモンゴメリは説明した。

「もっとも、ヤードの介入を許したところで事件は揉み消されるだろうがな。いずれにしても、醜聞が広まらねえに越したことはねえ」

 フリーメイスンの影響はロンドン警視庁(スコットランドヤード)にまで及ぶということか。

 俄かには信じがたい話だが、それならそれで、ことは別の色相を帯びてくる。

 私は教授と組織の間に対立の火種を作ってしまったのではないか。

 いや、教授が最初からことの成り行きを予測していたとしたら・・・。私がグラハムを殺すことを予測した上で、私をこの場へ送り込んだのだとしたら・・・。全ては教授の計画で、私はその計画を遂行するための齣に過ぎないとしたら・・・。

 教授の真意は一体どこにあるのか・・・。

「あまり深く考えねえことだ」

 モンゴメリは私の肩にぽんと手を置いた。

「あんたはそれでいいのか」

 私は尋ねた。

「いいも悪いもねえ。おれはただ、教授の側につくだけだ。フリーメイスンやテンプル騎士団なんてのは得体が知れねえんだよ、このおれにはな」

 モンゴメリの答えは明快だ。

「僕は・・・、人を殺してしまった」

「だから、考えるなって」

「でも・・・」

 モンゴメリは溜息をついた。

「悪党が一人、この世からいなくなった。それでいいじゃねえか。お前の側にも理由があったわけだろ?教授も悪いようにはしねえさ。それよりも、このお宝をどうするか・・・だ」

 モンゴメリは棺の中の財宝を顎で示した。

 今の私には宝の山など大した問題ではなかった。ただ、話題が変わったことにほっとした。

「一度で運び出すのは無理だな」

 上の空で私は答えた。

「こいつを全部持って帰る必要はねえ」

 モンゴメリは棺の横に身を屈めると、財宝の山に手を突っ込み、両手一杯の金銀宝玉を掬い上げた。それらは彼の手からこぼれ落ち、チャリチャリと音を立てて山に戻った。

「教授が探しているのは、この中の一つだ」

「教授は何を探しているんだ?」

「行けば分かると言っていた」

 棺の中を掻き回しながら、モンゴメリは答えた。

 謎めいた言葉に、私は少し興味を引かれた。

「どういう意味だ?」

「さあな」

 モンゴメリは棺の中身を何度も掬い上げては、金銀の財貨や宝石がチャリチャリと音を立てて流れ落ちる様を眺めていた。

 横で眺めている私の目に、一際強い光を放つ宝石が映った。

「こいつだ」

 私の目に映ったその宝石を、モンゴメリは拾い上げ、掌に載せた。

 それは、青みがかった半透明の宝石で、握り締めればちょうど手に収まるぐらいの大きさだった。石が放つ光はとても強く、単に燭台の蝋燭の光を反射しているだけではなかった。石そのものが輝いていた。

「光を放っている・・・」

「こんな石、初めて見るぜ」

 私たちは口々に呟いた。

「立派な石ですな」

 オズワルド老が横合いからモンゴメリの手を覗き込んだ。

「しかし、光っているようには見えませんが・・・」

 その言葉に、私たちは二人とも老人のほうを見た。

「光っていない・・・?」

 年を取って目が弱っているのだろうか。いや、それにしてもこの光が目に入らないはずはない。

「この光が見えないのか?」

 モンゴメリはオズワルド老の目の前に宝石をかざした。

「わしにはただの宝石に見えますじゃ。滅多にお目にかかれる代物ではございませんが・・・」

 老人は不思議そうに肩をすくめた。

 モンゴメリと私は顔を見合わせた。


 何か仕掛けがある。


 それも、モンゴメリや私のようなある特定の人間にのみ働くような仕掛けだ。隠し扉を開くからくり程度なら、まだ理解はできる。しかし、今目の前に起こっている出来事は、我々の理解の範疇を超えていた。

「古の魔術・・・か」

 魔術など本気で信じているわけではあるまいが、モンゴメリが吐いたその言葉は的を射ている。

 ふと顔をあげて見回すと、狭い地下室の壁面に、我々三人の影が踊っていた。燭台の炎の揺らめきに合わせて揺れる影は、この世のものならぬ何者かがそこで踊っているようだった。

 私が犯した所業を考えると、棺の上で頭をつき合わせて密議を交わしているのは人間ではなく、悪魔ではないのか。そんな想像が私の頭を掠めた。

「けけけ・・・、魔術ですと?」

 突然、耳障りな笑い声が響いた。オズワルドだった。

「もしそんなものが存在するのなら、これは司教様にお伝えせねばなるまい」

「司教?誰だ、そいつは?」

「決まっておりますじゃ。ロスリンの司教様ですじゃ」

 ロスリンの司教。

 テンプル騎士団と深い関わりを持つ人物に違いない。ここで起こったことはすべてその人物の耳に入るのだろう。

「君たちの神は何者だ?」

 その問いの持つ意味を考えるより先に、私の口から言葉が飛び出していた。

「君たちはキリスト教徒なのか?」

 老人は怪訝そうに私を見つめ、そして、つと目を逸らした。

「当然ですじゃ。わしらは異教徒でも邪教の信者でもない。くく・・・」

 老人が最後に漏らした含み笑いが、いつまでも私の心にまとわりついた。

「よう」

 快活なモンゴメリの声が響いた。

「ポケットに詰められるだけ宝を詰め込んで行けよ。今度ここへ来た時ぁ、もうこのお宝にゃあお目にかかれねえぜ」

「二度と来るつもりはないよ」

 私は棺に背を向け、秘密の出入り口になっている石壁の前に立った。

「何だ、おい。持って行かねえのかよ」

 モンゴメリは私に追いすがるように言った。

「もう仕事は終わったんだろ?」

 私は努めて冷めた口調で言った。が、実のところ、惨劇の現場となった地下室から一刻も早く逃げ出したかった。

「ひひひ・・・、欲のない御仁じゃ」

 下卑た笑い声を漏らすオズワルドの顔がひどく歪んで見えた。

「じいさん、後始末は任せたぜ」

 上着やズボンのポケットというポケットに手当たり次第に宝を詰め込みながら、モンゴメリは言った。

「万事お任せあれ。今お持ちになるお宝については、目を瞑りましょう」

 棺の宝がまるで自分のものであるかのように、オズワルドは鷹揚に言った。その目は金銀財宝の光を反射して、貪欲に輝いていた。

 棺の横に横たわるグラハムの体が、今にも起き上がるのではないか。

 あらぬ想像が心に浮かんだ。奇妙な現実感を伴って・・・。

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