ロスリン

 私は憂鬱な気分で旅に臨んだ。リヴァプールからエディンバラまでの道中はさぞかし気詰まりな時間になるだろう。

 ところが、暗澹たる予想に反して、モンゴメリは極めて愉快な道連れだった。虚飾を交えず自らの遍歴を披歴する彼の態度は好もしくさえあった。ピラミッドの一件でも分かるとおり、悪事を働く時、彼は普通の人間が抱くようなためらいや恐怖を感じぬらしく、教授の命じることは全て正義だ、とさえ信じている節がある。今まで手に染めてきた盗賊まがいの行為をまるで手柄話のように語る彼は、私とは全く違う価値観を持つ人間だった。

 無言の闘争を覚悟して乗った汽車の中、不覚にも私は、彼が語る冒険譚に心を奪われていた。

「世間じゃ俺は小悪党の類さ」

 教授との関係に話が及んだ時だった。モンゴメリはこんなことを言った。

「せいぜい評価されたところで、縛り首が関の山だ。だけどあの人は違う。やれ法律だ、社会規範だ、なんてしち面倒くさいお題目を抜きにして、純粋に俺の価値を認めてくれる。いや、認めてくれるっていうのとは違うな。俺という人間の価値を最大限に引き出してくれる。小さい頃から後ろ指を指されて生きてきたこの俺が、肩で風切って歩けるのはあの人のお陰さ。『教授』といると、自分は立派な人間なんだって思える。生きてるって実感を感じられるんだよ。

 あの人を悪く言う奴もいるが、そうじゃねえ。世間一般の価値基準が当てはまらねえってだけだ。もっとスケールの大きな人なのさ。そいつを理解する人間もたくさんいる。あの人を悪と言うなら、覚えておきな。悪には悪の信奉者がいるってことをな」

 平然とばちあたりを口にする彼の態度に後ろめたい様子はなかった。無知ゆえかと言えば、そうとも言いきれない。帆船を駆り、世界を見聞する彼には、広汎な知識があった。体系的なものではないにせよ、彼がその経験から吸い上げた知識は決して侮れない。彼は私の常識の及ばぬ世界の住人だった。

 その一方で、教授に傾倒する気持ちは私にも理解できる。そこに私は曰く言いがたい恐怖を覚えた。知らず知らずのうちに、私自身が悪に染まってゆくのではないかという恐怖を・・・。

 教授が悪を標榜しているわけではないことは分かっている。しかし、教授やモンゴメリには明らかに欠けているものがある。彼らの話を聞いていると、善と悪の間のはっきりとした境界が見えない。この二項対立があればこそ、人はよりよく生きようとするのではないか。教授が言うように、神が善も悪をも包含する存在であるなら、この世は混沌とならざるをえない。しかし、この世界はかろうじて秩序らしきものを保っている。秩序あらばこそ、人類は社会を築き、発展してゆくことができるのだ。そして、秩序とは善悪の対立の上に生じるものではないのか。人間は・・・、少なくとも普通の人間は、善の中に身を置きたいと願い、神を善なるものとして捉える。彼らに欠けているのは、そうした普通の人間が持つ感覚ではないだろうか。私が懸念を抱くのは、混沌を是とするかのような彼らの姿勢と、それを知りつつ教授に傾倒してゆく自分の心なのだ。


 スコットランドの大都エディンバラから南に少し下ったところにロスリンという村がある。この村の外れに十五世紀に建てられたロスリン礼拝堂という石造建築物がある。精緻な装飾の施された建物は建てられた当時そのままの威容を誇っているが、どこか打ち捨てられた観があり、中に入ってみると実際に礼拝堂として使われている様子はない。そこここに異様な石造が立ち並び、柱や壁には見慣れぬ模様が彫り刻まれている。キリスト教の聖堂というよりは、どこか異教の寺院のような風情が漂う。

 私たちは大扉の敷居を跨ぎ、不気味な礼拝堂の中に足を踏み入れた。

 そこがテンプル騎士団所縁の場所であることは、堂内を見渡した瞬間に直感された。あまり使われている様子はないが、さりとて完全に放棄されているわけでもない。入口の大扉は蝶番を軋ませながらもきちんと開き、窓のステンドグラスや床はきれいに磨かれている。誰か手入れをしている人がいるのだ。

「教授にどんな仕事を言いつかって来たんだい?」

 聖堂に響く私の声は、返事を求めてさ迷うように消えた。

 傍らを見ると、モンゴメリは魅入られたように辺りを見回している。私の声が耳に入ったのか入らなかったのか、彼は歩を進めて壁際の通路をゆっくりと歩き始めた。建物の構造やそこここに配された奇妙な石像を吟味するように・・・。彼が何を探しているのか分からなかったが、私は反対側の通路に進み、見たこともない装飾の施された柱や天井を眺めた。特に目を引いたのは、天井の片隅に彫られた人の頭像だった。頭に傷を負っており、何とも恐ろしげな顔で礼拝堂を見下ろしている。異教の情緒漂う礼拝堂の中で一際異彩を放つ像だ。


 どういう謂れがあるのだろう。


 私はしばし足を止めて、その頭像を見上げていた。

 その時、通路の奥にひょっこりと人影が現れた。

 小柄な老爺で、窓際に据えられた長椅子に腰かけていたのが見えなかったのだ。

「いつの間にか居眠りをしてしまったらしい。何か御用ですかな?」

 老爺はやぶ睨みの目で、不審げに私を見上げた。よそ者がここを訪ねてくることなど滅多にないのだろう。

「通りすがりの者です。珍しい建物だから、つい足を止めて覗いてみたんです」

 私は咄嗟に言い繕った。

「珍しい?まあ、よその人の目にゃあ珍しいだろうにゃ」

 老爺の返事は素っ気ない。

「やあ、すまんね、じいさん。仕事の邪魔をしたかい」

 こつこつと靴音を響かせながら、モンゴメリが近寄って来た。

「ルーカス・モンゴメリだ」

 モンゴメリが右手を差し出すと、意外にも、老爺は屈託なくその手を握り返した。

「オズワルド・ブランドですじゃ」

 互いの手を握る時、二人とも親指と小指を立てるような仕種を見せた。

 奇妙な握手だった。ともすれば見逃してしまうような些細なことだが、愛想のない老爺が握手に応じたことが、ふと私の注意を引いた。いずれか一方が見せた仕種なら気にもとめなかったろうが、二人ともが同じ仕種を見せたことが私の心に引っかかった。事前に示し合わせてでもいない限り、二人ともが同じ仕種をすることはないだろう。名前を名乗り合っていることから、二人が初対面であることは確かだ。となると、これは何かの合図に違いない。面識のない者同士が何かを確認する為の合図。つまり、自分がフリーメイスン、もしくはテンプル騎士団であることを相手に伝える合図ではないのか。

 私の憶測の正しいことはすぐに証明された。

「ちょいと教えてもらいてえんだが、この礼拝堂に地下室はあるかい?」

「ありますとも。そっちの隅っこに納骨堂へ下りる階段がありますじゃ」

 唐突なモンゴメリの問いに、今まで無愛想だった老爺がいとも気安く応じた。

 二人の気脈が通じたというよりは、相手の正体を確認できて安心したというところか。

 つまり、モンゴメリもまた彼らの眷族だということだ。

 胃の腑に鉛を詰められたように、私の足取りは重くなった。自分が離れたいと思っている世界にどんどん引き込まれてゆく。

 私たちは柱や石像の間をすり抜けて礼拝堂の奥へ進み、建物の角にぽっかりと穴を開けている地下への階段を下りた。階段を折りきったところに小さな納骨堂があった。オズワルド老人が蝋燭に火を灯し部屋を照らした。狭い空間に何体もの骸骨が裸のまま雑然と置き散らかされている。揺らめく明かりを受け、石壁に骸骨達の影が躍る。もはや誰のものとも知れぬ髑髏の目が、黄泉の国から呼びかけてくる。早くこちらに来い・・・と。

 モンゴメリは髑髏には目もくれず納骨堂を奥へ進み、部屋の隅にうずくまった。

「ここらへんにあるはずだが・・・」

 彼は石床に積もった土埃を払い、壁と床が交わる辺りをまさぐった。

 私はオズワルド老と視線を交わした。肩を竦めたところを見ると、老爺にもモンゴメリが何を探しているのか分からないらしかった。

「おい、じいさん。明かりを持ってきてくれ」

 モンゴメリは跪き、ほとんど額が床につくほどの姿勢で、後ろ手に手招きをしている。

 オズワルドは壁の燭台に火を移し、それを壁から外して、モンゴメリの背後から彼の手元を照らした。

 モンゴメリは壁面に沿って這いずり、床に散らばった遺骨を無造作に払いのけた。

 からからと乾いた骨が床をたたく音が部屋に谺する。

「あった。こいつだ」

 何かの印を見つけた彼は声を上げ、壁面の石組みのその印のついた石をぐっと押した。すると、壁面の最下部の掌ほどの大きさの石と共にその部分の床石が壁の向こうにずれた。

 納骨堂の隅の床に人一人が通れるほどの穴が現れた。

「へへ。色んな仕掛けを考えつくもんだ。こいつを考えた御仁にゃ、頭が下がるぜ」

 誰にともなく呟くと、モンゴメリは足から穴の中に飛び込んだ。

 姿が消えたかと思うと、穴からにゅっと手が伸びて、燭台を寄こせというように人差し指を立てて曲げ伸ばしした。

 オズワルド老がかがんで燭台を渡すと、

「来いよ、マーカス。道があらあ」

 穴の中から威勢のよい声が響いた。

 穴から漏れる光はすぐに消えて見えなくなった。モンゴメリは私を待つつもりなどないようだ。

 迷う暇もなく、私は穴に飛び込み、モンゴメリの後を追った。

 まっすぐに伸びる通路は床も壁も切石の石組みで、天井はやはり切石でアーチが組まれている。水平に梁を渡すより頑丈な構造で、地上の礼拝堂同様、相当の技術を持つ熟練工の手になるものと推察される。おそらく同じ人間が設計したのだろう。となると、この抜け道は最初から建造物の一部として構想されていたことになる。礼拝堂を建てたのがテンプル騎士団だとしたら、それも頷ける。彼らはカトリック教会の弾圧を逃れてこの地にやってきた。スコットランドの貴族たちが彼らを庇護していたとしても、彼らには身を隠す場所が必要だったはずだ。もし彼らが異教徒であったなら、尚更だ。いや、この隠し通路の存在そのものが、彼らが異教徒であったことの証しではないのか。

 通路は所々天然の洞窟と繋がり、迷路のように入り組んでいた。

 私たちは洞窟の奥へは入らず、人の手になる石組みの通路のほうを選んで進んだ。そうして右へ折れ左へ折れ、階段を降り、また上り、どれほど進んだであろうか。かなり地中深くまで来たに違いないと思われた頃、驚いたことに、通路の壁面に窓が嵌められている場所に出た。嵌め殺しの窓はガラスが分厚く頑丈なものだったが、外を見通すことができた。

 服の袖でガラスにこびりついた汚れを擦ると、外に広大な森を見渡すことができた。どうやらそこは地面の下には違いないが、思っていたほど地中深くではなく、私たちは断崖の岩肌に穿たれた穴から外を眺めているのだった。

「北エスク峡谷ですじゃ」

 後ろで声がした。

 礼拝堂の守人は、ずっと私たちの後ろをついてきたらしかった。

「じいさん、この場所を知っていたのかい?」

 モンゴメリが振り向いて尋ねた。

 オズワルド老は頭を振った。

「うんにゃ、この通路を通るのは初めてですじゃ。じゃが、峡谷を歩けば、絶壁に穿たれたこの飾り窓を外から見ることが出来ますじゃ。若い頃から、どうやってこの場所にたどり着くのじゃろうと不思議に思うとりました・・・」

「一体何なんだ、ここは?」

「もうお分かりのはずではござらんかの」

 答えをはぐらかす老爺の目が妖しく光った。

「あの礼拝堂を建てたのは何者ですか?」

 質問の切り口を変えて私が問うと、オズワルドはしげしげと値踏みをするような目で私を見つめた後、ようやく答えた。

「勿論、我らがご先祖の石工(メイスン)たちですじゃ。資金を工面したのはシンクレア家のお殿様じゃと聞いとります」

「シンクレア・・・?」

 シェリルと同じ名字だ。

 私は動揺を禁じえなかった。奇妙な親近感を覚えると同時に、またしてもあの底知れぬ陰謀の渦に飲み込まれてゆく感覚に襲われた。シェリルとの距離が縮まった気はするが、それは決して私が望んだ形ではない。

 テンプル騎士団とは一体何なのだ?

 私の頭に疑問が渦巻いた。

「あの礼拝堂に祀られているのは?」

「キリスト教の礼拝堂らしからぬ・・・。そう仰るのですな?」

 老爺は私の問いの意図を読み、にやりと笑った。

「それがこの土地の複雑なところでしてな。人々の信仰は純粋にキリスト教の教義に準じているとは言いがたい」

「つまり?」

「つまり・・・、まず土着のケルト信仰の影響が色濃く残っとります。また、遠く東方よりもたらされた異教の気配も感じられます」

「テンプル騎士団が十字軍遠征から持ち帰ったものですね?」

「皆まで言わせますな」

 老爺は頭を振り、言明を避けた。『テンプル騎士団』という言葉そのものが禁忌(タブー)であるかのように・・・。

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