秘密の詩
詩の書き出しには数日を要した。
図らずも、それはこの上なく楽しい時間となった。
ちょうどクリスマス休暇中だったこともあり、私は教授の家に入り浸り、一日のほとんどをシェリルと二人で過ごした。人前では遠慮がちな彼女も、教授のお墨付きを得た上での仕事となれば、拒む理由もなかった。病気の私を看病して以来、二人きりの時には心を許してくれるようになっていた。不思議なもので、普段近くで接する機会が多いほど、心の距離も近くなる気がした。
私が口述するヘブライ語を紙に書き取ってゆく彼女の姿を眺めながら、私は不思議な思いに駆られた。作業に勤しむ彼女を愛おしく思う一方で、彼女がどこか別の世界にいるような気がしたのだ。正確を期すなら、口述筆記をする私とシェリルを、どこか別の場所からもう一人の私が眺めている、といった感じだ。二人を見守るもう一人の私は、今の二人の関係が続くことを願っているが、いつかそれが壊れてしまうことを知っており、その時が来るのを恐れている。それはいくら振り払おうとしても振り払うことのできない感覚だった。
さて、詩の中身についてだが、筆記を続けながら所々シェリルが翻訳をしてくれた。
それは文字通り謎めいた散文であったり、東西南北といった方位を表す言葉、上下左右といった主観的な位置を表す言葉、はたまたそれだけでは意味をなさぬ数字と文字の組み合わせなどであった。
「どこかの場所や暗号を解く手がかりを示しているみたいだけど、この詩からだけでははっきりとした情報は読み取れないわ」
「なるほど。父が言っていた通りだ」
「お父様は何て仰っていたの?」
「ガレット家に伝わるのと同じ様な秘密が他の家にも受け継がれていて、それらを組み合わせることで初めて謎が解ける。そんな話だったよ」
「他の家というのはテンプル騎士団に連なる系譜のことね」
「ああ、そうだと思う」
私が答えると、シェリルはしばし考えに沈んだ後、口述を続けるように私を促した。
口述筆記を始めて三日目のこと、詩の一説に『シンクレア』という言葉が出てきた。
シェリルの本当の名字だ。
人の名前らしきものはたくさん出てきたので、私は大して気にも留めなかった。シンクレアという名字はそう珍しいものではない。しかし、私の口からこの名前が出た瞬間、ペンを走らせるシェリルの手が止まった。
そのまま筆が進まないので、私も口述を中断した。
「シンクレアというのは君の本名だね」
私は尋ねた。
よもや彼女がテンプル騎士団の秘密に関与しているなどということがあるだろうか。
シェリルは言葉を口にしかねるように唇を噛んだ。
「何か気になることでもあるの?」
首を横に振るかと思いきや、彼女は小さく頷いた。
「あなたに話しておかなければならないことがあるの」
まるで罪の告白でもするかのように、彼女はおずおずと話し始めた。
「私の家にも古くから伝わる詩があるの」
やはり。
私は胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。
「ということは、つまり・・・、君もテンプル騎士団の末裔・・・」
シェリルはこくりと頷いた。
「今まで黙っていて、ごめんなさい」
「いや・・・」
謝られる筋合いはないが、それは私にとって大きな衝撃だった。
「教授はこのことを・・・?」
「知っているわ。私がここにいることも、教授があなたを助手に選んだことも偶然なんかじゃない。みんな教授の計画の一部なのよ」
私は唖然として、しばらく口をきくことができなかった。
では、父に恩を返したいと言った教授の言葉は何だったのか。あれは私から秘密を聞き出すための方便だったのか。
「あなたの気持ちは理解できるわ。でも、教授のことを悪く思わないで。教授の動機は純粋なものよ。知識を追い求める余り、秘密の虜になってしまっているのよ」
「本当にそうだろうか」
「え?」
ぼそりと呟く私に、シェリルは怪訝な眼差しを向けた。
「教授を突き動かしているのは、単なる探究心だけなんだろうか。教授はこの秘密の裏にあるものを知っているんじゃないかな」
「秘密の裏にあるもの・・・」
シェリルはその意味が理解出来ないというように、私が口にした言葉を繰り返した。
「秘密を解き明かすことには、何か別の目的があるんじゃないかってことさ」
「それは・・・」
シェリルは戸惑った表情を見せた。
「それは分からないわ。でも、教授は私たちに害意を抱いているわけじゃない」
それはその通りだ。
秘密がどんなものであれ、シェリルや私が失うものはない。それが隠された財宝のありかを示すものなら、むしろ私たちに益することだ。特に家を失ったシェリルにとっては、失地回復の足がかりとなるだろう。しかし、これまで明らかになっている事実を総合すると、フリーメイスン、あるいはテンプル騎士団が時代を超えて守ってきたものが単なる宝物の類だとは思われなかった。
ならば教授と同じ側に立って秘密を解き明かしてやろう。
私自身はそういう気持ちになった。その気持ちの裏には、催眠術などという常軌を逸した手段で秘密を受け継いでゆく組織のやり方への反発があった。親子の間に強いられるそのような非人間的な行為に対するうす気味悪さが、ずっと私の心にこびりついていた。それを拭い去ってくれるのならば、教授こそ私が恩人と呼ぶべき相手ではないか。
「ところで、テンプル騎士団の秘密は男子にのみ受け継がれるって聞いたけど」
心の整理がつくと、今度はシェリルのことが気になった。どんなに親密になっても、彼女は依然として謎多き女性だった。
「私の父は・・・」
シェリルはふと悲しげに視線を落とし、話し始めた。
「・・・父は、賭け事とお酒に溺れて身を持ち崩したの。不摂生がたたって病気になったときには余命幾許もない状態だったわ。お医者様に不治の病を宣告された日、私を枕元に呼んで我家にまつわる秘密を打ち明けてくれた。
シンクレア家がテンプル騎士団に連なる家系だということ。
テンプル騎士団には組織として守っている秘密があり、我家はその秘密の一部を受け継いでいること。
慣例には反するけど、他に子供がいないので女である私に秘密を伝授すること」
確か、男子の跡継ぎがいない場合、テンプル騎士団に列する他の家から養子を迎えるという決まりがあったのではなかったか。組織の課す掟は慣例として退けられるほど軽いものではないはずだ。
そのことを尋ねてみると、シェリルはこう答えた。
「その頃の父は、もうテンプル騎士団に対する忠誠心を失ってしまっていたの。口を開けば、『騎士団はシンクレア家を見捨てた』なんて恨みごとばかり。家が没落したのは自分のせいなのに・・・。
それでも父が私に秘密を伝授したのは、こう考えていたからだと思う。
シンクレア家の再興が叶うとしたら、この秘密の故だって。どこの馬の骨とも分からない他家の人間に秘密を委ねたら、その夢は断たれる。それを託すことができるのは、唯一同じ血を分けた私だけだって・・・。
父なりに考えた末の決断だったのでしょう。でも、そんな思いがあるなら、もっと早くに生活を改めてほしかった・・・」
亡くなった親を責める彼女の口は重かった。
しかし、ようやく今、私はシェリルの真情を理解できた気がした。
彼女は亡き父親の遺志を継ぎ、シンクレア家の再興を果たそうとしているのだ。そして、その彼女の後ろ盾となっているのが『教授』で、彼女が教授に厚い信頼を寄せているのはそのためだったのだ。
私は椅子の上で俯くシェリルの肩に手を置いた。
シェリルは救いを見出そうとでもするように私を見上げた。
「僕も力になるよ。教授と一緒に騎士団の秘密を解き明かそう」
シェリルは頷き、目に浮かんだ涙を指で拭った。
「君の家に伝わる詩と僕の家に伝わる詩、二つを繋ぎ合わせれば何か分かるのかな?」
口述筆記を終えた後、私はシェリルに尋ねてみた。
シェリルは頭を振った。
「詩そのものが暗号みたいになっているのよ。言葉が分かるだけじゃ謎は解けない」
「そう簡単には行かないか」
「ええ。それに、他にも秘密を受け継いでいる家があるんでしょう?まだ、やっとパズルの断面が一つ合わさったというところね。これを翻訳して教授に分析してもらわなくちゃ」
「教授はどのくらい秘密を解明しているんだろう」
「さあ。私たち以外からも情報を得ているみたいだけど・・・」
「でも、ヘブライ語の翻訳が必要な時には君に頼むはずだろう?」
「いいえ。今回はたまたま手近に私がいたというだけ。それに秘密の持ち主があなただったから・・・」
え?
それは教授が私とシェリルの関係を認めているということだろうか。いや、今のはシェリル本人の失言だろう。
私の視線に気付くと、シェリルはばつが悪そうに目を逸らした。そして、取り繕うように付け加えた。
「とにかく、教授が知っていることを全て私に教えるはずがないわ」
「君は信用されていないってこと?」
「ううん、そうじゃなくて、教授はたくさんの情報源を持っていて、あなたや私はその一つに過ぎないってこと。教授の周りには蜘蛛の巣のような情報網が張り巡らされていて、中心にいる教授には様々な情報がもたらされる」
蜘蛛の巣とは上手いたとえだ。
「情報を総合できるのは教授だけってわけか」
シェリルは頷いた。
「教授にとってはフリーメイスンさえも情報源の一つに過ぎないのかも知れない」
なるほど。組織が教授を危険視しているのも、あながち由なきことではないのかも知れない。
そう考えると、私は胸のすく思いがした。巨大組織をも手玉に取るその手管は見事という他ない。危険な生き方には違いないが、教授の壮大な構想は若い私を魅了した。
「フリーメイスンでは『王者の親方(ロイヤルマスター)』という称号を得ていると教授は言っていたよ」
「組織の中での位階ね」
「高い位階へ進むほど、組織が秘匿する高度の秘密が明かされる・・・とも」
「教授にとって組織からもたらされる情報は貴重なものでしょうね。組織も秘密を受け継いでゆく人間が必要だから、互恵関係が成り立っているのね」
「テンプル騎士団の秘密ってどんなものなんだろう」
私にしてみれば、目の前にぶら下がった人参を食べられない馬の心境だった。
「フリーメイスン内で騎士団が果たしている役割自体も不明ね。何しろ秘密だらけの組織だから、外から見ただけじゃ何も分からないわ」
結局、秘密の解明は教授に任せるしかないということか。
私自身、自分を組織の人間と言ってよいのかどうかも判然としなかった。組織との繋がりと言えばテンプル騎士団の家に生まれついたことだけで、お前はフリーメイスンかと問われれば、むしろ自分は部外者のような気がした。
それはシェリルも同じだろう。
ただ、私にはテンプル騎士団やフリーメイスンとの関わりが忌まわしいもののように思えてならなかった。
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