決闘

 訃報が届いたのは、クリスマス休暇が始まる少し前だった。

 知らせてきたのは姉だった。

 学期末の試験の最中だったが、私は電報を受け取ると、取るものもとりあえず故郷のノッティンガムを目指した。気は急いたが、不思議と悲しいという気持ちは湧いてこなかった。何事につけ精力的で、生きることに対して一切の妥協を許さなかったあの父が亡くなったという実感はまったくなかった。それよりも私を驚かせたのは、実家に母の姿がなかったことだ。むしろその事実が私を狼狽させた。


 本来喪主を務めるべき母が姿を消したとはどういうことだ。もしかして、父の死に母が関係しているのか。


 混乱する頭に、言葉にするのもおぞましい憶測が浮かんだ

 邸で私を出迎えたのはケイトだった。

 悲しみに打ちひしがれた様子の姉に、私はかける言葉が見つからなかった。父と姉は端で見ていても微笑ましくなるほど仲のよい父娘だった。姉は心の底から父を敬愛し、父は眼の中に入れても痛くないほど姉を可愛がっていた。二人は父と娘のあるべき一つの理想を築き上げていた。

 父を敬愛していたことは私も同じだが、私は父に対して姉のように素直にはなれなかった。男親に対する対抗心もあった。大学進学の件で揉めたことも尾を引いていた。その上、幼い頃に催眠術まがいの暗示をかけられていたことが、父との間の溝をさらに深いものにしていた。

 しかし、それだけに父と疎遠になっていたことが悔やまれた。親に対して素直になれないのは、要するに子供の甘えでないか。父が私にしたことは我家のしきたりで、何も害意があってのことではない。父が姉と同様に私を愛してくれていたことはまぎれもない事実だ。それに応えることができなかったのは私のほうなのだ。

 父の死に対して、姉は悲しみを、私は後悔を噛みしめていた。姉弟でありながら同じ気持ちを分かち合えぬことが、互いにかける言葉を失わせた。

 父は寝室のベッドに寝かされていた。

 その穏やかな死に顔を見たとき、初めて私の胸に熱いものがこみ上げてきた。

 思い返せば、子供の頃、父はよくわたしたちと遊んでくれた。休日には家族皆で森へピクニックへ出かけたものだ。父は乗馬が得意で、父の駆る馬に一緒に乗せてもらうのが私は大好きだった。父は小さかった私を鞍の前部に乗せ、両脇から支えてくれた。たくましい腕に抱かれて世界を見下ろすとき、私はこの世に何一つ恐れるものなどないと思えた。その気持ちはそのまま父への誇りとなった。

「泣いてもいいのよ」

 姉の言葉にふと我に返ると、私は長い間口もきかずにじっと父の亡骸を見下ろしていた。

「別に我慢してるわけじゃないよ。思い出していたのさ」

「昔のことを?」

「ああ」

「どんな?」

「色んなことさ。ところで、父さんはどうして亡くなったの?」

 なぜかしんみりと思い出話をする気にはなれず、私は話を逸らせた。

「殺されたのよ」

「え・・・?」

 平淡な姉の声に、私は抑えきれぬ憎しみを読み取った。

「どういうこと?」

 姉が堪えていた感情を爆発させるのではないかと、私はおそるおそる尋ねた。

 こんなときぐらい感情をぶつけ合ってもよさそうなものだが、おかしなもので、人間は普段の習慣からなかなか抜け出せないものらしい。

 もう涙も涸れ果てたというように溜息をつくと、姉は父の死の経緯を語り始めた。

 

「見ろ、ケイト。昼間から賭博に打ち興じるあのだらしない姿を」

 サミュエルの視線の先には、見るからに品のいい貴顕の若者の姿があった。

「グラハム子爵だと。爵位など名ばかりの見下げ果てた男だ。放蕩の挙句、持って生まれた資質を腐らせ、親から受け継いだ財産まで食いつぶす。あの手合いがいずれ身を持ち崩すことは目に見えている」

 憎しみのこもった目で若者を見つめる父の横顔を、ケイトはちらりと見やった。


 いつもの父らしくない。


 サミュエル・ガレットは、どんな相手だろうと他人を悪しざまに罵るような人間ではない。プライドの高さ故に品位を落とすような言動は慎むのが常であった。規律と節度を重んじる父が憎しみを目にたぎらせ、感情に任せて言葉を吐く姿など、ケイトはついぞ見たことがなかった。

 酒が入っているせいだ、などと言い繕うこともできぬほどに、今日の父は禍々しい空気を纏っている。

 亡くなる二週間ほど前のことだった。ケイトはサミュエルに連れられてリンカーン郊外のさる貴族の邸を訪れた。新聞社の取材という触れ込みだったが、目的が仕事でないことはすぐに知れた。邸は賭博場になっていて、中では暇を持て余した身なりのよい男女がカードゲームやルーレットに興じていた。どこから手に入れたのか、サミュエルは招待状を取り出して執事に渡すと、広間の一隅に設けられたテーブルに座を占めた。慣れぬ場所へ来た居心地の悪さを噛みしめながら、ケイトは父の向かいに腰かけ、上流社会の退廃とそれを糊塗する上辺ばかりの贅と優美を眺めた。

 盆に載せて運ばれてきたシャンパンのグラスを取ると、サミュエルは一息にそれを飲み干した。

 空いたグラスはすぐに下げられ、間をおかずまた新たな酒が運ばれてきた。

 何度か同じことを繰り返す父を、ケイトは気遣わしげに眺めた。

 酒は嗜むが、定めた量を超えて飲むことはない。自らに課したルールは決して破らないのが普段の父だった。

 今日の父はいつもと違う。

 シャンパンでは飽き足らず、サミュエルはついにウイスキーを注文した。

 日頃縁のない賭博場に足を運び、飲みつけぬ酒を呷る。

 何か理由があるはずだった。

 ケイトは辛抱強く父の様子を見守った。

 そのうちに、ケイトは父の視線がある男の姿を追っていることに気づいた。

 ケイトが自分の視線を追っていることに気づくと、サミュエルは悪口雑言を吐き始めたのだった。

 一見したところ、ハンサムで感じのいい青年だった。賭博などといういかがわしい世界とは無縁の、純真無垢な若者。そんな外見とは裏腹に、彼はこの賭博場の雰囲気にすっかり馴染んでいる。周りの人たちと談笑しながら、慣れた手つきでカードをめくる。仕種の一つ一つが洗練されていて、賭博という浅ましい行為がまるで高尚なもののように見えてしまう。それほどに彼の立ち居振る舞いは自然なものだった。

「あの方がどうかしたの」

 好奇心に駆られて、ケイトは尋ねた。

 サミュエルは苦虫を噛み潰したような顔で、ケイトを一瞥した。

「母さんの不倫相手だ」

 父が呟いた言葉を理解するのに、ケイトは数瞬の間を要した。

「え・・・?」

「信じられんだろうが、事実だ。裏は取ってある」

 サミュエルはケイトの反論を封じた。

 ケイトは両手を口元に当て、まじまじと父の顔を見つめた。

 こんな私的な問題に対しても、新聞記者の習性を覗かせる父が憐れであった。

 おもむろに立ち上がる父の袖を、ケイトは反射的に掴んだ。

「お父様、何をなさるつもり?」

「心配するな。こんな所で騒ぎを起こしたりはしない」

 纏いつくケイトの手を、サミュエルは優しく振りほどいた。

 グラハム子爵のいるテーブルへつかつかと歩み寄る父を、ケイトは呆然と眺めていることしかできなかった。

 サミュエルがブラックジャックのテーブルの横に来ると、ゲームに興じていた男たちの視線が彼のほうへ注がれた。

「お客様、ゲームに参加なさいますか?」

 ディーラーの問いかけを無視して、サミュエルは手に嵌めていた白い手袋を脱ぐと、グラハム子爵の目の前にたたきつけた。

 それが古式に則った決闘の申し込みであることを、ケイトは後になって知った。

「私に何か御用ですか?」

 憤怒の形相で登場した闖入者に目を丸くしながら、グラハムは礼儀正しく問うた。

「ガレット伯爵だ」

 顔に表れた表情とは裏腹に、サミュエルの口から出た声は低く抑えられていた。

 一言で事情を察したグラハムは、目の前の白い手袋とそれを叩きつけた人物を見比べた。そして、落ち着き払った様子でディーラーに目配せし、ゲームを続けるよう促した。

 ディーラーはサミュエルのほうに視線を走らせながら、躊躇いがちにカードを配った。

「日時と場所は?」

 何食わぬ顔でカードをめくりながら、グラハムは尋ねた。

「二週間後の正午、ノッティンガムの邸裏の森で」

 サミュエルが告げると、グラハムは彼のほうを見もせずに頷いた。

「うちの邸は知っているだろう。付添い人を一人連れてきたまえ」

 用件を伝えると、サミュエルはケイトのいるテーブルに戻ってきた。

 立ったままグラスに残ったウイスキーを呷る父を、ケイトは心配げに眺めた。

 今しがたの落ち着いた対応を見ても、グラハムがただのギャンブル狂いや間男の類でないことは明らかだった。その地位にふさわしい威厳と教養を持ち合わせている。

 二人を見比べた時、動揺を隠せぬ父のほうが分が悪いように見えた。

 この相手はただ者ではない。

 ケイトの直感がそう告げていた。


「もっと強くお父様を止めるべきだったわ」

 いや、どれほど強く止めたとしても、父が聞き入れなかったであろうことは、ケイトにも分かっているはずだ。しかし、父が亡くなった今、湧き上がる後悔を抑えることが出来ぬのだろう。

「その男、知ってるよ」

 慰めの言葉も思いつかず、私は告げた。

「収穫祭の夜、舞踏会で母さんと踊ってた」

 ケイトはぼんやりと私の言葉を聞いていた。今さらそんなことを聞いても何の役にも立たない。なぜそんな話をするのか、とでも言いたげに・・・。

 私にも分からなかった。

「ただの優男に見えたけどな」

 気休めにもならぬ自分の言葉が空しかった。

「いいえ、グラハム子爵はきちんと訓練を受けた騎士だったわ」

 姉は話の続きを始めた。


 約束の日、ガレット邸は邸を囲む森ごと銀世界に呑まれた。

 邸裏から続く小道の先にある小さな空き地に、時間どおりグラハム子爵は現れた。付添い人を一人連れている。

 サミュエルの側の付き添いはケイトだった。決闘という血生臭い行為に女を付き添わせるのは異例のことだが、これはサミュエルのたっての希望だった。グラハムはガレット家を崩壊に導いた、言わば一族の敵である。この決闘は家名をかけた戦いなのだ。

 一方のケイトは、ことの解決をこんな野蛮な方法に委ねるのは気が進まなかった。

 イギリスの法律では決闘はとうの昔に禁止されている。そもそも決闘で解決する問題ではない。

 ケイトがどう諌めても、サミュエルは、

「これは法の問題ではない。名誉の問題だ」

 の一点張りだった。

 賭博場での一件があった後、サミュエルとケイトがノッティンガムに戻った日の夜、デイジー・ガレットは邸を出て行った。雪の降る寒い夜だった。夫婦の間でどんな話があったのかは分からない。ケイトとは一言も交わすことなく、母は出て行った。別れ際の母の目は、ケイトに詫びているようでもあり、ことの顛末を悲しんでいるようでもあった。

 サミュエルはただ付き添いに立ってほしいと言う以外何も話さなかったが、これが母を取り戻す為の決闘でないことは察せられた。となると、この決闘はグラハムへの復讐であると同時に、父を、ひいては一族を裏切った母への復讐でもあるわけだ。父が決闘をやるという以上は、自分が付き添いに立つのは子としての務めだと思った。

 マーカスにことの次第を伝えることは、サミュエルが禁じた。

「あれはまだ子供だ。私に勘当されたと思っているようだが、誤解を解くのに少し時間がかかる。今回のことは、いずれ折を見て私から話す。お前からは何も言うな」

 その話しぶりからすると、はなから自分が負けるという筋書きはないようだ。

「でも・・・」


 本当にそれでよいのか。


 父の見通しの危うさがケイトを迷わせた。

「今はだめだ。いいな、ケイト」

 力ずくでも父を止めたい思いはあった。マーカスが来てくれれば力になってくれる、という思いも心を掠めたが、息子を巻き込みたくないという父の気持ちも理解できた。事情を知れば、直情的なマーカスがどう動くかも予想できない。葛藤の狭間で時間だけが過ぎ、ケイトは今日という日を迎えたのだった。

「あの男、信用できるの、お父様?」

 ケイトの視線の先にいるのはグラハム子爵ではなく、決闘の審判をする立会人の男だった。

「テンプル騎士団から送られてきた人物だ。間違いはない」

「テンプル騎士団?」

「ああ、まだ話していなかったな。この決闘は騎士団の監視の下に行われる」

「相手は承知しているの?」

「運命の悪戯と言うべきだろう、グラハム家もまたテンプル騎士団に名を連ねる一族なのだ。あの若者、人物はともかく、家柄に恥ずべきところはない。名前を聞いたとき気づくべきだった」

「なら、ガレット家とは仲間ということでしょう?この決闘、中止には出来ないの?」

「いや、仲間内であればこそ、我が家の名誉を汚したことは許せない。騎士団も私の主張を認めた。だから、公式の立会人を送って寄こしたのだ」

 つまり、これはテンプル騎士団公認の決闘ということになる。それにしても、グラハム子爵がテンプル騎士団の末裔だというのは単なる偶然だろうか。たとえ父が勝ったとしても、後々禍根を残すことになるのではないか。

 そんな懸念がケイトの心をよぎった。


 決闘の刻限が来た。

「決闘者はここへ」

 立会人が告げると、サミュエルとグラハムは新雪の積もった空き地の中央へ進み、互いに一歩ほどの距離で対峙した。雪は二人の膝下まで達している。

「サミュエル・ガレット、アーサー・グラハム。この決闘が、汝ら二名の合意の下に行われること、相違ないか」

 二人の決闘者は相手を見つめたまま厳粛に頷いた。

「ではこれより、テンプル騎士団の作法に則り、決闘を開始する」

 立会人が背後の雪面に置かれた紫色のビロードを広げると、二振りの抜き身の剣が現れた。二本とも両刃のロングソードで、鍔が鉤状になっている。両手用の重い剣だ。古の戦闘で鎧兜ごと相手を叩き斬るための武器で、生身で使用すれば一撃が致命傷となる。

 決闘者の二人は立会人に促されて二つの武器を確認した。重さも寸法も同じで、両者に優劣の差はない。

「アーサー・グラハム。決闘を受諾した君が先に剣をとりたまえ」

 グラハムが剣を選んで後ろへ下がると、サミュエルは残った剣を取った。

 人の手に収まると、二振りの剣は生気を帯びたように不吉な光を放った。

「勝敗は決闘者のいずれかの死をもって決する。ただし、勝敗の帰趨が明らかとなった場合、勝者は敗者に対し助命の権を有するものとする。決闘者の生死について、立会人は一切関与しない」

 ルールが説明される中、立会人を挟んで立つ二人の剣士はすでに剣を構えていた。

「付添い人の手出しは無用」

 立会人は二人の間で赤いハンカチを投げ上げ、後ろへ身を引いた。

 真紅のハンカチが真っ白な雪面に触れた瞬間、二人の剣士は互いに剣を握り締めて前へにじり出た。

 重いロングソードによる決闘は小一時間にわたって繰り広げられた。剣と剣がぶつかり擦れ合うたびに火花が散り、何十回、何百回と繰り出される斬撃の果てに刃がこぼれ、剣は刃物としての用を失っていった。

 サミュエルの剣さばきは訓練に裏打ちされたものだった。ケイトは父がいつどこでそのような技術を身につけたのか知らない。おそらくは若い頃の修練の賜物だろう。決闘という暴挙にも、父なりの勝算があったのだ。そう思えるほど見事な戦いぶりだった。

 もしサミュエルの側に誤算があったとすれば、グラハム子爵もまた訓練を受けた騎士だったことだ。ロングソードという大時代的な得物を、グラハムは見事に使いこなした。

 二人の剣技はほぼ互角。膂力にも差はなかった。ただ、時間が経つにつれ、勝負の天秤は若さに勝るグラハムに傾き始めた。

 足の動きを封じる深雪は、決闘が長引くほどぬかるみ、決闘者の体力を奪った。そして、より消耗が激しいのは年上のサミュエルのほうだった。いかな達人といえど、年齢ばかりは如何ともしがたい。延々と打ち続く剣戟も、サミュエルが守勢に回ることが多くなった。打つよりも受けるほうが体力を消耗するのは物の道理で、一旦受けに回ると、目に見えてサミュエルの分が悪くなった。

 そしてついに、グラハムの放った一撃がサミュエルの剣を弾き飛ばした。弾け飛んだ剣は二人から数メートル離れた雪の中に埋もれた。

 剣の行方を見届けたサミュエルは、呆然として空になった両手を見つめ、それからグラハムに視線を移した。

 グラハムは剣を水平に構え、サミュエルの喉元に突きつけた。

「敗北を認めるか」

 グラハムの問いに、サミュエルはただ真っすぐに相手を見つめ返すばかりだった。

「敗北を認めるか」

 永遠とも思える沈黙の後、グラハムは再び問うた。

 声が上ずっていた。

 サミュエルは答えない。ただ静かに相手を見つめるだけだった。

 その沈黙にむしろグラハムのほうが気圧されているように見えた。彼の握る剣の切っ先がかすかに震えている。

「あなたの負けだ・・・。跪け・・・。命乞いをしろ・・・」

 自らの動揺を糊塗するかのようにグラハムは語気を強めた。

「決して・・・」

 ついに言葉を発したサミュエルは、静かに相手を見つめたまま前へ進み出た。

 剣の切っ先がサミュエルの胸に触れた。

 彼は自らが挑んだ勝負に決着をつけようとしているのだった。勝負の結果がどうあれ、妻を奪い、彼の誇りを傷つけた相手に膝を折ることは決してしない。この決闘はサミュエル・ガレットが名誉に殉じるための戦いだった。

 グラハムは大きく息を呑んだ。

 男として勝負を受けた以上、彼にも退路はなかった。

 アーサー・グラハムは剣の切っ先に力を込め、サミュエル・ガレットの胸を真っすぐに刺し貫いた。


「お父様」


 ケイトの叫びと、くず折れるサミュエルの体。両方ともが降り積もった雪に呑まれた。

 ケイトはぬかるんだ雪に足を取られながらも倒れた父のもとへ駆けつけ、跪いてその頭を胸に抱えた。

 傍らには血の滴る剣を握り締めたアーサー・グラハムが立ち尽くしている。

「お父様・・・」

 ケイトは父の耳元に囁きかけた。

「ケイト・・・」

 サミュエルは娘の手を求めて右手を差し上げた。目は焦点が定まらず、呼吸は乱れている。

「ここにいるわ」

 ケイトはこみ上げる嗚咽を飲み込み、父の手を取った。

「よく聞きなさい」

 サミュエルは息も絶え絶えに言葉を絞り出した。

「マーカスに・・・、マーカスに伝えてくれ。我が家の誇りを忘れるな・・・と。私がやってきたこと、我が一族が伝え受け継いできたことには意味がある。その意味がいつか分かる時が来る。父を信じてくれ・・・と」

 ケイトは父の頭を胸に抱き、何度も頷いた。

「今日のことは私の不覚であった。よもや自分の仕掛けた決闘に敗れるとは・・・。家名の傷を雪ぐことはできなかったが、結果は結果・・・。受け容れるほかない。母さんのことを恨まないでくれ。ただ、このことの裏には隠された事情がある。マイクロフト・ホームズという人を訪ねるのだ。彼ならば、きっと、お前達の身を守ってくれる・・・」


「マイクロフト・・・ホームズ?」

 聞いたことのない名だった。

「何者だい?」

「分からないわ」

 姉は首を振った。

「父さんの古い知り合いかな。だったら、僕らも会ったことがあるかも知れない」

 二人が子供の頃、父にはたくさんの来客があった。父に連れられて行った先でも多くの人と出会っている。

「いいえ。うちに来たことがある人なら、ノートンが知っているはずよ」

「忘れているだけかも知れないよ。父さんを訪ねてくる客は多かったし・・・」

「他の使用人にも聞いてみたけど、誰もその名前には心当たりがないって」

 ここ数年父のそばにいた姉が知らないとなると、手がかりは乏しい。しかし、姉も四六時中父と行動を共にしていたわけではない。

 父には我々の知らない別の顔があった。

 私にはその確信があった。


 生前父が私たちに語ったガレット家とテンプル騎士団の関わり。

 父が幼い私に仕掛けた催眠術。

 父とグラハム子爵との決闘を取り仕切ったのがテンプル騎士団だという事実。


 これらを考え合わせると、私たちの知らない父の一面に、テンプル騎士団の影が浮かび上がる。

「鍵はテンプル騎士団だな」

「私もそう思うわ」

 姉は頷いた。

「決闘の立会人には聞いてみたのかい?」

「いいえ」

「どうして?」

「敵か味方か分からなかったからよ。あの人・・・、ゴドフリー・スチュワートとかいういかめしい名前だったけど、お父様が亡くなった後の始末を全部つけてくれたの。グラハム子爵を去らせて、動顚している私を邸まで送り届けて、お父様の遺体を森に取りにやらせて、お医者様の手配までしてくれた。それもうちのかかりつけじゃなくて、テンプル騎士団御用達の医者だった。だから、死亡診断書ではお父様は事故で亡くなったことになってる」

「手際がよすぎるな」

「決闘は法律を犯す行為だから、表沙汰になれば一家の不利益になるって・・・」

「そうかな。実際は、グラハム子爵を庇うためじゃないのか」

「そう思うでしょ。息を引き取る間際にお父様はこう言ったの。このことの裏には事情がある、って」

「父さんがテンプル騎士団に謀殺されたってことかい?」

「ううん、考えすぎかも知れないけど・・・。結局、決闘を申し込んだのはお父様の方だし・・・」

 姉は確信のない顔で首を振った。

「いや、姉さんの言うとおりだ。テンプル騎士団は信用できない」

「じゃあ、どうするの?テンプル騎士団を頼れないんじゃ、手がかりが遠のくばかりよ」

「他を当たるしかないな」

「お母様に聞いてみるとか」

 姉は思いつきを口にした。

「ばか言えよ。僕らを捨てた女だぞ」

「そんな言い方しないで。私たちのお母様よ」

 姉は悲しげに諭したが、私の脳裏にはグラハム子爵と踊る母の姿が浮かんだ。

「あの女と会うのも、口をきくのも、金輪際ごめんだね」

 頑なな私の言葉に姉は沈黙した。

 しばらくじっと父の死に顔を見つめた後、再び姉が口を開いた。

「マーカス、変なことを考えないでね」

「変なこと?」

「お父様の仇を討とうなんて・・・」

「姉さん。父さんは殺されたんだよ」

「でも、復讐したからって、お父様は帰ってこないわ」

「生きていても帰ってこない人もいるさ」

 母への当てこすりを言ってみても姉を悲しませるだけだ。そんなことは分かっていたが、やるせない気持ちをぶつける相手が他にいなかった。唯一残った身内に対する、それは私の甘えだった。

「安心しなよ、姉さん。グラハム子爵に決闘を申し込むなんてことはしないさ」


 復讐の方法は他にもある・・・。


 私が飲み込んだ最後の言葉が聞こえたかのように、姉は心配そうに私を見つめた。

 とにかく今は私たちの周りに立ちこめた靄を晴らさねばならない。

 復讐はその後だ。

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