私の寝室は子供の時のままきれいに残されている。


 一人で使うには大きすぎる天蓋つきのベッド。

 大人になった今でも不自由なく使える大きな机。

 姉と共に習わされたピアノ。

 床には複雑な紋様の織り込まれた絹の絨毯。


 子供部屋と呼ぶにはあまりにも立派な部屋だった。

 昔は当たり前だと思っていたが、狭い大学の寮に暮らす現在の境涯と比べると、自分がいかに恵まれた環境で育てられたかが分かる。

 寄宿学校に入っていたとは言っても、高校まではここが自分の家だという実感があった。しかし、大学に入り、父の手を離れた今、ここはもう過去の世界だった。この邸がいずれ自分のものになるとしても、子供時代は二度と戻ってこない。

 ふとそんな寂しさを噛みしめながら、私は自分の部屋を眺めた。

 それは私が少し大人になったせいだろう。懐古趣味はないが、今日ばかりは何も知らなかった子供時代が懐かしかった。

「今夜、お邸で舞踏会が催されます。お母上におかれましては、マーカス様もぜひ参加されるようにとのことでございます」

 私の様子を見に部屋に入ってきたノートンが改まった口調で告げた。

「母さん主催の舞踏会かい」

 私はやれやれという思いで溜息をついた。

 昼間あれだけ盛大なパーティーをして、まだ夜も騒ぐつもりなのか。


 気は進まなかったが、私はホストである母の顔を立てるつもりで客の集まった広間に下りて行った。ところが母は折角顔を見せた私には見向きもせず、例のグラハム子爵とかいう優男とべったりくっついて離れなかった。客は皆仮面を着け、素顔を隠していた。それが舞踏会のルールだ。母も一応はそのルールに従い、口元から上を隠す滑稽な仮面を着けていたが、素性を隠すことが目的なら、仮面はその用をなしていなかった。そんな母の姿を苦々しい思いで見つめながら、私は舞踏会などというくだらない遊びにのこのこと顔を出したことを後悔し始めていた。

 子供の頃、私はこの収穫を祝う晩秋のお祭りが大好きだった。中身をくり貫いたかぼちゃに蝋燭を入れてランプを作ったり、お化けの格好をして夜の町を練り歩いたり、それは何か日常とはかけ離れた闇の世界にまぎれ込んで行くような、恐ろしくも心躍る体験だった。

 しかし、その夜のパーティーはまさに悪夢だった。ハロウィーンというのは要するに異教のお祭りではないか。それに乗じて仮装パーティなどという破廉恥を糊塗するとは、自堕落も甚だしい。そのような享楽に身を委ねる母の姿を、私は鼻白む思いで眺めていた。

 そこには貴族社会の退廃の匂いがした。

 自分の家にいながらまるで場違いな場所にまぎれこんたような息苦しさを覚え、私は早くこの場を去りたいと願っていた。多少なりとも私の心の慰めとなったのは、幼なじみのステラとアナベルが舞踏会に来ていたことだ。最初は誰だか分からなかったが、二人は私のそばまで来ると、仮面を取って正体を明かした。


 お転婆ステラとおすましアナベル。


 好対照の二人はなぜか気が合うようで、小さい頃からいつも一緒にいる。今は昔の面影も薄れ、二人ともすっかり淑女が板についていた。最近は、私が休暇でノッティンガムに帰っているときに道ですれ違っても、気付きもしなかったように思う。向こうは気づいていたかもしれないが・・・。実のところ、私は思春期に入っても世の女性に強い関心を抱くことがなかった。それは身近にいた母や姉の存在が大きいだろう。二人に囲まれて育った私の目はいささか女性に対して厳しいようで、シェリルと出会うまでは女性を見て魅力的だと思うこともなかったし、特定の女性と付き合ったこともなかった。だが、この時ばかりはこの幼なじみの二人が女神に見えた。

 私たちは思い出話に花を咲かせ、少しばかりダンスをして楽しんだ。しかし、そのうちに私に対して彼女たちが示す媚態が気になり始め、私は再び憂鬱な気分に包まれた。結局のところ、彼女たちの関心はマーカス・ガレットという人間にあるのではなく、ガレット家の御曹司という地位にあるのだ。何かと私の機嫌を取ろうとする彼女たちの態度にはその意図が透けて見え、私を辟易させた。何もかも、もう子供の時のようには行かない。懐かしい子供時代はもう戻らないのだ。

 その後は時間が経つのが遅かった。

 私は相手をしてくれたステラとアナベルへの挨拶もそこそこに、舞踏会場を後にした。


 翌朝はノートンに頼んで夜明け前に馬車を出してもらい、朝一番の汽車でノッティンガムを発った。気が滅入っていたせいだろう、汽車の揺れに酔い、オックスフォードに着いた頃には立って歩くのがやっとという有様だった。そのまま大学の寮に戻る気にはなれず、私は馬車を郊外に向かわせ、教授の家に転がり込んだ。そこへ行けばシェリルに会える。

 幸い日曜日で、教授もシェリルも在宅中だった。二人とも幽鬼のような顔で突然現れた私に驚いていたが、ともかく家の中へ入れてくれた。

「まあ、ひどい熱」

 私の具合を見て取ったシェリルが私の額に手を当てて叫んだ。

 彼女の顔を見て安心した途端、私は気が抜けて意識が朦朧とし始めた。

「寝室へ連れて行きたまえ。すぐに休ませるのだ」

 日頃人の体を気遣うことなどない教授がそう命じるほど、そのときの私はひどい顔をしていたようだ。

 シェリルは私の背中に手を回して体を支えてくれた。私は彼女に体を預け、階上の寝室まで案内してもらった。ベッドに倒れこんだ私は、それから三日三晩寝込み、教授の家で看病を受けた。

 教授は男やもめだが、家は立派なお邸で、住み込みの召使が数人いた。シェリルは教授の私設秘書という立場で邸の一隅に間借りして一緒に暮らしている。一介の大学教授の給料で賄える暮らしではないが、教授はかなりの資産家だという噂だった。

 三日三晩寝込んだと言ったが、実のところ私の体は一日で回復していた。しかし、故郷で起こったさまざまな出来事が心にのしかかり、私はひどく落ち込んでいた。私にはそばにいてくれる誰かが必要だった。心から信頼できる誰かが・・・。

 今や私にとってその相手はシェリルしかいなかった。

 父とは断絶状態が続いている。もう母や姉に甘えられる年ではない。今回の故郷への旅でそのことを思い知らされた。

 大人になるというのはそういうことなのだろう。しかし、たとえ大人になったとしても、甘えることの出来る相手がほしくなるときはある。私はかいがいしく看病してくれるシェリルに身も心も委ねて甘えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る