決意

「シンクレア・・・」

 私がこの言葉を切り出したのは、卒業を間近に控えた四月も終わりの頃だった。

 シェフィールドの森を抜けるこの道をシェリルと連れ立って歩くのは何度目だろうか。

 春も終わりを告げ、初夏を迎えようというこの季節の森は新緑に萌え、吹きわたる風は爽やかだった。

 彼女の過去にまつわる忌まわしい話は、ずっと私の胸にわだかまっていた。そして、この先彼女との関係を続けてゆくのであれば、いずれ避けては通れぬ話題であった。この日、私はある決意を秘めてその名を口にしたのだった。

 ただ、口にしたはいいものの、その先が続かなかった。続ける必要もなかった。

 私の横を歩いていたシェリルの足が止まった。

 振り向いた私の目と彼女の目が合った。

 いつになく憂いを帯びた彼女の目は、どこか遠い場所から私を眺めているようであった。

 忌々しい話だが、この瞬間に私はフランクの話が真実であることを悟った。

「過去は・・・、いつまでも私の背中を追ってくる・・・。そういうことね?」

 彼女の言葉には棘があった。それは今までにはなかったことだ。いつも超然と私を見守ってくれていた彼女の声とは、それは違った。

「あなたには知られたくなかった」

 彼女は私を責めるように言った。

 それは彼女が初めて見せた弱さだった。

 シェリルは目の端に光る涙を隠すように顔を伏せた。

 私は両手で彼女の細い肩を掴み、彼女の顔を覗き込んだ。

「シェリル」

 伏せていた目を上げ、彼女は私を見た。

 涙に濡れたその顔はいつにも増して美しかった。

「僕と結婚してくれ」

 シェリルの青い目が大きく見開かれた。心底驚いているようだった。

「何を言い出すの、突然」

 戸惑いを見せたのも束の間、彼女の声はいつもの声に戻っていた。

 いつもの優しく諭すような声。

 ほんの一瞬垣間見えた彼女の素顔は、すっとどこかへ消えてしまった。

「僕は本気だ」

 

 もう一度その仮面の奥に潜む素顔を見せてくれ。


 我知らず、彼女の肩を掴む手に力が入った。

「ばかを言わないで。あなたはまだ高校生なのよ。これから大学に入って、まだやることがあるでしょ」

 そんな逃げ口上に怯む私ではなかった。

「じゃあ、婚約しよう」

 私の拙速さにシェリルは笑みを漏らした。

「どうしたの、マーク。今日のあなた、少し変よ」

 私の胸に手を置き、彼女は私を押しのける仕種を見せた。が、その腕に力はなかった。

「約束してくれ。大学を卒業したら、僕と結婚すると」

「私の気持ちを聞きもしないのね」

 彼女は目を逸らし、私の腕をすり抜けようとした。

 私は離さなかった。

「僕は君を愛している。君の気持ちを教えてくれ」

 私は真っすぐに彼女を見つめた。

「そんな目で見ないで。私にはあなたの愛に応える資格なんてないの」

「うそだ。君は自分を偽ってる」

「うそじゃないわ。あなたは私のことを知りもしないじゃないの」

「君の過去なんてどうでもいい。僕は今目の前にいる君を愛しているんだ」

「どうでもよくないわ。今の私も過去の私も同じ私。それを知らずに私を愛していると言えて?」

「・・・」

 頑なに心を閉ざすシェリルを前に、私は途方に暮れた。

「私はあなたが心に思い描いているような女とは違う・・・」

「君がどんな過去を抱えていようと、僕は全てを受け容れる。ありのままの君を・・・」

「ありがとう、マーク。あなたのその気持ちだけで私は救われるわ。でも、私といれば、あなたの将来に暗い影を落とすことになるわ」

 今思い返せば、この一言には深い意味があった。しかし、その時の私には知る由もなかった。

「オックスフォード進学を決めたよ。申し出を受けることにしたと『教授』に伝えて欲しい」

 私は告げた。


 君のそばを離れはしない。


 シェリルははっと息を呑んで私を見上げた。そして何か言いかけたが、思い直したように口をつぐんだ。

「父に背くことになるけど、僕は僕の道を行く」

「お父様が反対なさるにはそれなりの理由があるのよ」

 シェリルが遠まわしに何かを告げようとしていることは分かった。直接それを口に出来ない事情があることも察せられた。

「この先何が起ころうと、自分が下したこの決断を後悔することはないよ」

 

 君のための決断だ。


 不純な動機・・・と言われればそれまでだ。

『教授』にどんな思惑があって私に近づいたのかは分からない。

 父がなぜ私のオックスフォード進学に反対するのかも分からない。

 過去に二人の間に何かがあったことは間違いない。だが、なぜ二人とも私にそれを隠そうとするのか。

 父に対しては肉親としての思慕の情がある。

『教授』に対しては深い思索を共有できるかけがえのない師として尊崇の念がある。

 だが、私には二人共に対して反発する思いがあった。なぜ腹を割って本当のことを話してくれないのか。

 決断を分けたのは、シェリルに対する思いだった。私は父でも『教授』でもない、シェリルと共にあることを選んだのだ。

 たとえそれが叶わぬ思いであったとしても・・・。

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