帰省
一面の銀世界に沈む田園の片隅に突如姿を現すゴシック建築。こんもりと雪化粧した森に鎮座するガレット邸は、家柄にふさわしい威容を誇っていた。私は小学校から寄宿学校に入ったため、先祖伝来のこの土地で過ごした時間よりも学校で過ごした時間のほうがすでに長くなっていたが、幼少期を過ごし、長期の休みごとに帰って来るノッティンガムこそがわが故郷であった。
数百年の歴史を持つガレット家の所領は広く、領内には現伯爵である父の庇護の下、数百人の領民が暮らしていた。そこには古き良き封建社会の名残のようなものがあった。領民の大半は農民だったが、鍛冶や大工を生業とする者もいた。中には領外との商いに従事する者もいたが、日常生活に必要な物資はほぼ領内で賄うことができた。父は領内の経済活動の調整役を務めた。時代の流れと共に貴族である領主の役割も変わってきているのだろう。領民はそれぞれの階級に見合った豊かな暮らしを享受しており、父は土地の盟主として相応の尊敬と忠誠を受けていた。
家族四人が一堂に会するのは久しぶりだった。夕食後居間に席を移して暖炉の前で団欒するのが、我が家のクリスマスの恒例だった。窮屈な寮生活から解放されて居心地のよい家へ帰ってきた私はすっかり寛いだ気分になっていた。和やかな雰囲気の中、話題はハミルトン卒業後の私の進路のことに及んだ。家族へのささやかなクリスマスプレゼントになるだろうという期待を込めて、私は自分の希望を告げた。
「オックスフォードはだめだ」
というのが父の返事だった。
まさか反対されると思っていなかった私は、一瞬顔色を失った。
大英帝国最古の学府、世界に冠たるオックスフォードへ進学することは、学生自身にとってもその家族にとってもこの上ない名誉である。それがなぜいけないのか。
「この決定に議論の余地はない。もしそれに背くつもりなら、学費その他の面倒は一切見ない」
にべもない父の返答に私は憤りを覚えた。
ガレット家の資産は全て父が管理している。亡くなった祖父からの財産分与で、私にも幾許かの資産があてがわれているが、それとても後見人である父の許しを得ずに手をつけることは出来ない。つまり、成人するまで私には自由に動かせる財産がないということだ。
「なぜ、いけないのかな」
父が一度言ったことを覆すような人間ではないことは分かっていた。しかし、私も引き下がるつもりはなかった。
「なぜでもだ」
「理由も言わずに反対されても、納得できません」
父は口をへの字に曲げ、むっつりと黙り込んだ。
今しがたまで和やかに談笑していた家族の間に重い沈黙が流れた。
「あなた・・・」
沈黙に耐えかねた母が、隣に座る父の腕にそっと手を添えた。だが、続く言葉はなかった。
それはそうだろう。経済的事情があるならともかく、息子がオックスフォードへ進学したいと言って反対する親がどこにいるのか。
「なぜオックスフォードへ行きたい?」
沈黙の後の父の口調は重かった。
「それは・・・」
私は言葉に詰まった。答えを用意していなかったわけではない。ただ、予想外の反対に、即座に父を説得する言葉を思いつかなかった。
「オックスフォードへ行って何を勉強するのだ」
「哲学を学びたいと思っています」
私は思っているとおりを答えた。
「哲学か・・・。世の中に出てそれが何の役に立つ」
父は吐き捨てるように言った。
「哲学はあらゆる学術分野を深く追求する学問です。学問の基礎であり、全ての学問が行き着く先でもあります」
研究分野に哲学を選んだ背景には、数回にわたる『教授』との面談があった。答の出しようのない問題、また、人によって辿り着く答えの異なる問題を議論し、考察を深めてゆくことに私は興味を覚えたのだった。
「そこに何の意義がある」
父はその点にこだわった。
「物事を研究するのが大学というところでしょう」
「そのとおりだ。だが、哲学など実社会では何の役にも立たん。大学教授にでもなるつもりか」
正直のところ、私はそこまで先のことは考えていなかった。
大学に残り、学究の徒として人生を捧げる。『教授』のように・・・。
人生の選択としては悪くない。しかし、その時の私には、それは想像もつかない未来の話だった。その場で決められるようなことではなかった。
私の父サミュエル・ガレットには伯爵家当主に加え、会社経営者という顔があり、ロンドンに自己資本で立ち上げた小さな新聞社を所有していた。新進の新聞社でまだ採算は上がらないが、徐々に発行部数を伸ばしており、父は経営の傍ら自ら記事も書くため、普段はロンドンで暮らしていた。大学時代は法律を学んだという。伯爵という地位に甘んずることなく自らの力で世に立つ父は、自分の生き方に誇りを持っていた。だから、明確なビジョンを持たぬ私の煮えきらぬ態度に、尚更苛立ちが募るのだろう。
「哲学者とは何だ」
何も言い返せぬ私に、父は言い募った。
「愚にもつかぬ考えを頭の中でこねくり回すだけの人種ではないか。世間に出れば何の役にも立たん」
「でも、歴史に名を刻んだ哲学者はたくさんいます。ソクラテス、プラトン、ディオゲネス・・・」
「ディオゲネスなど乞食同然の男だ」
「かのアレクサンダー大王は彼の助言を求めました。優れた思想家は頭の中で生きているんです。頭の中で思想を練り、それを純化させる・・・」
「そんなことが何の役に立つ。乞食になりたいとでも言うのか」
「哲学は大学で最も貴いとされる学問です。それを学ぶことに反対なのですか」
この問いに、ふと父は考え込んだ。
「いや、少し論点がずれたようだ。お前がやりたいことをとやかく言うつもりはない。だが、オックスフォードはだめだ」
結局父が首を縦に振ることはなかった。
余程『教授』の名を出そうかと思ったが、私は思いとどまった。名前を出さないというのが教授との約束だ。それを破れば、オックスフォードへの進学自体がご破算になりかねない。
ふと気になったのは、父が教授を知っているという事実だった。名前を出せないので確かめる術はないが、教授は昔父の世話になったと言っていた。ということは、父は教授がオックスフォードに勤めていることを知っているのではないか。二人の間にどんな過去があったのかは分からないが、それが私のオックスフォード進学に父が反対する理由だとしたら、一体二人の関係とは如何なるものなのか。教授のほうでは父に恩義を感じているからこそ、私のために進学斡旋の労を負うてくれたのだ。父のほうは教授によい感情を抱いていないのだろうか。たとえそうだとしても、教授一個人に対する反感が、私のオックスフォード進学を阻むほどの理由になり得るだろうか。
私の心に新たな疑問が芽生えた。
私の進路についての話は、それっきり話題に上ることなくクリスマス休暇は終わった。
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