シェリル
私が『教授』の誘いに応じたのは、彼の人柄に引かれたからではなかった。少なくとも、最初はそうではなかった。二度の会見から、彼がかなり前衛的な思想の持ち主であることが分かった。教授との対話は刺激的ではあったが、危険でもあった。若いなりに私の嗅覚はその危険を嗅ぎ取っていた。
私が最初に引かれたのは、むしろシェリル・フルブライトのほうだった。彼女の際立った美貌はどんな男をも屈服させずにはおかないだろう。憂いを帯びたその目に扇情的なところはなかったが、それゆえにこそ彼女の魅力はいや増した。そんな彼女が、教授の使いとは言え、自分を訪ねてくる。私はこのことに戦慄にも似た歓喜を覚えた。
教授との二度目の会談の後、彼女は二週間と空けず私のもとを訪れるようになった。教授からの課題を伝えに来ることもあれば、ただ私の学校での様子を見に来ることもあった。いずれも公式の訪問で、学長の許可を得た上で応接室での対面という形を取ったが、私にはそれが二人だけの秘密の逢瀬のように感じられた。それは私が初めて経験する恋の予感だった。逢瀬を重ねるごとに、私は強く彼女に惹かれて行った。それは思春期の若者が年上の女性に対して抱く淡い憧れのようなものとは違った。すでに十七の齢を数える私にとって、それは胸も焦がれんばかりの激しい思いだった。一方、彼女にとって私と会うことは仕事の一環でしかないようだった。彼女は私の気持ちには気付いていただろう。その方面における女の勘は鋭いものだ。ただ、彼女は私の気持ちに応じるそぶりは見せなかった。だから、学校の外で会ってほしいという頼みを彼女があっさりと受け入れてくれたときには、私はむしろ拍子抜けした。
それまで退屈そのものでしかなかったシェフィールドの田舎町が、薔薇色の世界に変わった。深まり行く秋とともに姿を変える田園や森が、急に美しいものに思えてきた。黄金の麦穂が刈り取られ、地肌がむき出しになった大地や、赤や黄色に色づく木々の変化、それまで当たり前だと思って気にも留めなかったものが、急に私の意識の中に飛び込んできた。ただ彼女が隣にいるというだけで、私を取り巻く世界は一変した。
日常にも変化が起こった。私と彼女のことで噂が立ち始めたのだ。シェフィールドのような片田舎では、それは無理からぬことだった。ハミルトン寄宿学校の学生といえば、ただでさえ町では目立つ存在だった。そこへちょっと人目を引かずにはおかないよそ者の女がやって来て学生と連れ立って歩いているとなれば、娯楽の少ない田舎町の人々の口の端に上らぬほうが不思議だ。シェリルと私の関係にやましいところはなかったが、人々に話の種を提供するには十分だった。実際、私は彼女にのぼせ上がっていたわけで、町で囁かれる噂が根も葉もないものだとも言えなかった。ただ、シェリルが節度ある態度を崩すことはなかった。彼女の言葉つきや眼差しから、私を憎からず思ってくれていることは察せられたが、彼女は互いが一線を越えることを決して許さなかった。私に対しては常に保護者然と、年上の女性として振舞った。それは自分自身への戒めでもあったかも知れない。この頃の彼女は、年齢で言えば二十歳前後であったろう。さほどの年の差でもないのに、そのときの私には彼女がずっと年上に感じられた。
秋も終わり、クリスマス・シーズンを迎えようという頃のこと。
寮で同室のフランク・トットナムが、冬休みをどう過ごすつもりかと聞いてきた。
ノッティンガムの実家へ帰るつもりだと答えると、フランクは意外そうな顔をした。
「へえ、君ともあろう者がクリスマスを家族と一緒に過ごすとはね」
彼の言葉には皮肉めいた響きがあった。
「別におかしなことじゃないだろう。君は帰らないのかい」
「帰るさ。皆そうする。君は特別だと思っただけさ」
「特別?」
「例の貴婦人はどうするんだい。大事なクリスマスに意中のご婦人を放っておく手はないぜ。紳士としてあるまじき不品行だ。罪だよ」
またその話か。
まともに話をする気が失せて、私は勉強机に向かった。
フランクは気の好い男だが、お喋りなのが玉の瑕だ。
彼によると、シェリルはハミルトンの学生たちの間で『貴婦人』とあだ名されている。彼はその例に倣っただけなのだが、その呼び方が私の癇に障った。
会話とは何か意味のあるものでなければならないと本気で信じていた私は、普段は口さがない連中のお喋りなど気にも留めなかった。しかし、ことシェリルのこととなると、話は別だった。
無関係の人間に彼女の名前を教えなかったことが、私の非とはなるまい。私が触れたくないことは分かっているだろうに、あけすけにその話題を持ち出す無神経に腹が立った。
「なあ、彼女とはどういう関係なんだ。僕にだけこっそり教えろよ」
私がそっぽを向いても、彼は一向意に介さず話を続けた。
こっそりが聞いて呆れる。彼に話した途端、学校中の噂になることは目に見えていた。
「いいかい、フランク。彼女はある人の使いで僕のところへ来ているだけだ。僕らは何でもないんだ」
私はフランクに向き直り、彼の胸に指を突き立てた。
彼は私の剣幕に押されたように、わざとらしく上体を反らせた。
「むきになって否定するところが怪しいな。皆噂してるぜ。君らは恋仲に違いないってさ」
正直、そう言われて悪い気はしなかったが、それが事実ではないことをどう説明すればよいのだろう。周囲の噂話が私の耳に届くのは彼のお陰だが、友人たちが影で囁く言葉がそのまま耳に入ってくることには辟易した。
「いい加減にしないと怒るぜ」
私は立ち上がり、ベッドの端に腰掛けている彼のほうへにじり寄った。
「そう凄むなよ」
今日の彼はいつになく質が悪い。私がむきになって反論するのを楽しんでいる。
「皆君のことが羨ましいんだよ。こんな女っ気のない場所に何ヶ月も閉じ込められた上に、毎日やることときたら、退屈な日課の繰り返しだ。いくら勉強したって頭がよくなるどころか気が変になっちまうぜ。ところが君と来た日には、週末ごとに『貴婦人』とデートだ。その貴婦人がまたすこぶるつきの美人ときてる。のろけ話の一つぐらい聞かせたってばちは当たるまい」
ロンドンの商家に生まれたフランクには、かすかにロンドンの下町訛りがあった。
「だからさっきも言ったろう。彼女は僕の恋人なんかじゃない。ただ用があってここへ来ているだけだ」
「毎週毎週何の用があるって言うんだ」
そう言われて、ふと私は言葉に詰まった。
つてを頼ってオックスフォード入学の準備を進めているなどという話は出来なかった。進学を控えたこの時期に、真面目に勉学に励む仲間に言えることではない。第一、『教授』と私の関係はつてなどと呼べるものではなかったし、私とて進学先のことでは悩んでいる身だ。そもそも、なぜ『教授』は一介の学生に過ぎぬ私にこんな申し出をしたのか。私がこの申し出を受けることは既成事実化されていたが、私はまだ正式に返事をしたわけではない。この件について親元に相談することは禁じられていたが、親に断りもなく進学先を決めることなどできないではないか。いずれ時期が来ればそのあたりの事情が明らかになるだろうと思っていたが、いまだシェリルからもその話はない。『教授』との最初の面会からすでに三ヶ月が過ぎている。一度聞いてみる頃合いかも知れない。
「ほら見ろ。答えられないじゃないか」
私の沈黙を別の意味に捉えたフランクは勝ち誇ったように言った。
「答えがないってことは、認めたってことだぜ」
「いや、別の考え事をしてたんだ」
決め付ける彼に、私は上の空の言い訳をした。
「ふん。無理に理由を考えなくてもいいぜ。つまんねえ野郎だ」
ふて腐れたように言うと、彼はごろりとベッドに横になり、私に背中を向けた。
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