二度目の会見

「生きるとはどういうことだと思うね」

『教授』との二度目の会見は大学の社交室で行われた。そこは、オックスフォードの教授連が講義の合間に利用する休憩室で、周りに学生の姿はなかった。教授と私は小卓を挟んで差し向かいに座っていた。教授はソファに腰掛けて足を組み、すっかり寛いだ様子で、時折手に持ったパイプを口元に持って行っては渋い顔で紫煙をくゆらせている。一方の私はソファに端座し、ミス・フルブライトが出してくれたお茶にも手をつけずにいた。

「生きることに意味はあると思うかね」

 哲学じみた問いに答えの出せぬ私に、教授は重ねて問うた。

「君や私が生きていることに、はたして理由はあるだろうか」

「それを見出すのが生きるということではないでしょうか」

 ようやく私が答えを絞り出すと、教授は頷いた。

「なるほど。極めて単純で幼稚な考えではあるが、金や権力に生きる意味を見出す者もいる。金は渡世の道具に過ぎん。権力はいずれ次の世代に奪われる。権力者の末路など、概して憐れなものだ。どちらも人生の目的とするには空しい。

 そこでだ。君は自分の人生の意味をどう捉えるかね。そこに見出すべき意味はあるかね」

「分かりません。正直のところ考えたこともありません」

「では、考えたまえ。君は何のために生きるのか」

 やや高圧的に言うと、教授は両手をソファの手すりに落ち着け、私の答えを待つ姿勢をとった。


 人は何のために生きるのか。


 いくら考えたところで、それは答えの出ない問いではないだろうか。しかし、これはあくまでも試験の一環だ。教授は答えを求めているのではなく、私がどう答えるかを試しているのだ。

「生きるとは、幸せを求めることです」

「ふむ」

 私が答えると、教授は一応は満足したように頷いた。

「では聞くが、君は幸せかね」

 問われて、私は自分の境涯を振り返ってみた。

 父は長い伝統を持つガレット家の跡継ぎとして伯爵の地位と地領を受け継ぐ立派な紳士だ。母も由緒正しい家の出で、かつては社交界の花と謳われた美貌の持ち主だ。その二人の子として私は二つ違いの姉とともに大切に育てられた。決して優等生とは言えないが、寄宿学校での生活もまずうまく行っている。

「ええ。自分は恵まれた人間だと思います」

「恵まれた人間か。正鵠を射た表現だ。だが、恵まれた人間が幸せとは限らん。君の人生は満ち足りているかね」

 そう問われると首を傾げざるを得ない。自分自身を省みれば、私には足りない所がたくさんある。だが、全てが満たされる人間などいるだろうか。

「衣食住の欲求が満たされれば、大概の人間は自分を幸せだと考える。だが、それではサルと大して変わらん」


 またサルか。


 教授は例の『進化論』の話をしたいのだろうか。しかし、この間の会見でダーウィンの唱えるこの仮説を教授は否定したのではなかったか。

「人間はサルとは違うと言っておるのだよ」

 私の顔に浮かんだ疑問を読み取って、教授は言った。

「基本的な欲求が満たされれば、人間には次の欲求が生まれる」

 教授は答えを求めるように私の顔を見つめた。

「知識欲・・・ですか」

 少し考えて、私は答えた。

「いい答えだ。だが、それはより高次の欲求と言えよう。普通の人間はこう考えるのではないかね?

 人よりも上を行きたい。人の上に立ちたい、と。学業でも仕事でも、人より少しでも優位に立って、実りの多い豊かな暮らしをしたい。社会のどの階層に属していようと、人の考えることに大差はない。人間は自分が必要とする以上の物を欲する生き物だ。だから人間社会には競争が生じ、摩擦が起こる。戦争などは人間の欲が生み出す愚行の最たるものだ。この点からすると、動物社会のほうが自己完結的でバランスが取れている。彼らは自分が必要とする以上の物は欲しがらない。そこが人間と動物の決定的な違いだ」

「社会集団として見た場合、人間よりも動物のほうが優れている・・・と?」

「案外皮肉屋だな、君は」

 教授はくっくっと忍び笑いを漏らした。

「一見そのように見えるが、人間が神の造りたもうた特別な存在ならば、その先があるはずだ。人間はもっと高尚な生き物になれるのではないかね」

「高尚な・・・。名誉や誇りを持てるということですか?」

「名誉か・・・。例えば歴史に名を残すことは大きな名誉と考えられるが、それは結果であって、あくまでも他人の評価に過ぎない。求めて得られるものではないだろう」


 名誉は追い求めるものではない。


 確かにその通りだ。追い求める気持ちが生じた瞬間、名誉はその価値を失う。

「でも、それを重んずる心が誇りを生むのではないでしょうか」

「では、誇り高く生きることが人生の目的になるかね」

「なると思います」

「若いな、君は・・・」

 教授はふと憧憬と侮蔑の入り交じった眼差しで私を見つめた。

「人生はそれほど単純ではないよ。誇りはいずれ人に認められたいという欲に取って代わられる。真に誇り高い人間に長生きはできまい」

「生きた長さが人生の価値を決めるわけではありません。短命な人の中にも歴史に名を刻んだ人はいます。むしろ、そういう人たちこそ人生の意味を深く理解していたのではないでしょうか」

「うむ。だが、誇り高くあることと人生の意味を理解することは別物だ。誇りを持つというのは生き方であって、人生の目的にはなりえないと私は考える。目的というのは何かを求めることだ」

「人間の欲求に関わることですか」

「そうだ。人間だけが持ち得る高度な欲求だ」

 考えに沈む私を眺めながら、教授はゆっくりと身を起こした。そして、パイプの灰を灰皿に落とし、煙草を詰め直すと、手馴れた仕種でマッチを擦り、パイプに火を灯した。

「さっき君も言ったろう」

 再びソファに身を沈めると、教授は話し始めた。

「人間には知識欲や探究心がある。では、なぜ人間は知識を求めるのか。真理を探究するのか。聖書の記述が正しいとするなら、それは禁断の果実に手を伸ばすことだ。いや、禁断の果実をかじったからこそ、人間は知識を求めずにいられないのか。この世の真実を解き明かせば、人間は神になれるのか」

「聖書にはバベルの塔の話もあります」

「それだ」

 教授はパンと大きな音を立てて手を叩いた。

 社交室で談笑する他の教授たちが我々に奇異の眼差しを向けた。それを意に介する風もなく、教授は続けた。

「かつて人間は天に至らんと欲し、巨大な塔を建造した。その行為は神の怒りに触れ、塔は破壊され、人間は互いの話す言葉を理解できなくなった。

 実に示唆に富んだ話だ。しかも、エデンの園の記述とも一致する。神は人間が知識を得ることも、自分に近づこうとすることも許しはしない。

 君は人間の生きる目的は幸せを求めることだと言ったね。しかし、この世の真実を解き明かしたところで、人間は幸福になりはしない。それどころか、知識は人間の破滅を招く元となる。遠い昔にすでに、人間はそのことを知っていたのだ」

「人間は何も知らないほうが幸せだと?」

「そう。楽園に暮らしていたアダムとイヴのように・・・」

「でも、アダムとイヴには生きる目的があったでしょうか」

 最初の会見の時と同じように、教授と私の思考が同調し始めていた。私は体の底から湧き上がる戦慄を禁じ得なかった。

「いいぞ。君には哲学者の素質がある」

 感情を面に出すことのない教授の顔が紅潮していた。

 私の味わっている感覚が教授にも伝わっていることが分かった。私たちの師弟関係はこの時すでに始まっていたのかも知れない。

「アダムとイヴには・・・」

 教授は続けた。

「目的などなかった。彼らは満ち足りていたのだよ」

「でも、何も知らないことが人間の幸福だとしたら、人間は他の動物と同じということになりませんか」

「その通りだ。人間は楽園を追い出されて初めて人間になった。そして、禁断の果実、つまり『知恵の実』を食べたことが人間の原罪だと言うなら、その罪こそが人間を他の動物と隔てる唯一の要素だ。ということは・・・だ、知識を求めることが人間の本質であり、人間は生まれながらにしてその罪を負うている。たとえ罪だとしても、人間は真実を求めずにはいられない。違うかね?」

「でも、それは神の意に背く行為です」

「聖書にはそう書かれている」

 教授は頷いた。

「楽園に戻る為には罪を贖わなければなりません。知識を求め、真実を解き明かすことが贖罪にはなりえないとすると・・・」

「人間は目的を見誤っている・・・ということになりはしないかね」

「でも、それが人間の本質だとしたら・・・」

 人間はエデンの園には戻れない。人間が人間である限り、再び楽園を目にすることはない。それとも、原罪の故に人間は人間として立った、という前提に誤りがあるのか。

「ふふふ・・・。君との議論がこれほど楽しいものになろうとは・・・。では、神の本質について考えてみよう」

「それは踏み込んではならない領域です」

 私は急に自分の熱が冷めてゆくのを感じた。教授との議論の先には必ず神への不敬が潜んでいる。

「なぜかね」

 そんな私の反応を見て、教授はなお追い討ちをかけるように言った。その目には獲物をいたぶる猫のような愉悦が浮かんでいた。

「神は悪だと言いたいのでしょう」

 私は不承不承答えた。

「そうではない。神は善悪の両面を備えていると言っているのだ。そして、知識とは神の悪の側に属するものではないかと私は考えている」

 なるほど。確かにそう考えれば、知識を求めることを罪だとする聖書の記述にも筋が通る。だが、それは神に対する冒涜ではないか。

「君の怒りはもっともだ」

 私の顔に表れた表情を見て、教授は言った。

「この19世紀に生きる多くの人が君の思いに共感を抱くだろう。しかし、自分の見たくないもの、知りたくないことからは目をそらすのが人間という生き物だ。必要なのは真実を見つめる冷徹な目、そして勇気だ。それなくして、人間は次の段階へ進むことはできん」

「次の段階?」

「より高次の存在になることだ」

「人間が神になるということですか」

「ふふ・・・。私とてそこまで思い上がってはおらぬよ。そこは神に近づくという言葉に置き換えるべきだ。神は我々が考えるよりずっと遠い存在かも知れぬ」

「それとても神はお許しにならないでしょう」

 私は反論した。自分が神の擁護者たろうとしているのか、それともその先の議論へ踏み込むことを恐れているのか、判然とせぬままに・・・。

「では、神の許しを請い、折角手に入れた知識を捨てるかね。無知蒙昧の徒として楽園で暮らすほうが、人間は幸せかね」

 あるいは、それが人のあるべき姿かもしれない。自らの所業を悔い改め、神の許しを得ることが、人間に示された唯一の道なのではないだろうか。

「人間は・・・もう後戻りは出来ぬ」

 今や私の思考を読むことに、教授は何の苦労も要さぬようであった。

「どういう意味ですか」

「悪を飲み込んででも人間は前進するしかない、という意味だ」

 教授の言う悪が人間に内在する悪ではなく、神の一部としての悪だということは理解できた。到底受け容れることはできなかったが、その一方で、『教授』がこの世界に何を思い描き、どんな人間になろうとしてるのかに、私は激しく興味をかきたてられた。

 知識そのものを悪だと断定する教授は、人間社会では断罪できぬような悪の巨魁となる素質を秘めている。

 それは恐ろしい想像だったが、私は逃れようとしても逃れられぬ強い引力にどんどんひきこまれてゆくのを感じた。

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