教授

「君は神を信じるかね」

 それが教授の第一声だった。

 そこは石畳の中庭に面した教授の研究室だった。オックスフォードの研究室というよりは個人宅の書斎といった風情だった。左右の壁面に本棚が据えられ、さらに部屋の手前と奥も本棚で仕切られていた。それぞれの棚には端から端まで隙間なく本が並んでいる。

 ミス・フルブライトが私を案内して部屋の中に招じ入れると、邪険に彼女を追い出してドアを閉め、教授は値踏みをするような目で私を眺め回した。

 私と初めて会ったこの時、五十の峠はとうに越えていただろうが、長身のしなやかな体と鋭い眼光には壮年の覇気が漲っていた。大学教授らしいところといえば、長く伸びた眉と眼窩の奥の知的な眼差しぐらいだった。

 不躾な眼差しで私を眺め回した後、教授は鼻を鳴らして先の質問を繰り出した。

 出会って早々の質問に私は面食らった。初対面の人間にかける言葉とは思えなかった。

「どうしたのかね。口がきけんのかね」

 教授は追い討ちをかけるように答えを促した。

「ええ、信じています。クリスチャンの家庭に育ちましたので」

 私は取ってつけたように言った。

「ふん。キリスト教徒か」

 どうやら鼻を鳴らすのが教授の癖のようだ。

「この国に住む大半の者がそうだ。では聞くが、君の神は君を救ってくれるかね。信じる者全てを救ってくれると思うかね」

「それは・・・」

 私は答えに詰まった。

 これは面接試験の一部なのだろうか。私の信仰心についてではなく、私がどう答えるかが試されているのだろうか。

「君は貴族の家に生まれ、何不自由なく育った。一方この国には、今日一日を過ごすのがやっと、明日をも知れぬ境涯に生きる人間が大勢いる。君の信じる神と彼らの神は同じかね?」

「キリスト教の神はひとりです」

 私は少し身を強ばらせた。

「何不自由ない豊かな暮らしに恵まれた君が神を信じるのはた易い。自分は神に愛されている。そう思うだろう?一方、明日をも知れぬ身の上の者たちが、君と同じ神を信じると思うかね?」

「何が言いたいのですか」

 面接を受けにここにきたことも忘れ、私は教授に食ってかかった。人の信仰に疑義を差し挟むのは禁忌ではないか。

「その人間の立場やものの考え方によって、神という存在の持つ意義は変わる。世界には様々な神がいる」

 色をなす私に頓着する様子もなく教師は続けた。 

「神はひとりではない・・・と?」

「キリスト教という宗教一つ取ってみたまえ。ローマ・カソリックがその根本にあるとしても、そのあり方に異を唱える宗派がたくさん生まれている。イギリス国教会などは国王の都合によって生み出された宗派だ」

「宗派は違っても神は神です」

「しかし、見る者によって神は異なる顔を見せる。神が絶対的な存在ならば、そんなことが起こるかね?」

「あなたはキリスト教徒ではないのですか?」

 それは純粋な疑問だった。クリスチャンであることは、イギリス人である私にとっては存在の前提条件とも言うべき心の拠り所だ。自分の同国人が異教徒だなどとは、にわかには信じられない。

「神はひとりではありえないと言っているのだよ。人の立場や考え方によって変わるものだとすればね」

「神を否定なさるのですか」

 私は自分の心が固く強ばるのを感じた。

 教授は狭い研究室の床をこつこつと靴音を立てて行ったり来たりした。

「人間は自分の見たいと思うものしか見えない生き物だ。およそ目の前の現実を直視することができない。悲しいことや辛いことからは目を逸らし、極力見ようとしない。彼らが見るのは罪科(つみとが)を許してくれる、自分にとって都合のよい神だけだ。だとしたら、神など人間のご都合主義が生み出した幻影に過ぎぬ。そうは言えないかね」

「・・・」

 神への冒涜は許せなかったが、私は反論の言葉を探しあぐねた。

「断っておくが・・・」

 教授は人差し指を立てて私に突きつけた。

「私は無神論者ではない」

 きつい口調で釘をさした後、教授は少し表情を和らげた。

「別の質問をしよう。サルの世界に神はいると思うかね。サルは神を信じるかね?」

 サルと聞いて、私にはピンとくるものがあった。

「ダーウィンの進化論ですか」

 昨今物議をかもしているこの説については、私も一通りのことは知っていた。一人の科学者がキリスト教世界にたたきつけた挑戦状と言っていいだろう。

「いいぞ。なかなかに察しがいい」

 わが意を得たりとばかり、教授はぽんと手を叩いた。

「人間がサルの子孫だという話には一応筋が通っているように思えます。受け容れ難いという点を除けば・・・」

「どんな理論も最初は奇異に響くものだ。まあ、少し議論を進めてみようじゃないか」

 私の反応を面白がるように口元に笑みを浮かべ、教授は続けた。

「人間はサルと同じかね?結局人間は少しばかり頭のいいサルにすぎないのか?

 ダーウィンが正しいとすれば、その答えは『イエス』だ。しかし、今君はそれを受け容れ難いと言った。なぜかね?」

「それは・・・、人間はサルとは違うからです」

「それでは答えにならんな。その理由を聞いておるのだ」

「・・・」

 私が黙り込むと、教授は目を細めた。

「人間は神を持つ。サルは神を持たぬ。それこそが人間とサルを隔てる決定的な違いだ」

 つまり、教授はダーウィンの信奉者ではないということか。

 しかし、神を持つとはどういう意味だろうか。

 私に考える時間を与えるように、教授はしばし間をおいた。

「では、神とは何か?

 人間の想像の産物か。だとしたら、人間の持つ想像力こそが、人間を人間たらしめる力なのか」

「その論では、やはり神はいないことになります」

 私は指摘した。

 先程教授は、自分は無神論者ではないと言った。そしてダーウィンの信奉者でもないとすると、教授は神の存在を否定しているわけではない。しかし、進化論を覆す確たる論拠はあるのだろうか。

「まあ、待ちたまえ。順を追って考えよう」

 せっかちな生徒を諭すように教授は言った。

「問題はその想像力という力だ。これは人間だけに備わった力だが、ところで、君が考える、あるいは想像する神とはどんな神かね」


 神を想像する。


 それは人間が神を創造するという意味ではないか。

 教授の論理がどう展開していくのか気にはなったが、私は話を続けるのが恐くなった。神を議論すること自体が神に対する不敬ではないか。

「神は・・・、全知全能の神は、最後には信じる者を救ってくださいます。悔い改める者を許してくださいます」

「そう。日曜学校ではそう教わる。では、君の神は善なる神かね」

「神はその教えを伝えるために一人子イエスをお使わしになりました。その教えは、この世に遍く正義を説くものです」

「つまり神は善なる存在というわけだね」

 教授は重ねて問うた。

 私は頷いた。

「ところで聖書によると、神は自らを象って人間を造ったとされるが、神が完全なる善であるなら、なぜ人間はそうではないのかね。人間の心には悪が存在する。これは誰も否定のしようのない事実だ」

「神が象ったのは自らの姿形で、心ではないのではないでしょうか」

「神に姿形があるかどうかはさておき、神が全き存在であるなら、何故悪の存在を許すのだろうね」

「聖書には堕天使の記述があります」

 教授は得たりというように、ぱちんと指を鳴らした。私たちの思考は同じ方向へ進み始めていた。

「サタンだね。最初の人間アダムとイヴに知恵の果実を食べさせたヘビだ」

 説明を受けるまでもない。キリスト教徒なら誰でも知っている話だ。

「聖書には、このヘビこそが悪の元凶のように書かれているが、そもそもこのヘビはどこからやって来たのか。ヘビはサタンの化身とされるが、サタン自身、元々は天界の住人だったはずだ」


 天使長ルシフェル。


 天界に燦然と輝くその名に『堕天使』の烙印が押されたのはいつのことだったのか。ルシフェルはなぜ天界を追われなければならなかったのか。

「天界のどこに悪の入り込む余地があったのだろうね」

 私の思考と教授の言葉は今や完全に一致していた。それは恐ろしい経験だった。私は知ってはならぬことを知ろうとしているのではないか。

「もう一つ象徴的な話がある。先程出た知恵の果実だが、これを食べたことによって、アダムとイヴは自分たちが裸であることに気付く。人間が神と同じ知恵を身につけた瞬間だ。知恵の果実は禁断の果実とも呼ばれ、この果実を食べたことが人間の『原罪』だとされる。そして二人は楽園を追われ、最初にヘビの誘惑に負けたのがイヴだった為、以後女はお産の苦しみを味わわねばならなくなった。実によく出来た話だ」

「聖書の記述は神聖なものです。御伽噺ではありません」

 話に引き込まれる一方で、神を軽んずる態度には同調しかねた。

「昔話という点では同じだ。どちらにも元となった事実があったはずだ」

 教授は私の指摘をさらりとかわした。

「それはさておき、知恵を手に入れることが、なぜ罪なのかね。堕天使ルシフェルは、なぜ悪に染まったのか」

 話の行き着く先が見えた私は、打たれたように呆然と教授を見つめた。わなわなと唇が震え、その答えを声にすることができなかった。

 そんな私の反応を見て、教授は満足げな笑みを浮かべた。

「神は自らを象って人間や天使を造りたもうた。人間や天使が悪に染まり得るなら、神も・・・」

「うそだ」

 私は教授の言葉を遮った。

「いや、論理的思考がたたき出した結論だ」

 教授は何食わぬ顔で私の反論を封じ、話を続けた。

「こう考えれば、世の中の不条理にも説明がつく。神とは、善も悪も、条理も不条理も、全てを包含した存在でなければならない。神を善と捉えるのは、人間の勝手な願望に過ぎん。全くおめでたいご都合主義だよ。ただ、それこそが人間を人間たらしめる力だとも言える。人間以外の動物には神を創造することができない。それが動物と人間の決定的な差だ。人間は断じてサルではない。そのことが神の存在を証明している。そして神は、人間と同じく心に光と闇を持つ。それこそが道理だ」

「それはキリスト教の説く神ではありません」

「君が望む神ではない、というだけだ」

 そう言われては、私には返す言葉もなかった。

 教授は口元をかすかに歪め、勝ち誇ったように私を見つめていた。


 これが私と教授の最初の出会いだった。

 神を冒涜するこのような男とは二度と会うまいと思った。

 しかし、一ヵ月後、シェリル・フルブライトは再びハミルトンの寮に現れ、私は誘われるままに教授の招きに応じた。

 セイレンの歌声に引き寄せられる船乗りのように・・・。

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