生きる理由とは心臓が動く理由なのだろうか

「生きてるって何だと思います?」

「なんです、唐突に」


 優実は本──私のコレクションの一つ。ユクスキュルの『生物から見た世界』──を読みながらふと口にした。本から影響を受けやすそうな彼女らしい言葉ではあるが、唐突にそんな哲学的な問いを出されても困るというものだ。

 彼女が住み着いてから一月が経ったものの、平日は殆ど会わないし休日は互いに別々の何かをしているので初対面と大して変わっていなかった。


「いや、生きる理由ってあるじゃないですか。人生の目標とか、楽しみとか。でも人間が生きてるって脳が生きてるってことで、それって心臓が血液を送ってるってことじゃないですか。端的に言えば、生きる理由って心臓が動く理由ってことじゃないですか。それって精神的というより肉体的じゃないですか。生きてるっていうのは人間の捉えようによって、精神的なものにも、肉体的なものにもなり得るってことじゃないですか。でも、実際はそう捉えてない訳じゃないですか。なら、生きてるって言葉にはどんな意味があるんだろうって」

「また変に難しく捻くれたことを……。それこそ捉えようなんじゃないですか? 赤を同じ赤だと認識している保証はどこにもないように、生きていることを精神的、肉体的、神秘的に捉えているかはそれぞれ違ってて、それを同じ意味で使っている保証はない訳ですから」

「なるほど。ありがとうございます」

「あ、それでいいんですか」

「ああ、いえ。あくまで爽さんの意見が聞きたかっただけなので」

「ああ、そういう……」


 こちらから人それぞれと言ってしまったが故に彼女の好奇心を否定出来なかった。因みに否定したかったのは良いこと言ったなーという自負があったからである。大人というのはなんでも答えを単純化したがる生き物であることを自覚した。如何に社会がそれらしい答えを用意した無意義なマウント合戦をし、少数派の答えを空気という圧力でもって押し潰し物事の単純化を図っているかが窺えた。


「とりあえず私、爽さんとセックスしてみたいです」

「……はい?」


 何を言ってるんだこの女は。

 やはり頭がおかしいのかも知れない。


「人間特有の能力って、利他的行動にあると私は思うんです。女同士のセックスって自らの気持ち良さというより相手をどれだけ気持ちよく出来るか、な訳じゃないですか。これって人間特有の行動な気がするんですよね」

「うーん。動物の同性愛なら別に珍しくないし、オーラルセックスならボノボとかもあるし人間特有かと言われると」

「彼女らの場合、自らの為の行いじゃないですか。ニューメキシコハシリトカゲも同性愛が無ければ子供も作らない訳で。でも人間は単為生殖ではないし、自らでなく相手のストレスを解消したいっていう献身性な訳ですよ。働き蜂が女王蜂に尽くすのは遺伝子的な問題な訳で、私と爽さんは血の繋がりもないのでより肉体から乖離したセックスになると思うんです」

「なるほど? あ、納得はしてませんよ」

「なんで?」


 なんで、じゃないが。寧ろそれで説得させられて「なるほど。じゃあセックスしましょう」とはならないだろう。日本神話より軽い導入である。


「いや、肩凝ってるからマッサージしてあげますみたいに言われましても……。セックスはセックスですし」

「良いじゃないですかー、減るもんじゃ無いし」

「いや減るよ。主に歳下に手出した罪悪感で私の精神が減るよ」

「じゃあ私が慰めるんで。爽さんは何もしなくていいですよ」

「いやもっと悪いよ。歳下を性処理係扱いとか最悪にもほどがあるよ」

「私がやりたいって言ってるのに。ああ言えばこういう」

「そりゃ言うよ。逆に言わない人は完全に自分の為にさせようとしてるから、貴女の主義に反してますよね?」

「む、確かに……じゃあ今回は諦めます。その気になったら言ってください」

「ならないよ」

「なるかもしれないじゃないですか」

「……ならないことを祈りますよ」


 何とか折れて(?)くれたが、改めて危ない女だ。とんでもない罪を背負わされるところだった。生きていると社会なんてものは碌でも無いものだと思わされることばかりだが、社会の外にはもっと碌でも無いのがいるなと思わされた。なるほど、やはり常識とはある程度良識も兼ねてなければならないのだ。


「仮に私が爽さんのことが好きだったとして、どう思いますか? あ。仮にですよ? 本気にしないで下さいね? 仮にですから」

「そんなに念を押さなくてもいいけどね? 私が同性愛についてどう思うかという質問だとしたら、別にどうも思いません。貴女が私を好きだとしたら──あー。まあ」


 不味いな。


「ちょっと嬉しいって思ったでしょ。ねえ。ねえ」


 心を読まれて何も言い返せない。さすが人造人間、そんな機能も備わっているのか。

 意地悪く笑う彼女の顔が途端に愛おしく感じて苛立ちを覚える。この感情は肉体的なのか精神的なのか。社会性というものが人間の動物的な本能であるならば、極めて肉体的なものであると言える。なお、愛おしさの大半は顔の良さなので完全に肉体的な理由である。


「よし、じゃあセックスしましょうか」

「お前頭おかしいよ」


 私は先行きが不安で仕方がなくなった。今後、出会った頃より親しくなるどころか溝が深くなりそうな気がしてならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る