常識とは常に我々から発生し、我々が任命する最も重要で矮小な官職である

 私達の上に降りかかる災難は大抵、他愛も無く、想像に難くないものであり、伴ってその解決方法も単純明快と言えよう。だが、それは直ぐに実行に移した場合の話だ。後々に引き伸ばしていれば解決は困難を極める。

 私の場合、既に二ヶ月が経過して、なお居座る自称人造人間こと大留優実がそれである。なにを隠そう、私は大して稼ぎも無い一介の社会人なのだ。自分一人で既に手一杯な、未来や希望とは無縁の若者なのだ。女一人を養える訳もないのだ。かと言って今更家から放り出す勇気もないのだ。

 そんな気骨があれば、今頃こんな草臥くたびれた街へと流れ着いて命が枯れるのを待つだけの死滅回遊魚しめつかいゆうぎょにはなっていない。当然目も死んだようによどんでもいなかったろう。

 なるほど道理である。

 故に、問題を先延ばして解決を急がなかった私に訪れたのは我が身によく似た焦りの影であったが、これもまた道理である。

 私は焦眉の問題に目を移した。

 幸い、彼女は何も欲しがらなかった。マイコレクションの本と貧乏飯を与えていれば、偶に飛び出す突拍子もない舌先三寸を玉虫色ではぐらかそうと、憤るどころか文句が出ることもない。黙って本を読んでいる姿は大変羞花閉月であるし、私の仕事中は家事に勤しむ篤志家とくしかである。

 正直に言おう。私はこの生活に慣れきる時期をとっくに越えて、何処か居心地の良さすら感じていた。これはストックホルム症候群だろうか。だとしたら私は被害者だろう。しかし世間は私を加害者だと指摘するだろう。

 いやしかし、ならば私は問おう。お前らに彼女を養う覚悟があるのかと! 無関係なものが無責任に口出しするべきではないのだ! 私は寧ろ褒められるべきであって責められるべきでないのだ!

 しかし、どれだけ保身の理屈をこねようと金は無くなる。私が何の為かもわからないがとりあえず周りがしているからという積極的ことなかれ主義によって貯めていたなけなしの貯金も、もうすぐ底をつく。この問題だけはどれだけ居心地がよかろうと解決出来なかった。

 これは私が直ぐにでも彼女を追い出すことをしなかったことによる問題の複雑化によってもたらされた葛藤であるのだ。故に保身とは私を加害者と見る無責任な世間ではなく、私を自業自得と見る呆れ果てた観測者に向けたものであった。

 考えれば考えるほど、解決は困難を極めるどころか最早手遅れにさえ思えた。

 尚、その解決もまた、至極容易なのだと直ぐに思い知らされた。


「爽さんにばかり働かせているので、そろそろ私も働こうと思います」


 彼女は本──今日はかの有名な『コモン・センス』であった。訳は小松晴雄氏であるが、いつ読んでいても前置きの"以上はいずれもジャーナリストとしてのペインの偉大な筆の力を示した名文であるが、訳筆がこれに及ばなかったことを思い、ただただ恥じ入るばかりである"という余計な保身にイラ立ちを覚える。これを同族嫌悪と呼ぶ──を置いて顔を上げた。

 彼女の表情は至って真面目であり、冗談を言っている風でもなければ、いつもの突飛なことを言い出す風でもなかった。

 それは思ってもみない海流であり私は途端に心臓が活発に動いたのを感じた。しかし、『都合が良い』というのは程度によっては不信感と不自然さを孕んでいるものだ。当然、私は訝しんだ。


「どうしたんです、突然」

「暫く暮らしていて、爽さんに私を養う甲斐性は無いと分かりました。冷蔵庫から消えた発泡酒が今の困窮具合を表しているのも非常に見苦しいですし、私も働きますよ」

「養ってもらってる自覚はあるのに太々しいな。あと途中の下りは不必要でしたよね? というか、働くのはいいとして、住所とかどうするんですか」

「当然、ここの住所にします。ということで今日は転入届を出しに行きましょう」

「いや、めちゃくちゃ住む気満々……別に良いですけど。印鑑とかあるんです?」

「当然い……研究所を抜け出してきたとき保険証と転出届と印鑑は持ってきました」

「いま家って言いました?」


 やはり家出少女ではないか。

 我ながら見事な慧眼である。


「自分の生まれた場所を家と思うのはおかしいですか? ただ、あそこを家と呼びたくなかったので訂正したまでです」

 

 ううん、切り返しもまた見事。

 まさか家と言いかけたことを否定せずに人造人間設定を貫いてくるとは思わなんだ。顔色ひとつ変えず泰然自若たいぜんじじゃくに嘘をつけるその胆力に最早恐ろさを覚えた。

 ただし、人造人間に戸籍があるに留まらず、保険証や印鑑まである、というのは流石にやりすぎだ。ヴィクターもビックリである。そんなことが出来る研究機関に追われているのなら住所変更など自分が何処に居るか知らせるようなものではないか。

 最早彼女の言い分はかなり破綻していたが私は見ないフリをして彼女の手元にある本に目を移した。ハンスも言っていたが見ないフリは大人の専売特許なのだ。


「働くのはいいとして、どこで働きたいとかあるんですか?」

「家事もありますし、適当にパートとかバイトでいいかなと思ってるんで、特に希望とかはないですね」


 さも当然かのように語る彼女の姿勢に思わず感心した。流石、献身性を語るだけはあり、態度には表さないものの、そこには確かなねぎらいの精神があるように思えた。


「その点に関しては本当に感謝してます。貴女が来る前とは生活の質が一変しましたし」

「まあ、私が家事しなくなったら元の木阿弥もくあみでしょうけどね。そうなると私も困るので、週三くらいで夜短時間のバイトにしようかなと」


 あくまで自分の為というスタンスは崩さない彼女だが、泰然とした態度とは裏腹に内心少し恥ずかしがっていることを察した。二月ふたつきが経過しても、なお私達は全くの他人であるかのように感じていたが実際には彼女のことを少しづつ理解し始めていることを実感した。永遠に感じた理解の距離は、知らず知らずのうちに少しの関心や共感によって表情を窺えるまで縮まっていたことに内心驚いた。


「良いんじゃないですか? そうしたら、土日の休みは私が洗濯掃除するので、平日は任せても?」

「やっ爽さんは何も触らないで下さい。余計なことをされては困ります。夜中の暇でスマホ見てるだけの時間をなるべく減らしたいって感じなので昼間も暇にされると本末転倒です」

「そうですか。まあ、大変だったら遠慮なく仰って下さいね。正直……私としても……その……優実さんとの生活を気に入り始めてますので。あまり無理はさせたくありませんし」

「お気遣いありがとうございます。ただ、生活力皆無の人間に自分の住む家を弄られる方がよっぽど出て行きたくなりますから、本当に余計なことしないで下さいね。やってあげようかな? みたいな変な気すら起こさないで。度合いで言えば天候が荒れた日の埼京線くらいのストレスがかかります」

「流石に言いすぎだろ」


 埼玉県民ジョークは中々上手いが大変遺憾である。

 私だって掃除くらいは出来る。


「私だって掃除くらいは出来る、みたいな顔しても駄目です。出来ないから私が来る二月ふたつき前まで汚部屋だったんでしょ」


 二週間ほど前から始まった工事の音が今日も喧しいなと窓の外に視線を向けた。


×××


 人造人間の居ない自宅でハッとした。

 初めは一人になりたくないと言っていたのに働き始めたらどうしても一人になるではないか。どうしてこんな単純なことに気が付かなかったのか。

 しかし、直ぐに納得のいく答えが見つかって猜疑心は霧散する。

 彼女は誰かに見つかることを怖がっていたのではなく、一人になるのが怖かったのだ。その理由は開幕見当もつかないが、一つ屋根の下に流れる時の中にそれとなしに漂う感覚で覚えがあった。この感覚を言語化するのは私にとって非常に困難なので、欲しい。

 だが彼女の心配も解消されたようである。それもまた彼女が明言した訳ではないが、何となく察してはいた。外側から彼女を見ていると、まるで奇妙な平行線の上で安定しているかのようであったが、実のところ僅かながら変化していた、ということである。なるほど、彼女の行動は問題を先送りにして複雑化させる私とは異なり、なるべく単純な段階で解決するようにしているようだ。今思えば彼女は意図的にそれを行なっている節があった。これもまた、何となく察せていたこと、ではあるが。


 しかし、この「察する」というのは極めて不可思議だと思った。いや、私が言語化しきれていない為に不可思議になってしまっているのかも知れないが、仮につぶさに精査して正確に明文化されたとしても素直に納得できるとは到底思えなかった。

 ふと、今日彼女が読み終えた18世紀最大のベストセラーが気になって視線を移した。常識の名を冠するそれは正に我々の「察する」をつまびらかにしたかの如き物言いをしていたな、と思った。それは歴史によって担保された説得力を有しているが、それはあくまで現時点に於ける歴史であり彼らの常識とは現時点での「察する」であるに相違ない。本文冒頭にて"物事を間違っていると考えようとしない長い習慣によって、すべてのものが表面上正しいかのような様子を示すものだ"とトマス自身が明文化しているように、彼もまた間違っていると考えるべきなのだ。そしてそれを我々の「察する」に当てはめて考えておくべきであり、また、同時に、日常的に感じている情動に於いても同様であるということを自覚するべきなのだ。


 私は「ああ」と思わず呟いた。

 これが真に常識であるならば、人造人間の住み着く、この安普請やすぶしんに漂うのは私の、私による、私のための乱暴な一意性をもつ「察する」であり、コモンではない。

 ならば、彼女が働くと言い出した時の態度は、もしかしたら自発なのかも知れない。

 無自覚にも私は私に王冠を被せては、彼女を檻に押し込めていたのかも知れない。

 現状が死滅回遊魚に訳だ。

 私は深く反省し、彼女が帰ってきた時のためにご飯でも用意しておこうと立ち上がった。

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人造人間はドリーの夢を見るか? こあ @Giliew-Gnal

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