上峰加奈子の条件
卯月白華
暁を招いた先が何も無くても
自棄を起こすのだけは自制しないと。
彼女はそう自らに何度も何度も言い聞かせていた。
墓前に誓ったことを実行するため。
そのために今にも焼き切れそうになる理性の箍を、ただただ繋ぎ止める事だけ考える。
そうしないと、彼女は年甲斐もなく無様に泣き喚いて、際限なく滅茶苦茶に暴れ出しそうだった。
春の始めの夜に降る雨が、火照った全てを冷却してくれることを祈りながら、顔を豪然と上げる。
重苦しい闇だけが広がっているのを不思議に思えば、いつのまにかどこかの静謐な社前に佇んでいた。
物音一つしない背筋が凍るような沈黙の中、音もなく滴る雨。
気がつけば息が白い。
重くなっていた服をまとった腕を動かし、手先の感覚が無くなったのを確認した時、彼女の顔が歪んだ。
誰かが心配そうに見つめているのを感じながら、その視線から逃げるように自らの根本へと思考を向け続ける。
真っ先に浮かんだのはいつも湧き上がる疑問。
理由を誰も教えてくれないけれど、人の中で生きていくにはとても頭を悩ませる問題。
基本的に、肉の類いが苦手。
虫だって殺せない。
生き物を積極的に食べることも殺すことさえも出来なかった。
更に頭が混乱する要因は、彼女の父方も母方も狩猟免許を持つ者が多かったが、双方で感覚も考え方もまったく違うところ。
父方は、強い獲物を追って狩るのを愉しんでいるものばかり。
いわゆる「トロフィーハンティング」を主としていた。
自動車が軽く買える大金を、躊躇もなく何度も何度も投入し、わざわざ海外ばかりへと飽きることなく出向くのだ。
戦利品となる狩った動物の一部も必ず持ち帰るから、「トロフィー」ハンティング。
彼女は父方の集まりへと、自らの母に拒否を許されず連れて行かれるのが常だった。
父方の一族の人達が、それはそれは嬉しそうに相貌を崩しつつ、死にたての獲物と写る見事な笑顔での写真。
一族が集まる度、新しいものから古いものまで多種多様なそれを、誇らしげな様子で皆に代わる代わる見せられた。
いかに追い詰めたのかという自慢話を、酒も入ってこれでもかと皆が盛り上がる中、心の中心が冷えていく。
一生懸命相槌を打ちながら、愛想笑いを目一杯浮かべはしても、正直に言えば心底苦手。
それでも父方の一族の輪に入るのは、自らこそが要だと分かってしまっていたからだった。
母方の住む場所は、曾祖父の代で集落ごと移転したとはいえ、見渡す限り深い深い山の中。
昔から必要な分を必要なだけの猟。
最近は畑を守る為にという理由が多かった。
出来得る限り無駄にしないよう、仕留め方や処理もこだわっている。
だからだろうか、彼女でも食べられることが通常よりわずかだけれど多かった。
皆が集まれば、皆で獲った肉を食べるのが常。
母方はいかに美味しく食べるか、という事を多大に気を遣うものばかり。
せっかく命を頂くのだから、エゴかもしれないけれど感謝して美味しく食べる、というのを信条にしている一族だった。
父方のように剥製を飾っているのを見た事は一度も無い。
母方で実の母以外に身体が強張る相手が居ないからだろうか、ただ共に過ごすことだけだったとしても、彼女は居心地が抜群に良かったのだ。
御神木を皆で見ながらの広い広い縁側での談笑。
それが何より心から楽しかった。
母方の家族が作った野菜で漬けた漬物の味さえ、それこそ容易に蘇る。
何故自分を要のように皆が扱うのか首を傾げながらも、母方で過ごす事は心躍るほど大好きだったし、なにより彼女にとっての紛れもない唯一の救いだった。
それこそ理由は微塵も分からなかったが、一緒に居たとしても、彼女は何故か父方には違和感が亡霊のように付きまとう。
父方母方、どちらも皆が宝物のように接してくれているし、自らも心から双方が大切で大事なのだが、どうしても、そう、本当にどうしても、彼女は父方の誰と居ても、溺れているのかと錯覚してしまうくらいには息苦しい。
まるで酸欠の出られない綺麗な鳥籠。
世話を丁寧にされればされるほど、透明な何かが呼吸を阻害する。
スズメ。
小鳥の雀。
従兄が、羽を綺麗に毟り取って、産毛も丁寧に焼いて、内臓を取ったら炭火でタレに漬けてからこんがり焼いてくれた雀。
曾祖父は雀を獲るのが抜群に上手だった。
三人で囲炉裏を囲んで食べたのを、今、不思議と思い出す。
あの、きちんと鳥の姿のまま焼いた雀。
正に焼き鳥になった雀。
骨ごと食べられた雀。
何故だか分からないけれど、確かに美味しかった。
どうしてかも分からないけれど、売られている家畜の肉は吐いてしまうから、肉は食べ慣れないにも関わらず、染み渡るように美味だった。
命を間違いなく頂いているのだと思った。
食べても苦しくなかったのだ。
そうは思っても、母方が自分の為に獲ってくれたものでさえ、肉を食べれば吐きこそはしないけれど、ナニカ得体のしれない澱を感じてしまう。
食べる事が出来ても消化できない感覚が微塵も消えない。
母方が獲ってくれた以外の肉は、食べる事はおろか見る事さえ拷問を受けている様に苦痛だったけれど、それでも申し訳なくて申し訳なくて、心から悲鳴が消えなかった。
これも、母方から足が遠のき始めた原因の一つになったのはいつからだったか。
彼女は大きく息を吐き、遠い温かな団らんを追い払う。
これからの彼女がすることは、父方の十八番。
即ち、獲り難い獲物を冷静に追い詰め、冷酷に狩る作業。
ただ無残に殺すための狩り。
なにか小さな虫でさえ、殺した後は悪寒と吐き気が止まらず、高熱に彼女は何日も魘された。
それでも確実に仕留める。
例え自らが木っ端みじんに壊れても。
元とは似ても似つかぬ何かになり果てても。
死んだ誰かの為だなんておためごかしは一切いったりしない。
彼女が彼女として立ち上がる必須条件。
だから一片の躊躇も無く殺すのだ。
彼女を恐らくは止めるため、雨宿りをさせてくれた社の主へと深く深く礼をして、雨に煙る澱んだ闇へと、すべて諦めそうな自らに鞭を打ち、泥が跳ねるのも気にせず真っ直ぐに歩み出す。
上峰加奈子の条件 卯月白華 @syoubu
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