焼き鳥と老人と罪
日乃本 出(ひのもと いずる)
焼き鳥と老人と罪
「どうぞ、一杯」
「や、申し訳ありません……」
俺の隣に座っている老人に酒のおかわりをすすめると、老人は小さなその背をさらに小さくして、悲しそうに会釈をしながら、空となったグラスを目の前に置いた。
俺は空になったグラスに酒を注ぎながら、改めて老人の姿を見直した。
なんの変哲もない、ただのくたびれた老人に見える。
だが、この老人からは、うまく言葉で言い表すことのできぬ、常人とはかけ離れた異質なモノを感じるのだ。
盛り上がる焼き鳥屋の店内の隅に、まるで誰も足を踏み入れてはならぬテリトリー――いうなれば、この世であってこの世でないような、そんな隔絶されているような場所で、一人で飲んでいたこの老人。
そんな老人に、俺は興味をもった。
何か、この老人は、とてつもない人物ではなかろうか。
だからこそ、俺はあえて老人の絶対的なテリトリーに足を踏み入れた。
それが老人にとって失礼なことではないかと思ったが、別に老人は嫌がる素振りを見せることなく、無言で俺を迎え入れてくれた。
そして俺は老人の横に座り、こうして酒を飲んでいる。特に言葉を酌み交わしているわけではない。ただ、酒を酌み交わしていた。
なんとなく、言葉など必要がない気がした。俺のこの感覚は正解だったようで、老人も、ただただ無言で酒を飲むだけだった。
俺が老人の隣にきて、どのくらいの時間がたったろうか?
「おまちどう! 鳥皮につくね! それに軟骨に日本酒二合ね!」
焼き鳥屋の大将の威勢のいい声と共に、先ほど注文していた焼き鳥串と酒が目の前に並べられた。そのうちのいくつかの串を老人へと差し出す。
「よかったら、食べませんか?」
老人は、何も食べずにずっと飲んでいた。それが気になって、お節介かと思ったが、老人の分まで串を注文していたのだ。
「ああ……これはこれは……どうも、すみません……」
断られるかと思ったが、そんな心配は杞憂だったらしい。老人は、先ほどと同じように、悲しそうに会釈をし、俺から串の皿を受け取ってくれた。
それからは、また、無言の時間が流れた。
俺はいったい、何がしたいんだろう。
俺はいったい、何を求めてこんな老人の横で飲んでるのだろう。
少々、自虐的な笑みが俺に浮かんだところで、
「実は……わたし、人を殺してしまったんですよ」
と、老人がとてつもないカミングアウトをぶっぱなしてきた。
「え、えっと、ほ、本当ですか?」
おずおずといった口調で俺が聞くと、老人はまたしても悲しそうに会釈をし、
「ええ、本当です……もう、五十年も前になりますがね……」
手に持った空になったグラスを見つめながら、遠い目をして言った。俺は空になったグラスに酒を注ぎながら聞いた。
「五十年前、ですか?」
「はい。五十年前です。わたしはその罪で終身刑となり、一か月前に出所したばかりなのですよ」
「そうなんですね……」
まったく、人は見かけによらないとはいうが、この人のよさそうな老人が人殺しなど、まったくもって想像ができない。
だがまあ、この老人が異質な空気をまとっている理由はわかった。しかし、この後、どのように会話を構築していけばいいものか。俺が二の句が継げないでいると、
「こうして、あなたが横に座られなさったのも、何かの縁。少し、お話を聞いていただいてもよろしいでしょうか……?」
「あ、はい。俺なんかでよければ……」
俺がそう言うと、老人はありがとうございますと悲しそうに会釈をし、グラスの酒を一口飲んだ。そしてグラスを置き、遠い目をしながら語り始めた。
「わたしが人を殺してしまったのは、わたしがちょうど二十歳になった時の日です。わたしの誕生日。仲のいい友人たちが、赤ちょうちんでわたしのお祝いをしてくれたのです。そう、ちょうどこの店のような雰囲気でした」
老人の一言を聞き、辺りを見回す。ざわざわと楽しそうな声をあげながら酒や焼き鳥を楽しんでいる人々。五十年前とはいえ、焼き鳥屋の雰囲気というものは変わらないものなのだろう。
「酒もすすみ、いくらか酔いもすすみ始めた頃、友人の一人に、他の客が絡み始めました。最初は口喧嘩程度だったのですが、酔いが友人の気を大きくしてしまったのでしょう。友人がその客を殴ってしまったのです。するとその客は懐から匕首を取り出し、友人に向かって突き出してきました。友人はなんとかそれをかわしたのですが、足がもつれて転んでしまった。わたしは、とっさに匕首を持った客に体当たりをしたのです」
老人はグラスを両手で握っていた。こころなし、その両手は震えているようだった。
「わたしは、体当たりをした客ともつれるように転がりました。気がつくと、わたしの手には匕首が握られ、その匕首はその客の心臓のところに刺さっていたのです」
「それは……」
なんだそりゃ。友人を守ろうとした結果、自分が相手を殺してしまったということか?
「わたしはすぐさま駆けつけてきた警官に逮捕され、すぐに裁判にかけられました。そして終身刑を言い渡され、五十年間服役をしていました。しかし、最近、人権派とかいう弁護士の団体が、わたしの仮釈放運動を起こし、わたしを刑務所から出所させたのです」
「それは、よかったですね――――」
「ちっとも、よくなんかありませんよ」
「へっ?」
まさかの返答に、思わずすっとんきょうな声を出してしまった。
「わたしはね、あのまま刑務所の中にいたかった。考えてみてもごらんなさい。二十歳の頃から五十年間、わたしにとって、刑務所こそが家であり、世界だった。刑務所の中では、皆がわたしを長老と敬ってくれた。わたしでもなんとかこなせる仕事があった。しかし、外の世界は違う。わたしを、前科者の役立たずの老人としか見てくれない。そんなわたしに、まともな仕事なんてない。世界が、わたしを受け入れてくれない。わたしも、そんな世界が受け入れられない」
確かに、そう言われてみると、そうなのかもしれない。
「弁護士連中は、わたしの釈放を勝ち取ったことだけを手柄にして、その後は知らんぷり。言うなれば、わたしは、わたしが生きていける唯一の世界を奪われてしまったのです。まったく、変な話です。最初は刑務所の壁が憎かったのが、刑務所に壁があるから安心するようになるなんて。終身刑っていうのは、本当にひどいものです。人間の心を、じわじわと殺していく。こんなみじめな思いをするくらいなら、いっそのこと、二十歳の頃に死刑にでもなってたほうがマシだったのかもしれない。だからわたしは、今日、ここで一杯やってから、旅立とうと考えていました。すると、あなたが横に座ってくださり、こうして話を聞いてくださった。思い残すことなど、ありません」
悲しそうに会釈をする老人に、俺はなんと声をかければいいのだろう。そんなこと言わないでください、生きてればいいことありますよってか? だが、そんな言葉など、老人の心に何も響きはしないだろう。
老人は、グラスの中に残っていた酒を一息に飲み干し、すっくと立ちあがった。
「お勘定、ここに置いておきますから……」
そうして老人がグラスの横に置いた紙幣は、哀しくなるほどにくしゃくしゃだった。まるで、それが老人の最期の篝火のように。
老人は歩き出し、店の入り口の戸に手をかけた。ゆっくりと、俺へと振り返り、そして悲しそうに会釈をし、入口の戸を開けて、入り口の先に広がる闇の中に、消えていった。
焼き鳥と老人と罪 日乃本 出(ひのもと いずる) @kitakusuo
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