9.
視界の端で、ふらりと立ち上がる蓮が見えた。反応するよりも早く、乱暴に肩を押され、バランスを崩した身体は床に倒れこむ。文句を言う間も無く、覆いかぶさった蓮の手が、首に伸びた。
「ッ、ぐ」
締まる喉が、呻き声をあげる。はく、はく、と息を求めて口が開いた。滲む視界に映る彼の顔は無に近く、そのくせ瞳は揺らいで、それでいて感情のままに動く獣のようにも見えた。手をどかそうと蓮の腕をつかんでも、体重がかかっているせいでビクともしない。
「柚」
恐ろしいほど静かに、名前を呼ばれる。つい、と細められたつり目がちの瞳がこちらを射抜く。そらした瞬間、喉笛に噛みつかれそうな、そんな瞳だ。
「柚、お前知ってたんだろ、知っててずっと黙ってたんだろ」
「…ぅ、」
「なあ、あの日からずっと何考えてた? 俺のこと何も知らない馬鹿だって笑ってたのか?」
「ぃ、がう」
「何が違うっていうんだよ! 俺が思い出さなかったら、黙ってる気だっただろ!」
言葉を浴びせられる度に、首が絞まっていく。体重をかけて、徐々に、徐々に。こいつが混乱でこんなことをしているだけだというのはよくわかってる。殺意があるわけじゃない、父親の模倣をしているだけなんだ。ああ、頭が白くなってきた、それでもダメだ、俺はお前を助けないと。俺は「共犯者」なんだから。
首を絞める手に、思い切り爪を立てる。
「っ痛!」
びくり、と力が緩んだところで、勢いよく起き上がり頭突きをかます。鈍い音がして、ようやく手が首から離れた。
「かはッ、……っは、は……」
急激に空気を取り込んだ肺は、速く強い鼓動に追いつけず荒い息を漏らす。
「……れん、」
「ごめんっ、ごめん柚! 痛かったよね、そんなつもりなくて」
震える身体で咳き込めば、我に返った様子の蓮が慌てた顔で上から退いた。そういう顔、初めて見たな。口の端を歪めて、笑ってやる。
「はっ、馬鹿力め」
それを見た蓮が脱力したように座り込んで、片手で顔を覆う。肩が小刻みに揺れていることから、呆れたように笑っているのがわかった。言葉の意味が伝わったようで何より、と深く息を吸った。
「……お前、そういうとこ本当にどうかと思うよ」
「なんてったって共犯者だからな、俺は」
からりと笑って身体を起こそうとすれば、蓮の手が伸びて支えられる。
「そんなに寛大なもんなの、共犯者って」
「バーカ、俺が特別なんだよ」
俺だけは、特別だ。裏切ることなんて、絶対にしない。
「でも、お前が抵抗らしい抵抗したのって、今が初めてだ」
「いつも口八丁で押し切られるからな、拒否すると面倒だし。なんだ、不満か?」
「違うって、なんとなく、嬉しかったんだよ」
はあ、と首を傾げれば、わからないよね、と困ったような笑みを返される。幾ばくかの間をおいて、ぽつりと彼が言葉を吐き出した。
「俺は、さ。多分、お前に止めてほしかったんだよ、柚」
「……は?」
「でもお前、全部受け入れちゃうじゃん。仕方ないなって顔して。本当は嬉しいくせにね」
何だ、こいつは。何を言ってるんだ。眉を下げて、幼子にでも言い聞かせるような真似をして。俺がどれだけの思いで、あの夜お前の頼みに応じたと思ってる。ああ、何より、俺の感情が見透かされて、その上踏みにじられていることが、一番腹が立つ。
「だから本当は、死体を埋める時も、心の底では止めてほしかったのかもしれない」
「なら今までのこと、全て間違ってたってことか?」
「違う、間違いとかじゃなくて! 俺が甘えすぎてたんだよ、柚に」
「いいじゃねえかよ、それで。何の問題もねえだろ」
「これからはお前の意思も尊重したいって言ってんだよ、こっちは。全部思い出した。お前が黙ってた理由だって、もう知った。だから、もういいんだ」
真剣な顔でこちらを見つめる彼に、ぐ、と言葉がつまる。確かに、俺がもう助けて、隠して、誤魔化す必要なんてないのかもしれない。それでも、お前の頼みなら聞いてやりたい。そうして、自分が唯一無二で、価値あるものだと思っていたい。そんなことを、言えるわけがない。だって、それは俺のエゴだ。
「……今更だろ、そんなの。俺は俺の意思で、協力してるんだ」
「嘘つき、嘘つきの頑固者」
「うるせえ、女たらし」
互いに幼稚な言い合いをして、それから溜息をついた。
「……もういい、腹減った。飯食う」
空咳をしたり、喉を気にしたりする様子を見せる度に傷ついたような顔をする蓮が見ていられなくて、さっさと寝てしまうことにした。どうせ明日も顔を合わせるのだから、今日くらいは、と全て後回しにして目を閉じた。しばらくしてこちらの様子を伺う気配がしたが、何かを言われることもなく、そのまま眠りに落ちる。幸いなことに、夢のひとつも見なかった。
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