【後夜祭~祭りが終わったその後で~】
楽しかった学校祭も、終わりの時を迎えようとしていた。
耳障りな程に合唱を奏でていた油蝉のけたたましい
クラスの催し物で使った小道具を用具室に片付けたあと、体育館に至る廊下まで足を運んだ。
廊下の窓は、ところどころが開いていて、時折吹き込んでくる風が、くすぐるように頬を撫でる。一般客がいなくなった空間は静かだ。それでも耳を澄ませば、遠くからざわざわと華やいだ人の声が聞こえてくる。
目が回るような忙しさから解き放たれると、ごく自然にこれから先のことを考え始める。とたんに、ぞくりと身震いしそうな物寂しさに襲われた。今からこんなことでどうするんだ、と不安で縮みあがりそうな心を叱咤する。
ふう、ダメだダメだ。
気を紛らわすように他クラスの作品をひと通り眺め歩いたのち、僕たちが手がけたクラスアートの前で足を止めた。
作品タイトル『
二年B組のクラスアートが金賞を受賞した、という報告がもたらされたのは、一時間ほど前の話。
この結果報告に一番喜んでいたのは、間違いなく稔だった。『美術部部長である僕が手がけたのだから、当然の結果だ。もし、金賞以外だったなら、職員室に問い質しに行くところだった』と彼は、本気とも冗談ともつかぬ顔で、鼻息も荒く宣言した。実際、彼の自尊心を満たすには最良の報告だったのだろう。
これでようやく、と僕は思う。土壇場で作品に手を加えたという罪悪感から解放される。そう安堵しつつも、『お前って部長だったんだな』と初耳だった僕は、訊ね返さずにいられなかったが。
水瀬と木下も抱き合って喜んでいた。
なんの躊躇いもなく、彼女が抱きついて来たのが余程嬉しかったのだろう。木下は、頭から湯気が出るんじゃないかと思うほど顔を赤らめつつも、水瀬の背中に艶かしく指先を滑らせた。恍惚とした表情から一転、意味ありげな視線を向けてくる。その視線にこめられた真意を一人理解できている僕は、苦笑いする他なかったが。
実行委員の中で唯一、徹の姿だけ見当たらなかった。『さっきまで居たと思ったんだがな』と稔が首を傾げた。
のちほど見かけたら、彼にも結果を報告しておこうと思う。
ちなみに開票の結果はというと、生徒、父兄双方から、二年B組がトップの票を獲得。二位以下の追随を許さぬ独走だった。選考員からつけられた選評も、ほぼべた褒めの内容だった。文面を、声を揃え読み上げて、みんなで喜びを分かち合った。
一日は、それこそハイテンションを維持したまま、あっと言う間に駆け抜けて行った。
とても楽しかった。
だが同時に、祭りが過ぎ去った後に感じる、なんとも言えない
思考が現実に戻ってくると、否が応でもわきあがってくる感傷に、心の奥深いところがきゅっと音をたて軋んだ。
ふう、とため息を落としたそのとき、「翔君」という僕を呼ぶ声が、静かに鼓膜を叩いた。
綺麗な響きを放つソプラノの声。振り返ると、そこには水瀬がいた。
不意に窓から吹き込んだ風が、抱擁するみたいに僕たち二人を包み込んだ。水瀬は少しだけ首を傾げると、スカートの膝上あたりをちょん、と指でつまみあげた。
「宜しければ、後夜祭も、あたしとご一緒していただけないでしょうか?」
目を細め、水瀬が静かに笑う。どこか余所行きの仕草に、僕も釣られて笑いそうになる。
「そうだね、僕たちの最後の祭りを楽しもうか」
彼女の告白に応え、手のひらを上にしてスっと差し出した。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
二人の手のひらが綺麗に重なると、高くて澄んだ水瀬の声が、廊下の空気と交じり合って溶けた。
◇◇◇
後夜祭の会場となっているのは、陸上競技場を兼ねた校庭だ。昇降口を出た僕と水瀬は、まっすぐ会場を目指した。
校庭の中心部では、ファイヤーストームが行われていた。大掛かりに火をおこす関係上、消防署への届出も必要となるらしく、思った以上に準備は大変なのだという。
七月の暑い最中によくやるわ。準備段取りに追われたであろう生徒会執行部の面々、お疲れさん。火を囲み、奇声を上げ続ける男子連中に目を向ける。
「暑そうだよね」
水瀬が炎を見やり呟く。
「暑そうだねえ」
同じ言葉で返すと、二人で顔を見合わせて笑った。
校庭の、校舎寄りとなる一角には、特設のステージが組まれていた。その壇上で披露されているのは、生徒ら有志による演目。
ファイヤーストームを囲んでいる人の輪から少し距離を置き、ステージに目を向けている人波の最後列辺りに二人並んで座った。
後夜祭の会場は、様々な喧騒で満ち満ちていた。炎を囲み、肩を組んで意味不明な歌を口ずさむ者たち。ステージ上で披露されている演目に熱狂し、声を張り上げる者。それぞれが、思い思いの方法で盛り上がっている。
そういった、喧騒に紛れて聞こえてくるのは、発電機が規則正しく奏でる鈍い音。発電機から伸びた投光器が、柔らかいオレンジ色の光をステージの中央に投げかけていた。
ステージで披露されている演目を、二人で鑑賞した。
演目の内容は実に様々だ。
即興で、教師の物真似をする者。コンビを組んで、漫才を披露する男子。ギターを抱え、しっとりとした弾き語りをする女子生徒。正直なところ完成度は総じて微妙なものだが、僕たちはその全てに、暖かい拍手を送っていった。
やがてステージの中央に、様々な音響機材が運び込まれてくる。エレキギター。ベース。複数のパワーアンプにドラムセット一式。演目の大トリを努める、二年生四人によるバンド演奏が始まるらしい。
「翔君は音楽とかよく聴くの?」
「う~ん……。あんまり興味ないかもな」
「そうなんだ……」
水瀬の声は、少し残念そうだった。
「良い音楽なんていっぱいあるんだから、色々聴いておかないと勿体無いよ」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんだよ」
「そういう水瀬はさ、普段、どんな音楽を聴いているの?」
「あたし? ん~……言っても笑わない?」
「笑わない笑わない」
「ほんとかな? 二回言うあたり、心がこもってなくない? まあいいや。あたしはね、甘~いラブソングが大好きなの」
彼女の放った『大好き』の一文字がやたらと鮮明に耳に響く。『違う。僕じゃない。音楽に向けた言葉だ』と、意想外に暴れ始めた心臓を必死に宥めた。
「ラブソングとか、なんか意外だね」
笑ったという自覚はなかった。だが、意図せず口角があがったんだろう。
「ほら、笑った酷い!」
と水瀬が頬を膨らませてこっちを見た。だがすぐに、「でも」と、どこか誇らしげに胸をはる。
「色々な恋のかたちを学ぶには最適なのよ。こう見えてあたしは、恋に恋する女の子なのです」
「それって、恋愛対象である相手のことが好きなのではなく、『恋をすること』自体に憧れる。若しくは、恋愛することで変化する自分自身に酔いしれる。そんな意味なんだけど」
からかうようにそう言うと、「あれ?」と眉間にしわを寄せ、水瀬が首を傾げる。
「じゃあ、誤用かな?」と呟いた後で、慌てたように口元を覆い隠した。
「水瀬は知的好奇心が旺盛なんだね。なんだか哲学的だ」と僕が言うと。
「普段、人前で話さないぶん、心の中では、一杯、一杯、お喋りしているからね」と彼女は返した。
本当に、そうだね。
よく無口な人、なんて言葉を耳にする。
でも……心の中でまで無口な人、というのは存在しない。みな、心中ではお喋りなのだ。それでも無口になってしまうのには、様々理由がある。
単純に、喋るのが面倒だから。
自分に、自信が持てないから。
周囲の声を気にしすぎるから。
辛い、過去の記憶や経験が尾を引いて、喋ること自体に抵抗を感じてしまうから。
どんな理由を抱えていたとしても、無口になっている元凶が解消さえすれば、人はみな、素直に言葉を発することができるはずなんだ。
ここ数日、水瀬がよく喋るようになったことにも、きっとなにか切っ掛けがあったんだろう。
願わくば、それが──。
「ひどーい、また笑った! ……そんなに、あたしの言ってることおかしいかなぁ?」
「いや、全然変じゃない。むしろ、凄く良いと思う」
言った後で、あれ? と困惑が頭の中で首をもたげる。彼女が言っている『おかしいかな』は、いったいどの発言に掛かっているんだろう? 僕としては、『水瀬がお喋りになったこと』を『おかしくない』と言ったつもりだったが、彼女の解釈は違っているんだろうか?
色々なことを聞き逃しすぎたな、と後悔が頭を過ぎる。
ラブソングを聴くことを、意外だね、と笑った件?
哲学的だねとからかったこと?
恋に恋する、が誤用だった話? いや、でもそれじゃまるで。
正直に訊くしかないか、と考え直し隣の水瀬に目を向けると、彼女もこちらを向いていた。
二人の瞳が正面からぶつかる。彼女の澄んだ瞳のその奥で、映り込んだキャンプファイヤーの炎が情熱的に揺れ動いた。
言いたかった台詞が、
結局、どんな意味だったんだろう。疑問だけが宙ぶらりんになっている。が、生産性のない思考はそのまま飲み干した。
ぎこちなくも、水瀬は笑っているんだから、きっとこれでいい。二人の間で交わされる言葉が足りなかったとしても、今はこれでいい。
ちょっとした言葉の選択ミスや解釈の違い。そんな些細なことで一々怒ったり泣いたりするほど、今の彼女は弱くなんてないから。
その時不意に、ステージの照明が落とされた。
突然落ちてきた暗闇に、驚いて水瀬が僕の腕を掴んだ。
左腕に伝わってくる柔らかい感触に心臓が大袈裟に飛び跳ねる。僕も驚き身じろぎをしたが、水瀬が離れる様子はない。暴れ出した鼓動を必死に宥め、ステージに視線を移したそのとき、視界に光が戻った。
投光器の、淡い光が照らし出したのは、四ピースバンドの姿。
ドラムセットに腰掛ける、ガタイのいい男子。ギターを抱えたショートボブの女子生徒。ベースを抱え、クールに佇む男子生徒。
そして、中央に立っている四人目は、よく見知った人物だ。
おそらくは、ボーカルであろう金髪のそいつが、マイクスタンドを手繰り寄せてマイクを外した。
「え!? 徹!!」
「びっくりした……。翔君は、このこと聞いてたの?」
「いや……まったく聞いてない」
ここ最近、徹の奴が早めに作業を抜け出していたのはこの為だったのか、とようやく気がつく。追い込みの時期なのにサボるなよ、と咎めても徹は曖昧に笑うのみで、稔もたいして突っ込まないからおかしいとは思ってたんだ。
きっとその時、練習をしていたんだろう。いや、その時だけじゃないのかもしれないが。
ボーカリストに扮した徹は、観覧している生徒にぐるりと視線を巡らしたのち、ゆっくりとした口調で話し始める。
きいん、とマイクが反響する音を立てた。
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