最終章:たなばた祭り

【たなばた祭り(たなばたまつり)】

 七月の三週目となる土曜日。学校祭──通称『たなばた祭り』の当日をむかえていた。

 空は、天気予報どおりの快晴。

 朝のホームルームが終わり、今日一日の段取りと役回りについて、クラス全員で粗方あらかた確認を済ませた。準備万端のはずなのに、僕は朝からずっと気もそぞろだった。一人で教室を出ると、体育館まで至る長い廊下に足を向けた。ここは、クラスアートの展示会場となっている場所だった。

 各クラスの作品を順番に眺めて回り、二年B組のクラスアートの前で足を止める。自分は殆ど手をかけていないのにおこがましい話だが、我がクラスの出来はお世辞抜きでいいと思う。

 それでも、もし不安要素があるとしたら……。


「……さっきから、何をやっているの?」


 そのとき、背中から声が聞こえる。振り返ると、両手を腰に当て、仁王立ちしている女生徒がいた。


「木下、か?」


 独特の低い声音から、木下だろうと推測し声を掛けると、嘆息ともため息ともつかぬ長い息を吐き、つかつかと足音を響かせ僕の隣に彼女がやって来た。


「当たり前でしょ。いい加減、私の声くらい覚えなさい。顔で認識するのは難しいとしても」


 悩んだ末に、自分の病の話を先日木下にも伝えた。彼女は驚いた様子を当初みせたものの、水瀬の事情も心得ているためか、受け入れるまではわりと直ぐだった。


「はい、すいません」


「いや、敬語はやめて」と軽い口調で笑ったのち、「もしかしてだけど」と斜め下から彼女が僕を見上げる。

 もっとも、僕と木下の身長はさして変わらない。それでも見上げた視点になるのは、彼女が腰を曲げて、クラスアートの中心部分を凝視しているせいだった。


「いまさら怖気づいたとか、そんな話?」

「恥ずかしながら、君の言う通りかもしれない。完成したクラスアートに手を加えた事で、金賞を逃してしまったらどうしようとか。そのことで、水瀬や稔が不満に感じてたらどうしよう、とか、悪い想像ばかり浮かんでしょうがないんだ」


 本音を吐露すると、大きな声で木下が笑う。


「前々から思ってたことだけど、本当に小心者なのね……別に金賞なんて、取れなくてもいいじゃない」

「いや、良くはないだろう」

「いいのよ。……それに、私は案外とこれ、悪くないと思ってるわよ」

「そうなのかな?」

「ええ。勝手な解釈かもしれないけれど、この絵を見て茉莉が泣いた時点で、私たちの勝ちかなって思ってる」


◇◇◇


 完成したクラスアートをクラスのみんなに改めて公開したのは、今朝のホームルームが始まる三十分ほど前のこと。クラスアートの両側に、緊張した面持ちで徹と稔の二人が立つと、ゆっくりと保護シートを外していった。

 ばさり、と音を立ててシートが床に落ちた瞬間、教室中が水を打ったように静まり返った。


 ──ダメなのか……


 落胆から、肩と視線を落としそうになったそのとき、小さな拍手の音が聞こえてくる。それは次第に、より大きな拍手の波へと変わっていった。絵画に対して拍手が送られる光景を、僕は、生まれて初めて目にしたのかもしれない。

 傍らにいた水瀬に視線を向けると、彼女は両手で顔を覆いしゃがみこんでしまった。

 クラスのみんなから送られた拍手に感動したのか。それとも、僕の”秘策”が功を奏したのかはわからない。でも、そんなことはきっと、些末な問題だ。


『嬉しい時に、涙って出るんだ……』 


 彼女がそっと呟いた、その言葉だけで充分だと思った。


◇◇◇


「そうだったね」と僕も笑う。「木下の言葉で、なんか楽になったよ」


 クラスアート実行委員四人が伝えたかったメッセージ。きっと水瀬にも届いていた。それは、彼女が今朝流した涙からも明白なんだ。あとは結果を待つだけ、と気持ちを切り替え立ち去ろうとした僕を、木下が呼び止めた。


「ねえ、早坂」

「なに?」

「茉莉のこと、幸せにしなさいよ」

「え? 良いの?」


 恋敵こいがたきである木下の口からでてきた思いもよらぬ台詞に、思わず訊ね返してしまう。


「全然良くないわよ」

「どっちなんだよ!」

「良くはないけど、でも、しょうがないじゃない」と彼女は不満気に指を突きつけてくる。「茉莉と……その……あれよ。キスしたんでしょ?」

「あ……うん」


 はい、しました。しかもそれなりに濃厚な奴を。これは流石にバツが悪い。自分でも驚くほどの小声になった。


「その事、凄く嬉しそうに報告して来たのよあの子。まあ、最初から薄々と感づいてはいたけれど、茉莉は早坂のことが好きなのよ。……だったら、しょうがないじゃない。私、茉莉には笑っていて欲しいもん」


 いや、ちょっと待って欲しい。いったい水瀬はどんな報告を木下にしたんだろう? 嬉しい反面なんだか恥ずかしすぎる。だが同時に、彼女の言葉で納得した。だから先日、木下はあんなに不機嫌そうだったのか。


「返事」

 詰問するような木下の声。

「わかった。幸せにするよ」


 僕の返答を受け取ると、ふいと木下は背を向ける。

 振り返るとき垣間見えた彼女の瞳は、少し潤んでいるようだった。ごめん、木下。彼女への謝罪と水瀬に対する自分の気持ちを噛みしめたのち、僕も廊下を後にした。


 最初に割り当てられていた仕事はビラ配り。

 一般客が校内に入ってくると、僕は校門の前でクラスアートへの投票を促すビラを配っていく。


「頑張っているじゃない」


 耳に馴染んだ声だな、と思い顔を向けると、母親と妹の佐奈がいた。


「あれ? 父さんは?」

「あの人は今日も仕事。ほら、月に何度か土曜出勤の日があるじゃない。どうしても休めないんだって残念そうにしてた」

「そっか」

「なるほど。これに〇印を付けて投票すればいいのね?」


 僕が配ったビラを受け取って母親が言う。

 生徒会執行部が作ったビラには、各クラスで手掛けた作品のタイトルがびっしりと並んでいた。タイトルの脇に〇印を書き込む欄がある。ここに〇をつけてもらい、職員室側の投票箱に一票を投じてもらうのだ。


「翔のクラスの奴に、投票しとくわね」

「ダメだよ。ちゃんと全部見てから決めてね」

 僕が諭すと、母親は「はいはい」と言いながら佐奈の手を引き歩き出す。

「頑張ってね。おにーちゃん」

「おう」

 母親の口元が終止綻んでいたことにささやかな幸せを感じつつ、片手を大きく振る妹に笑って応えた。

「さて、と」


 ビラを配りながら考える。

 一通り配ってビラがなくなっても、次は、クラスで行う催し物である喫茶店の手伝いが待っている。午前中はスケジュールがびっしりのため、昼過ぎまで身動きが取れないのだ。水瀬と学校祭を一緒に回る約束こそ取り付けたものの、二人で校内を回れるのは午後になってからだろう。

 水瀬が今現在働いている、二階の窓をそっと見あげた。水瀬のウェイトレス姿、見たかったなあ。タイミングが合わないんだよね。


 数時間が経過して、時計が十二時を指した。

 ようやくスケジュールが空きが生じた僕と水瀬は、食堂で軽めの昼食を摂ったあと、二人並んで校庭に繰り出した。


「あれ? 確か、午後からもシフト入ってるって言ってなかったっけ?」と隣の水瀬に尋ねると、「朱里がシフト変わってくれた」と彼女が答える。


 おいおいマジですか木下朱里様。もうお前に足を向けて寝られませんな。

 ここまでお膳立てしてもらったからには、思いっきり楽しまなくちゃね。弾んだ心を隠すこともなく、水瀬の手を引き歩いて行く。恥ずかしそうに彼女は俯きつつも、握り返してくる手には力がこもった。

 校庭には幾つもの屋台が出店されていた。地元の商工会からバックアップを受けて実現した、生徒たちによる出店だ。

 最初に足を運んだのは、射的の屋台。

 水瀬に射的をやって欲しいとせがまれる。


「あたし、あのネックレスが欲しい」

「的が小さいよ」


 あんなの当たりっこない、そもそも射的苦手だから、と何度も断ったのに、彼女は意外と頑固だった。結局僕が渋々折れる。

 結果。数百円ほどお布施して終了。だから言っただろう、と僕が拗ねると、そんな顔も見たかったんだと笑われた。

 意外と水瀬は意地悪だった。


 綿あめを買ってみた。

 小遣いに限りがあるので、二人で一個だけだ。一個の綿あめを、二人で交互に舐めた。

 彼女の唇が触れたところを避けながら舐めていると、そんな細かいこと気にしなくていいよ、と笑いながら普通に舐めてた。

 思いのほか、女の子って大胆だ。


 三年生の教室で催されていた、お化け屋敷の前で自然に足が止まる。


「入ってみる?」

 と訊ねてみると、

「お化けでない?」

 と頓珍漢とんちんかんな質問を返してくる。

「そりゃ出るよ。お化け屋敷なんだから」

「えええ」

「もっとも、お化けの中身は人間だけどね。三年生の先輩だ」

 ん~……とひとしきり唸った後で、

「じゃあ、入ってみたい」

 と意気込み水瀬が拳を握る。

「大袈裟」


 まあ、結局のところ。彼女は僕の腕にしがみついてキャアキャア悲鳴を上げ続けていたわけなのだけれど。控えめながらもしっかりと質感を備えたふたつの乳房が、時折僕の腕に押し当てられた。

 完全に役得ですよ、これは。


「なんだか、ちょっとだけドキドキしたね」


 すいません。僕の方がもっとドキドキしています。



 二人で手を繋ぎ、学校内をどんどん歩く。既に開き直っているというか、僕らが親密な関係である事実を隠すつもりは毛頭なかった。

 行き交う他クラスの男子連中が、嫉妬と羨望の眼差しを向けてくる。その中に、かつて僕らが小学生だったころ、水瀬の悪口を黒板に書きなぐった三人をみつける。

 そいつらは、すれ違い様にちらりと水瀬に視線を送った。

 驚いたように、目を丸くしていた。

 今更気付いたって手遅れなんだよ、と僕は内心で舌を出す。水瀬の美しさと可憐さを見抜けなかったお前らの敗北だ。呪うなら、自分たちの見る目の無さを呪うといい。


 続いてやってきたのは、クラスの手伝いをしている途中なのだろう。ウェイトレス姿の女子生徒。

 水瀬が「朱里!」と声を掛けると、その女子生徒──木下が僕をじろりと睨んだ。たぶん睨んだ。

 自分でお膳立てをしてなお、胸中はやはり複雑らしい。怯えた子犬のように、僕は背を丸めた。

 いや、ほんとうにゴメンなさい。


 お祭りムード一色の中を、なんの目的もなくただ彷徨い歩く。二人で歩いていると、ひとつ発見があった。まわりの空気にあてられているのだろうか。いつもと同じであろう学校の景色が、とても輝いて見えるのだ。並んで歩いているだけでも楽しいと感じている僕の心を因数分解すると、これまで自分に欠けていたものが浮き彫りになってくる。隣に大切な人がいるという、ただそれだけで、世界はこんなにも輝いて見えるんだ。そんな、当たり前の感情ですら、きっと僕には欠落していた。


 各クラスの催し物を一通り見終わった昼下がり、僕は水瀬に「ちょっとトイレ」と告げて抜け出した。

 校庭の屋台めぐりをしている時に、水瀬の母親とばったりでくわしたのが、今から丁度三十分ほど前。母親は水瀬に声を掛けてクラスアートの展示場所を聞き出すと、そのまま体育館の方に足を向けた。

 文化系部活のパフォーマンスを一つか二つ観たと仮定して、きっと、恐らくそろそろだ。

 息せき切って走ってきたのは、トイレではなく体育館にまで至る長い廊下。次第に歩調を緩めると、廊下の角に身を潜めたまま顔だけを出してみる。

 展示されているクラスアートに見入っている中学生や高校生に混じって、一人の女性の姿を見つける。背中まで到達する長い髪が印象的な、白いワンピース姿の中年女性。間違いない、水瀬の母親だ。判別しやすい服装でよかった。

 母親は、僕たち二年B組の面々が手掛けたクラスアートにじっと見入っていた。



 青色や紫色といった落ち着いた色をキャンバス全体に使うことにより、作品全体に美しくも儚いイメージを演出した。

 キャンバスの上半分に描かれているのは、群青色の空と中央に浮かぶ鮮やかな満月。左右端では、瞬く無数の星々が控えめながらもしっかりとした自己主張を解き放つ。

 満月の少し下。構図の中心部には敢えて光を用いず、より深い色合いの空を描いた。そこにぼかしの如く入るのは、暗褐色のたなびく雲。

 キャンバスの下半分には、落ち着いた濃緑色を用いて下草に覆われた夜の丘陵地を表現した。

 作品の主役は、丘陵地の遠景および右下部分を彩る匂蕃茉莉の花。作品全体に漂う淡いイメージとは対照的に、鮮やかな色を意図的に使い白や紫色の花を力強く描いた。枝も葉も、しっかりとした輪郭線で浮き上がるように描かれ、花びらには見事なまでの陰影が表現される。

 こうしたメリハリをしっかりとつける色彩表現は、まさに水瀬の真骨頂。油絵であるにも関わらず、遠めの視点では写真ではないかと見紛う程だ。

 そして──キャンバスの中央で佇んでいるのは、手を繋ぎ、満月を見上げている二人の親子。

 白いワンピースを着た背の高い女性と、麦わら帽子を被った小柄な少女。女性の髪は長く、一方で少女の髪は肩に僅か掛かる程度の長さ。二人とも緩やかにウェーブした癖毛である。

 この親子の姿こそが、学校祭前日の土壇場で描き入れた部分。

 どうしても、水瀬茉莉の母親に見て欲しかった──『僕の秘策』。


 作品のタイトルは──『茉莉(まつり)』


 この作品のタイトルも、昨晩変更されたものだった。匂蕃茉莉の『まつり』と、水瀬茉莉の『まつり』を引っ掛けたもので、木下の提案によるものだ。僕はこのタイトルが、非常に気に入っていた。

 食い入るようにクラスアートを見つめていた母親だったが、やがてポケットからハンカチを取り出すと、そっと自分の目元を拭った。そこまでを見届けて、僕は満足したように廊下を後にする。

 作品の評価を決める要素、それは様々あるだろう。

 コンセプト。

 アイディア。

 デザイン。

 完成度。

 もちろん、作品に対する自信はあった。僕が加筆したことにより、評価が下がった可能性を考慮してもなお。

 だが同時にこうも思う。周囲がどんな評価を下したとしても。どんなによい作品であったとしても。人の心に響かなければ、なんの意味もないんじゃないかと。

 僕たちと、そして水瀬茉莉の思いは確かに彼女の母親の心に届き、そして響いたはずだ。

 そんな確信が、僕にはあった。だから、きっとこれでいい。


「遅くなったごめん」と昇降口で待っていた水瀬に声を掛けると、わずかに頬を膨らませて、「随分と長いトイレだったのね?」と彼女は答えた。


「んじゃ、次はどこに行こうか?」


 重ねて謝罪し、歩き出そうとした僕のシャツの袖を、水瀬がぎゅっと握った。

 彼女の足は、縫いとめられたみたいにそのまま動かない。朝から笑顔を絶やさなかった水瀬が、今日初めて見せるマジメな顔と軽い拒絶の意思に、胸中に不安が一滴落ちた。


「水瀬?」


 どうしたの? と言い掛けた僕の疑問を、彼女の言葉が遮った。


「これから言うこと、驚かないで聞いてね」

「うん」

「あたし、夏休みに入ったら引越しするの」


 開いた昇降口の扉から生ぬるい空気が吹き込んで、水瀬の緩やかに波打った艶のある髪を揺らす。彼女の瞳が次第に潤んでいく中、風と一緒に、校庭に満ちた生徒たちの気ぜわしい気配が忍びこんでくる。

 それなのに、僕たちの間に漂っているのは、耳が詰まるほどの沈黙。

 まるで、時が止まってしまったかのように感じられていた。

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