【交錯する想い】

 二つ先の駅まで進み電車を降りた僕たちは、最寄りのバス亭から市営バスに乗り換える。十分程バスに揺られて、先月水瀬と二人で訪れた、物悲しい雰囲気の公園に到着した。


「こんな薄暗い場所に、本当に茉莉が居るの?」


 不安そうな顔で、木下が坂の上を見上げた。

 彼女が不安に思うのも当然だろうか。日没間際の陽の光は木々の姿を影法師に変え、細長く地に映している。ひと気の無い散策路の入口は、まるで僕たちの侵入を拒むかのように、もの悲しい景観を眼前に晒していた。

 それでも、僕には確信があった。水瀬は、必ずこの上にいる。


「先月、水瀬と一緒に来た場所がここなんだよ。この散策路を上りきった先に、クラスアートの題材に選んだ景色が広がっているんだ」


 うん、と木下がひとつ相槌を打った。


「彼女はこの場所のことを好きだと言っていた。だからきっと、水瀬はこの上にいる」


 そう自分に言い聞かせ、暗い坂道に一歩足を踏み入れる。しかし、彼女の足は止まったままで、一向に動こうとはしない。

 目の前に広がっている闇の深さに、怖気づいてしまったのだろうか? 木下らしくもない、と思いながら、「どうした」と振り返って尋ねた。


「やっぱり、私は下で待ってるよ」

「いや、でも……。木下も一緒に来てくれた方が、水瀬も心を開いてくれると思うんだが」

「うん……色々考えてたんだけどさ、早坂が一人で行った方が良いと思う。茉莉が本当に待っているのは、たぶん、私じゃなくてあんたの方だと思うから」

「なにを根拠に」


 だが木下は、僕の発言を無視して話題を変えた。


「ねえ、早坂。ちょっとだけ私の話を聞いてくれる?」


 急ぐ必要があるんだが、喉元まで出掛かった不満の言葉は、木下の真剣な目を見た瞬間するすると引っ込んだ。


「ああ、いいけど」

「私ね。実は小学生のときイジメに遭ってたの」

「木下が? 信じられないな」

「本当だよ。あの頃の私は、ショートカットで、背が高くて、運動神経も良くて。好かれる要素が様々あった反面、男の子みたいって陰口も同時に叩かれていた」


 いわゆる、妬み嫉みの類ってやつだろうか。


「まあ、それはなんかわかる」

「酷いな早坂。それじゃ全然フォローになってないんだけど」


 乾いた声で、木下が笑う。笑いながら、次第に悲しそうな声になる。


「気が付いたら、クラスの中で私ひとりが孤立してた。話しかけてくれる友達なんて、何時の間にか誰もいなくなってた。そんな中、唯一私に手を差し伸べてくれたのが、茉莉だったんだよ」


 水瀬は万人受けするタイプでこそないが、性根が真っ直ぐで底意地が悪くないのは疑うべくもない。口数が少なく、表情だって乏しいため何かと誤解されがちだが、誰にでも分け隔てなく接する、というのが本来の彼女の性格。


「つまりそれが切っ掛けとなり、水瀬のことを好きになったのか」


 僕が尋ねると、うん、と木下は頷いた。

 それはどこか、女の顔だと思った。


「その日から、毎日茉莉の背中ばっかり追いかけるようになった。次第に、彼女の姿を見つめているだけで、泣きそうになっている自分に気が付いた。自分が女の子であることを、あんなに呪ったことはなかったよ。きっと、茉莉が傍らに居てくれなかったら、私はあのままダメになってた」

 それに、と木下が僕を真っすぐ見つめた。

「私は伊達に茉莉の親友じゃないからね。あの子が考えている事はよくわかってる。これを認めちゃうのは自分でも悔しいけれど、茉莉に対して私が想うと、彼女が私に対して思うは別の物だから。それが、早坂に茉莉を任せる本当の理由」


 木下の言葉が僕の背中をどんと押す。まっすぐ向けられた瞳には、何処か吹っ切れたような覚悟が浮かんで見えた。だから僕は、「わかった。任せろ」とだけ伝えて背を向ける。木下の想いと覚悟を、一緒に胸に抱いて。


「ただし、待っているのは三十分だけ。それ以上経っても二人が降りて来なかったら、その時は私も上り始めるから」

「わかった」


 肩越しに声を掛け、今度こそ僕は上り始める。あの日と同じ、薄暗い散策路を。


◇◇◇


 僅かな光だけを頼りに、僕は歩き続ける。日はすっかり山の稜線に沈み、雑木林の隙間から覗く月は満月だ。水瀬と二人、この地を訪れた時と同じ真っ白な月。

 ほうほう、とフクロウの鳴く声が遠く聞こえた。

 今日は突発的にやって来たことで、懐中電灯を持参していない。月明りだけではなんとも心もとなく、張り出した木の根に躓き、何度も転びそうになった。

 サク……サク……という足音が寂しく響き渡る。今日は一人分だけ。


 ──これでもし水瀬が居なかったら、完全に徒労だ。


 あの日と違い一人で歩いていることが、ずん、と心細さを加速させる。本当に水瀬はこの上にいるだろうか。閉ざした心の扉を、開いてくれるんだろうか。次々浮かんでくる不安を、かぶりを振って追い払う。大丈夫、とうわ言のように繰り返した。

 次第に、ジャスミンとよく似た芳香が漂ってくる。木々の葉が落とす影で視界は頼りなかったが、目的地が近いんだ、ということだけは理解できた。

 開けた丘陵地に出たとたん、一面の星空が眼前に広がる。ほわあ、と放射状に淡い光を投げかける満月の下、果たして其処に、水瀬はいた。

 群生している匂蕃茉莉の花は、以前より白色の割合が多くなったように見える。その傍ら緑色の絨毯の上に、セーラー服姿の水瀬が膝を抱えて座っていた。

 寂しげに、少しだけ丸めた背中。

 僕が落ち葉を踏みしめる音が聞こえたのか、勢いよく水瀬が振り返る。彼女の瞳は、驚きでまん丸く見開かれた。


「水瀬……」


 水瀬は僅かに腰を浮かしかけた姿勢で。僕は彼女の方に一歩進みでようとした姿勢で。そのまま時が一瞬だけ止まる。

 言葉という概念が、一時的に損なわれたように暫し見つめ合ったあと、水瀬の口元が僅かに歪む。

 見開いていた瞳をすがめると、わあ……と声を上げて彼女は泣き崩れた。安堵したことにより、必死に堪えてきた感情があふれ出したような泣き方だった。

 まるで幼子のような水瀬の姿に、戸惑いと、慈しみの念とが複雑に絡み合って心の奥底でわだかまる。彼女の隣で膝を折ると、嫌がるかな、という不安に蓋をして、細い肩を抱き寄せた。

 幸い、水瀬は嫌がらなかった。僕の胸に顔を埋めると、先程よりも強く泣いた。零れ落ちる涙が、ワイシャツの胸元をしとどに濡らしていく。

 小刻みに震え続ける体。

 それから何分のあいだ、水瀬は泣いていたんだろう。

 ようやく涙が止まり呼吸も落ち着いてくると、彼女は静かに顔を上げた。


「ごめんね、早坂君。あたしのこと、心配して来てくれたんだよね?」


 僕は黙って頷いた。


「毎日、ここに来てたのか?」

「うん」

「そっか」


 まあ、だいたいわかってた。ここに来て、姿を見るまで不安だったけれど。

 数分の間、沈黙が流れた。水瀬の肩に手を回している自分を認識すると、とたんに恥ずかしくなってくる。ごめん、と肩から手を離そうとしたとき、ぽつりと彼女が呟いた。


「一週間くらい前のことかな。前のお父さんに似ている人が家に来たの」


 前のお父さん、か。それは、水瀬が隠し続けてきた過去の話。同時に、今聞いておかなければならない話。だからそのまま続きを促した。


「うん。それで」

「その人の姿を見たら、なんだか凄く怖くなって、胸が苦しくなって、そのまま家を飛び出しちゃったの。次の日から、その人のことを思い出すたび発作が起こるようになって、学校にも行けなくなっちゃった。あたしね、精神的に辛いことがあると、時々過呼吸の症状がでるの……」


 そこまで言ったところで、ああ、ごめん、と水瀬が一度言葉を切った。


「いきなりこんなこと言っても意味わかんないよね? なんか、ごめんなさい。私が学校に行かなくなったから、みんなにも凄く迷惑掛けてるでしょ?」

「そうだね。徹と稔には、後で謝っておいてね。でも、きっと大丈夫。二人とも、笑顔で僕のことを送り出してくれたから」


 水瀬の肩は未だ小刻みに揺れ、歯の根も合わぬほどに震えていた。普段笑ってみせてこそいるものの、人目のないところで、時々思い出したように涙を浮かべている母親と、水瀬の姿とが不意に重なって見えると、胸の奥深いところがギュッと嫌な音を立てて軋みを上げる。水瀬の心的外傷が深いことは、いうまでもなく理解できた。


「それと、お母さんにも謝っておこうね」

「うん……」

「今日、ここに来る前、水瀬のお母さんに会った。こんなこと言うと悪いと思うけど、僕はあまり良いイメージを持たなかった。……水瀬はさ、お母さんの事、嫌い?」

 こんなことにまで首を突っこむべきじゃない、という逡巡を押さえつけて尋ねた。

「……あんまり好きじゃないかな。うちのお母さん、色んな男のヒトを家に連れて来るから」


 再び顔を正面に戻すと、水瀬が縋るように体重を預けてきた。脇腹の辺りから、彼女の体温が伝わってくる。少し驚いたけれど、したいようにさせておいた。


「前のお父さんがね、昔、あたしに言ったの。あいつの娘なんだから、お前にも淫らな女の血が流れているんだろうって。その時は何の話か全然わかんなくて首をかしげてたんだけど、それから数日した後かな? お母さんが不在で二人きりになった時、ようやく意味がわかった。その日、あたしはお父さんに──」

「もういい。それ以上言うな」

 今度こそ、水瀬の発言を遮った。

「皆まで言わなくていい。全部、木下から聞いたんだ。水瀬の辛い過去の話も全部」


 と僕から告げる事に、もちろん抵抗はあった。でも、それを本人の口から語らせることは、もっと残酷だと思うから。


「そっか……早坂君に全部バレちゃってたのか……。おかしいなぁ。伝える覚悟なんてできていたはずなのに、どうしてこんなにショックを受けてるんだろう? あんな事があってから、男の人が凄く怖くて。どうしようもなくて。それなのに、早坂君だけは平気だった。こんなこと言うと不思議に思うかもしれないけれど、早坂君だけは特別だった。話をしていても、全然怖くなかった。今だから言うけど、小学生の時、もっと早坂君と話がしたかった。それなのに、全然勇気が出なくって……。本当は、もっともっと側に居たいと願ってた」


 震えた声で、けど、熱を帯びたように語り続ける水瀬の姿が、事件の真相を、自分に語り聞かせてくれた母親の姿と再び綺麗に重なる。性犯罪が『魂の殺人』とは、本当によく言ったもの。血が滲むほど強く唇を噛み締めた。


「ねえ。匂蕃茉莉の花言葉なんだけど、知ってる?」

「いや……聞いたことない」


 それにしても、どうして僕だけ特別なのか。頭に浮かびかけたその疑問は、あまりにも急激な話題の転換についていけず、霧散した。


「『浮気な人』なんだって。日を追うごとに花色が変化していくところが、人の気持ちが移ろいゆく様に似ていることから、そう言われているみたい」


 浮気な人──か、なるほどね。だからこの間、『匂蕃茉莉の花に似てるかな』という水瀬の質問に同意を示した時、彼女は微妙な反応をしたわけだ。


「でもね。やっぱりあたしは、淫らな女の子なのかもしれない」

 一度目元を拭うと、水瀬は視線を自身の下腹部の辺りに落とした。

「こんなにも心は傷ついているのに、体の中心辺りが凄く熱くて変な感じがしているの。誰かに抱きしめて欲しいって、さっきからずっと願ってる。……やっぱりあたし、変な女の子なのかな?」

「なにもおかしくなんかない」

 彼女の肩を、もう一度強く抱き寄せる。

「辛いとき、苦しいとき、誰かに縋りたいと願うのは普通のこと。別におかしくなんかない」


 僕の前に突然現れた、顔がわかる唯一の女の子──水瀬茉莉。あの日君に感じた縋るような想いは日に日に膨れ、もう抑えがきかなくなっている。でも。

 だからこそ今、確かめなくちゃならない。


「でも、どうして僕なんだ。どうして僕のことだけ、怖くないんだ?」


 先ほど頭の中に浮かんだ疑問を、今度こそ口にだしてみる。

 長い睫毛も、切れ長の瞳も、細くて通った鼻筋も──水瀬の整った輪郭線が、月明かりの中浮かび上がる。


「笑わないで聞いてくれる?」

「もちろん」

「あたしね、相貌失認、という名前の病気なの。だから、男の子の顔が見分けられない」

「う、そだろ?」


 それはあまりにも予想外の言葉。驚きで喉がごくりと鳴った。


「本当だよ。なかなか信じて貰えないから、他の人には決して言わないんだけどね」


 教えたの朱里以来かな、と言って水瀬が笑う。顔を歪め、それでも必死に口角を上げてぎこちなく笑ってみせる。


「でも、早坂君だけ違ったの。顔がわかるの。どうしてなのかな? だから初めて早坂君の顔を見た時凄く驚いちゃって、もしかしたらこれは運命なのかもって自惚れた」


 そこまで言ったところで、あっと声をあげ恥ずかしそうに両手で顔を覆ってしまう彼女。


「ごめん。やっぱり今のなし。忘れて」

「それで全部分かったよ。だから水瀬が転校してきたあの日、僕の顔を見て驚いた顔をしたんだね」


 小学校時代。転校初日にみせた水瀬の不可解な反応が、今更のように腑に落ちた。それにしてもなんだろう、その嬉しすぎるリアクション。


「なあ、水瀬。つまり話を纏めると、他の男性の顔はぼんやりとしか知覚できないのに、なぜか僕の顔だけはっきり見えた。という感じでいいんだよね?」

「うん、そうだよ。よくそこまで詳しく分かったね? 何時からそうなったのか、よく覚えていないんだけど、前のお父さんに乱暴されてから、突然症状が出始めたの」


 確認のため、自分の症状をオウム返しに伝えてみると、水瀬は辛そうな顔で同意した。

 そこで僕は、自分の病に纏わる話を包み隠さず伝えることにした。水瀬とまったく同じ病を、僕も発症していること。自分の場合、女性の顔だけ識別できないこと。それなのに、何故か水瀬の顔だけはわかること。


「それって本当なの?」

「本当さ。だから僕もずっと不思議に思ってた。どうして水瀬の顔だけ見えるんだろうって」

「うわあ、驚いた。なんだか運命みたいだね。ううん、本当に運命だったらいいのに」


 偶然とは本当に恐ろしいもの。この広い世界の中で、今、たまたまこの場所にいる二人の男女が共に同じ病を抱えていて、なおかつ互いが唯一顔を認識できる異性だなんて。

 これを奇跡と呼ばずして、いったいなんと呼ぶのか。


「ねえ、水瀬」

「うん」

「もしかして、この間僕に胸を触って欲しいとお願いしてきたのも、男性恐怖症を克服するため?」

「あ……うん。あたし、男の人の事が怖かったから、早坂君なら触られても怖くないか。触られても、自分がいやらしい気持ちを抱かないか確かめたかったの。ごめんね、あたしが変なお願いをしたから、嫌な思いをさせちゃったよね?」


 義父に言われた心無い一言が、こんなにも水瀬の心を傷つけていたのか。おそらく、自分にも男癖の悪い母親と同じ血が流れているのか、淫らな性癖があるのかと、確かめたい意図があったわけだ。

 でも、それはダメだ。そんな目的の為だけに同級生の男に体を触らせるなんて。実に危うくて、また、短絡的な考えだ。


「嫌じゃないよ。嫌なはずないけど、でも、もっと自分を大切にしないとダメだ。もし僕が人でなしの男で、あのまま水瀬を襲ったりしたらどうするつもりだったんだ?」

「あっ……うん、そうだね。ご、ごめんなさい」


 自分がしたことの重大さに今更のように気が付いたのか、水瀬の身体が小刻みに震え始める。

 これ以上彼女がおびえている姿を見ているのが辛くて、反射的に彼女のことを正面から抱きしめる。抱きしめてから直ぐに、やってしまったとおおいにうろたえた。

 慌てて手を離したのだが、何故か水瀬の体は離れない。あろうことか、水瀬も控えめながらも両手を回して僕に抱きついていた。


「ごめん。あたしが抱きしめて欲しい、なんて言ったから」

「違う、そうじゃない」

「え、早坂、くん?」

「これは、あくまでも僕の意思。僕も水瀬の事、抱きしめたいってずっと思ってたから」


 控え目に彼女が頷くと、抱きついてくる腕にも力がこもる。嗚咽を上げて、再び彼女は泣いた。でもそれは、先ほどまでのような、出口が見えない暗闇の中で膝を抱えて流す涙とは違い、ぽろぽろと静かに零れ落ちる、安堵からくる暖かい涙にみえた。

 震える水瀬の身体を抱きながら、嗚咽が、彼女の呼吸が落ち着くまで、僕は黙って待った。内に秘めた不安や悲しみを吐露した事で、彼女が抱えている重すぎる過去が、少しでも薄まってくれればいいと願った。そう、ほんの少しでいいんだ。僕が彼女の力になれれば。

 そのまま暫く泣いたのち、水瀬は潤んだ瞳で僕を見つめた。


「ねえ、早坂君。あたし──」

 待って、と僕は水瀬の言葉を遮った。

「なあ、水瀬。僕と約束して欲しい」

「約束?」

「うん、そう。来週から学校来てくれるよね?」

 大事なことだ。念押しで僕が尋ねると、

「もちろんだよ」

 と水瀬が答える。

「あ、でも。あたしからも、ひとつだけお願い。いいかな?」

 上目遣いで水瀬が言う。

「うん、なに?」

「キスして欲しい……。その……この間は、自分が淫らな女の子なのかどうか確かめたくて、胸を触って欲しい、なんてお願いしたんだけど……。今日はちょっと違うの。そんなの関係なく、キスして欲しいの。あれ? なにを言ってるんだろあたし。ごめん、違うの。キスして欲しいって言っても、唇じゃなくておでこ。そうおでこ! あれ、やっぱり変なのかな……自分でもよくわかんない」


 必死に言葉を紡いだ彼女が愛おしくなり、そっと頬に手を添えた。色白な肌は月明かりに照らされることで、より一層白く輝いた。光の当たっている場所と、陰になっている場所とのコントラストが目に眩しい。

 こちらに全てを託すかのように、水瀬がそっと目を閉じた。

 彼女の長い睫毛も、頬に添えた僕の指先も、先程からずっと震えている。艶やかな唇の赤が視界に入ると、心臓が大袈裟なほど暴れ出す。

 違う、そこじゃない、と自分に言い聞かせて、彼女の額にキスをした。

 ゆっくり離れると、正面から二人で見つめ合う。

 沈黙が数瞬すうしゅん流れたのち、今度は彼女の方からキスをしかけてきた。

 何を、と思う間も与えられず、彼女の柔らかい唇が僕の口を塞いだ。ふっくらとして、瑞々しくて、触れたことのない感触だった。大胆な要求に驚いたけれど、そのまま彼女を受け入れた。本能の赴くまま、互いの欲求を交換しあう。しばらくの間僕たちは、月明かりの下抱き合っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る