【僕と水瀬の関係】
水瀬と二人で散策路を下りると、木下は真っ暗な公園のベンチで、一人膝を抱えて座っていた。
僕たちの気配に気がつき彼女がぱっと顔を上げる。水瀬が一緒なのを確認すると、安堵の声をあげた。
「茉莉! ほんとに心配したんだからね……。一人でいなくなったりしたら、ダメじゃない!」
「ごめん朱里。心配かけた。あたしなら、もう大丈夫だから。あと、朱里が来てるの知らなかった。だいぶ待たせたでしょ……?」
「まあね。もう少し遅かったら、こっちから探しに行こうと思ってた──」
そこで突然声を詰まらせ、瞳を細めた木下。彼女が妙な反応を示した理由に気がついた僕は、慌てて水瀬と繋いでいた手を解いた。急に手を解かれたことに、あ、と水瀬が不満そうな声を漏らす。
「……別に、なにもしてないから」
何も訊かれていないのに弁解した僕に、水瀬がきょとんとした顔を向けてくる。
「突然どうしたの二人とも? ……それに、朱里なんか怒ってる?」
「怒ってなんかいないわよ! けど」
「けど?」
「覚悟はしていた。していたけどさ、そうやって見せ付けられると色々複雑っていうか……」次第に弱くなっていく木下の語尾。「なんて言うか、少女漫画でよく見る、負けたほうのヒロインの気分」
後頭部をかきむしりながら吐き捨てた木下に、疑問符が数個頭上に浮かんでいそうな顔で、水瀬が首を傾げる。
いよいよ僕は、苦笑いするほかなかった。
「んじゃ、帰ろうか」
◇◇◇
三人になった僕たちは帰路に着く。バス停に行くと、最終便がでてしまった後だったため、帰りは徒歩で。駅から電車に乗って再び公営住宅の前までたどり着いたのは、二十時もはるかに回った時間となった。
出迎えた母親は、遅くなるなら連絡しないとダメじゃない、と水瀬を諭したものの、思いの外きつく叱られることはなかった。ごめんなさい、と水瀬が殊勝な態度で頭を下げる。
「ありがとうございます。それでは」
母親が玄関の扉を閉めようとしたその時、僕は言葉を挟んだ。
「あの!」
「はい、なにか?」
「今週の土曜日、学校祭があるんですが、その時に展示するクラスアートを僕たちと茉莉さんで描いているんです。彼女が頑張った成果を、見に来て頂けないでしょうか?」
言いながらズボンのポケットに手を突っ込んで、学校祭=たなばた祭りのパンフレットを差し出した。
「茉莉が、そんな事を……?」
母親はパンフレットの内容に視線を落とし、後ろにいる水瀬に「本当なの?」と二~三質問を繰り返した。
やがて顔を正面に戻すと、僕の目を見てこう言った。
「わかりました。どうにか都合をつけて、伺わせて頂きます」
「よろしくお願いします」
僕の返答を受け取ると同時に、扉は閉じられた。
「やばい、めっちゃ緊張した~」
よかった、という安堵から大きな溜め息が漏れた。
「ふふ、お疲れ様。それで、パンフレットなんて欲しがってたのね」
「まあね、そういう事」
話しながら、僕たちは並んで歩き始める。街灯の下に、無数の羽虫が集まっているのが見えた。明日も良い天気になるだろうか。
「水瀬のお母さん、来てくれるかなあ」
「たぶん、大丈夫だと思う」
「何を根拠に」木下が、半ば呆れたように笑う。「それに、あの男の事だってそう。アイツが茉莉の家に出入りしてるうちは、根本部分で何も解決しないと思うんだ。母親が、茉莉の気持ちとちゃんと向き合い、真摯に考えてくれないと」
「それはまあ、そうだね。でも、きっとなんとかなるさ」
「また謎の自信」
呆れた声を上げ、でも、笑いながらこっちを見る木下。
「もう一つだけ、僕に秘策があるんだよ」
「秘策? まだ何か隠してるの?」
「へへ……。まだ、内緒だよ」
水瀬の母親は、きっと学校祭に来てくれるだろう。そんな確信を、密かに僕は抱いていた。夕方に顔を合わせた時と違い、母親は確かに僕の目を見つめて返事をしたのだから。
木下が、星々瞬く空を見上げて、
「腹減ったなあ」
と呟いた。
「すっかり失念してたけど、ご飯食べてないんだもん」
「だなあ」と笑って同意した後で、「そういえばさ、木下も知ってたんだろ?」と尋ねてみる。
「ん、なんの話?」
「水瀬の病気の話。相貌失認」
ああ、と木下は上げていた顔を伏せた。そのまま足が止まる。
「聞いたんだ、早坂も。凄く珍しい病なんだってね。茉莉が病を自覚して、症状が強くなり始めたのも虐待があった頃と前後しているらしいし、なんだかんだ言って茉莉は、男運が無いんだと思う。二人の父親の存在が、遠因としてあったんだろうね」
虐待が強い精神的ショックとなり、病を発症したのかもしれない。もっとも発症のメカニズムは解明されていない部分も多く、推論の域をでないが。
「最初の父親が自殺。二人目の父親には──あ、止めようか。こんな胸糞の悪い話」
「だよなあ」
と頷こうとして、文脈に違和感を見つけて尋ね返した。
「今、なんて言った?」
「いや、だから、こんな話は止めようって」
「そこじゃない。一人目の父親の死因の話。死別離婚っていうからさ、事故か病気だろうって勝手に思ってたんだけど」
とたん、あ、と声をあげ、木下が自分の口元を覆う。
「まずったなあ……。この話はあんまり詳しく言わないでって、茉莉からも口止めされてたのに」
「口止めって、どういうことなんだよ。詳しく教えてくれ」
遠ざけようとしていた
ミスったなあ、という顔で嘆息したのち、ゆっくりと木下が語り始めた。
「結論から言ってしまおうか。端的に言って、一人目の父親
「な、んだって」
本当に『まさか』だった。そんな可能性、全然頭になかった。続けて木下が、水瀬の父親が自殺した経緯について話し始める。お腹の底に芽生えた動揺が段々深くなっていくと、彼女の声も酷いノイズ混じりに聞こえ始めた。
『相貌失認という病は、障害の程度によって、ごく近しい人間のみ識別できている、というケースもあるんですよ。理由は、今でもよくわかっていませんが』
そのとき、数年前、医者に言われた台詞が脳裏をよぎる。これは、母親と妹に対してのみ、症状の進行が緩慢になっている理由を尋ねたときにされた説明。これがもし真実だったとしたら──。
「なあ、木下。つかぬ事を訊いてもいいか?」
「いいよ。もう、今更だ」
「水瀬の旧姓を、教えてくれないか。ええと、一番最初の」
「旧姓? また妙なことを訊いてくる。岩切だよ。
ああ、やっぱりそうだ。きっとそうだ。
「いや、なんでもない。ちょっと気になっただけだよ」
「ふうん? 変な奴」
誤魔化すように愛想笑いで会話を切ると、僕たちはまた歩き始める。
そんな可能性を考えなかった訳じゃない。だが、僕たちは同級生なんだし、という事実が、結果として視野を狭くしていた。
でも、無理だ。もう無理だ。
これでようやく、全部わかった。
水瀬の顔だけ、僕が認知できていた理由も。
水瀬が僕の顔だけ、認知できた理由も。
今はまだ憶測に過ぎない。だが──この二つが線で繋がってしまった以上、もう現実から目を背けることは、できない。
草むらから湧き立つ虫の声が、りん、と寂しげな音色を奏でた。
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