【トラウマ】

 重々しい音と共にドアが閉まると、僕と木下を乗せた電車はするすると走り出した。電車が速度を上げていくにつれ、レールの立てる規則正しい音だけが車内に木魂する。時折聞こえてくる踏切の警報器の音が耳障りに感じられる程、辺りは静寂に満ちていた。

 車両の中に乗客は殆どおらず、数少ない乗客である僕と木下にしろ、駅を出てから一言も発していない。


 駅まで歩く道のりで、僕らはそれなりに言葉を交わした。

 しかしそれもあまり長くは続かず、切符を買って電車に乗ったころには、気まずい沈黙だけが流れていた。

 会話が途絶えてしまうと、思考は段々と悪い方向に収束されていく。気が付くと頭の中は、水瀬家で遭遇した男のことで一杯になっていた。

 粗野な風貌。

 派手な服装に派手な装飾品。

 何故、あんな男が水瀬の家から出てきたのか。

 自分が納得できる理由をずっと捜し求めていたが、どんなに考えを巡らしたところで答えなんて見つかるはずもない。否応なしに浮かんでくる嫌な想像が頭の中を締め付けているようで、先ほどから耳鳴りと頭痛がおさまらない。知りたい。けれど知りたくない。相反した感情の狭間で揺れ、ずっと顔を俯かせていた。

 僕と同様、黙りこくっている木下も、ずっと窓の外を睨んだままだ。

 やがて、口を開いたのは、沈黙に耐えられなくなった僕の方だった。


「なあ……木下。さっき水瀬の家で見た男のことだけど、正直、どう思った?」

「一言で表現するならば、最悪」

「ああ……まあ、だよね」


 車窓の景色から視線を外すことなく冷たく吐き捨てた木下に、思わず苦い顔になる。やはり考えていたことは、僕と同じだったらしい。


「あの男なんだけどさ……。水瀬の新しい父親になる、なんてことはないよな?」


 恐る恐る口にしたのは、いま頭に浮かんでいる中で、もっともよくない推論。


「それはないと思う」


 木下が即答したことで安堵しかけた僕の心に、でもね、と続けた彼女の声が水をさす。


「茉莉の母親なんだけど、数年前から急に男癖が悪くなったんだよ。とっかえひっかえ、男を変えるっていうかさあ……。どんな男と付き合っても長続きしないらしくて。だからどうせあの男も、本気の付き合いじゃないと思う」

「そう、なんだ」

「部外者の私がとやかく言うべきじゃないのも、余計なお世話だっていう事も分かってるんだけどね」


 分かってる、と言葉にしつつも、これっぽっちも納得できていなそうな木下の口調。

 水瀬の母親、たしか徹の情報だと年齢は現在三十一。そりゃあ水瀬の母親なのだから美人だろうし、背格好は実年齢より若々しく見えた。その気になれば、男を引っ掛けるのは容易いことだろう。

 それらが裏づけとなって、木下の言葉にも真実味がこもる。疑おうという気すら起こらなかった。

 それにしても、悪い男癖、か。母親の派手な言動が、水瀬の心に影を落としている要因なのだろうか?

 それでも、あんな粗野な男が新しい父親になる可能性が低いだけマシだろうか。そう、無理矢理納得しかけたとき、木下が再び口を開いた。


「でもさぁ。似てたんだよね、あの男」

「似てたって、誰に?」

「茉莉の、二人目の父親にだよ」

「二人目の……父親!?」


 今度こそ、愕然となるほかなかった。

 まさか相手を取り替えるという意味に、父親まで含まれているとは思っていなかった。背筋を冷たい汗が一筋伝う。


「なあ、木下」

 ようやく搾り出した僕の声。

「そろそろ聞かせてもらっても良いだろうか? 以前、お前が言っていた、水瀬の過去トラウマに纏わる話を……」


 もちろん、真実を知るのが怖い、という気持ちもある。だがきっと、今ここで聞いておかなければ、知っておかなければ、これから先、水瀬と向き合う資格はない。そう考えていた。

 だが、木下は暫く返事をしなかった。

 彼女が発言をためらう時間の長さが、そのまま水瀬が抱えている闇の深さを暗示しているようでどんどん心が萎縮してくる。


「そうね。今の早坂にだったら、話してもいいかな」

 ただし、とそこで一旦木下は言葉を切った。

「覚悟をして、聞いてね?」

「ああ」


 僕が頷いたのを確認してから、木下はゆっくりと話し始める。


「今の茉莉の姿から想像するのは難しいかもしれないけれど……小学校三年生頃までの彼女は、ごく普通に喋る明るい女の子だったの。よく笑っていたし、友達だって少なくはなかった。茉莉が突然変わってしまったのは、四年生になって間もないころだったかな。茉莉の母親が死別離婚をして、それから間も無く再婚をしたの」

「再婚」

「ええ」と木下は頷いた。「でもそれは、ちょっとばかりタイミングのいい話だった。これは私の憶測でしかないけれど、茉莉の母親は、離婚が成立した直後から新しい男と関係を持ち始めてたんでしょうね。母親の男性依存症が強くなり始めたのも、丁度その頃だった」

「男性依存症? それが男をとっかえひっかえする理由?」

「たぶんね。再婚をする少し前あたりから、母親は水瀬に繰り返し語っていたみたいだし。『私は男の人がいないとダメなの』、『これ以上、実家に迷惑をかけたくない』こんな感じに。ようは、経済的な理由が大きいんでしょうけどね」

「まあ、それは」


 それ以上、上手く言葉を返せなかった。親が一人しかいないということはその分収入が減るということ。父親の死後、極端な貧困に陥っていくことだって想像に難くない。

 抱えた経済的不安。片親であることから向けられる奇異の視線。それらから逃れるため、段階的に男性依存が強まっていくのも、その過程で、娘に対して向ける愛情が軽くなってしまうのも、理屈としては頷ける。だが、当の水瀬本人からしたらたまったもんじゃない。そんなもん母親の我が儘でしかない。……いや、よそう。全ては僕の憶測でしかない。


「実際のところ二人目の父親、収入だけは良かったみたい。なんの仕事をしていたかなんて知らないし、別に知りたくもないけど」

「なるほど……。父親が変わったことで水瀬は環境の変化について行けなくなり、心身ともに疲れきっていった。そんな話か」

「まあ、それもあるだろうけど。問題の本質は、また別の所にあったの。茉莉が塞ぎ込んでしまった本当の原因は、二人目の父親がきてから始まった、彼女への虐待」

「虐待、だって?」


 木下の口から出てきた言葉の重さに、目の前が真っ暗になる。しかし、後に続いた彼女の言葉に、僕は更なるショックを受けることになる。


「そう。二人目の父親による暴行と──性的虐待」


 話している途中から既に、木下の声はどうしようもなく震えていた。

 そんな、そんなバカな……。後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走る。視界がぐわんぐわんと揺れ動く。水瀬茉莉が抱えていた闇の深さに、僕の心が震えはじめる。


「茉莉の体には、毎日ちょっとずつ痣が増えていった。それは、腕であったり、太ももであったり。人目に付き難い巧妙な場所にね。もう……痛々しくて、見ていられなかったわよ。もちろん……ただの虐待じゃなかったから、服を脱がされたり色々なこともされてたんだと思う。人伝に聞いた話だと、強制性交もあったみたい」


 遂に怒りを抑えきれなくなったのか、木下は電車の窓を思い切り叩いた。自分の怒りと悲しみを全てぶつけるかの如く強い力で。激しい音が、殆ど人が乗っていない車内に響き渡り、乗客の視線がこちらに集中した。


「木下」

 堪らず声を掛けるが、彼女が吐きだす怨嗟えんさの声は止まらない。

「まあ、あまりにも酷い虐待だったから? 児童相談所やら警察が間も無く介入してくれて、男は準強制性交罪を問われることになったんだけどね」


 離婚が成立したのもその時、とそこまで一息に吐き出すと、木下は昂ぶった自分を静めるように、一度、長く深く息を吐いた。


「だから、残り半年と迫った小学校の卒業まで待つことすらできず、水瀬家は引っ越しをしてきた。そういう話か」

 僕の推論に、木下は静かに肯いた。

「たぶんね。虐待がある事実を知りつつ見てみぬ振りをしていた水瀬の母親だったけど、その中に性虐待まで含まれていたのは心得てなかったようで、相応にショックを受けたみたい。それに気付いてやれなかった自分にも。いや──それはどうなのかな。ただ単に世間体を気にして、自己保身の為に引っ越しを決断しただけかもしれないけどね」

「そうか」


 先程から酷い頭痛が治まらない。頭の中に浮かんだもう一つの疑問を、口にするのが躊躇われた。

 もう一つの疑問。

 木下は先ほど、確かに『強制性交』と言った。

 僕も、木下も、まだ中学生とはいえ、同時に思春期真っ盛りの学生だ。その単語の意味がまったく分からないほど、純真でも無垢でもない。

 でも水瀬は、当時小学四年生──とかなんだろ? そんなこと、本当にできるのかよ? だって水瀬は、あんなに体つきだって華奢なのに。

 まさか、って思った。

 事実を確認するのが怖かった。

 それでも、水瀬の過去を知り、ちゃんと向き合わないとダメだと同時に思った。


「強制性交ってさ……本当にあったの?」


 呻くような、僕の声が聞こえる。真実を知るのが怖いと怯える心は、そのまま口調にもあらわれた。

 頼む、聞き間違いであってくれ──というささやかな願い事は、直後に木下が涙を浮かべながら頷いたことで否定された。


「茉莉は背が低くて細身だし、まだ四年生とかだったから……流石に口の方で……だと思う。あっ……ごめん。もちろん、茉莉本人に聞いたわけじゃないんだ。これは私の親から聞いた話」


 たどたどしく紡がれる木下の声が、次第に耳に届かなくなる。


 性犯罪というのは、ある種『魂の殺人』だ。被害者の一生にまで関わってしまう、重要な事案。その事を僕は、自分の母親を通してずっと見てきた。

 母親が笑っていてくれるだけで安堵してしまうのも。たとえ血の繋がりが半分だけだったとしても、佐奈のことを愛おしく僕が思うのも。母親が毎日のように泣いていた過去を知っているからこそ。

 子供に対して行われる性犯罪は、その中でも特に残酷だ、と以前父親にも言われたことがある。

 自分がされていることを上手く理解できていなかったり、「誰かに言ったら殺すよ」等と加害者に口止めされるケースも多く、親に相談できないストレスから後々強いトラウマとなり、その後の人生に大きく影響を与えてしまうのだそうだ。

 その時は何もなかったとしても、大人になった後で恋人をどうしても受け入れられなかったり、逆に性加害に走ってしまったり等々、負の影響をもたらすのだという。

 水瀬が胸の内に隠し続けていたであろう闇の部分がどっと押し寄せてくると、最早抱えきれなくなっていた。

 いずれ時が解決してくれる問題、なんて悠長にしていられるほど水瀬の心の傷が浅くないのは、今現在彼女が姿をくらましている事実からも明白。時間的猶予、果たしてそれはどれだけあるのか。

 嫌な予感が強まっていくなか、望んでもいない妄想が勝手に脳内で再生される。今日の夕方に見たアロハシャツを着た粗野な男が、両手で水瀬の頭を鷲づかみにして自由を奪う。そのまま自らの下半身に──。

 ダメだ。これは不味いかもしれない、と思った時には遅かった。

 強い嘔気を感じると、一目散に電車のトイレに駆け込んだ。そのまま便器を抱えて、胃の内容物を全て吐き出す。


 聞かなければよかった。

 知らなければよかった。

 様々な感情が首をもたげる中、今まで奇妙だと感じてきた水瀬の行動の全てが、線となって繋がり始める。


 小学生の時、手の甲がこつんと触れただけで、過剰に怯えた反応を水瀬が見せたこと。

 花は裏切らないから、という彼女の言葉。

 死んだ猫を抱いて、涙を流した水瀬の姿。

 緊張から身を強張らせ、それでも震える指先で、僕をいざない自分の乳房に触れさせたこと。思えばあれは、男性恐怖症に抗おうという彼女なりの意思表示だったのかもしれない。

 強い自己嫌悪。

 抱えた闇の深さと、縋ることができる対象の少なさ。

 それらが人間不信。若しくは男性嫌いを思わせる行動となって現れていたんだ。一見すると不可解な水瀬の言動の全てに、ちゃんと理由があったんだ。


 僕はいまさらの如くそのことを知った。

 水瀬茉莉とは、こんなにも深い闇を抱えた少女だったのだ。

 胃の内容物を全て出し切ってしまうと、絞り出せるのはもはや涙だけ。僕は床に手を着き、ただ、嗚咽を上げて泣き続けた。自分でも、情けない姿だと思った。


「大丈夫?」


 気が付くと後ろには木下がやって来ていて、僕の背中を優しく擦っていた。


「すまん、大丈夫だ。心配かけたな……悪い」

「いや、こっちこそだよ。まさか早坂が、ここまで取り乱すとは思ってなかった」

「前に木下が僕に言ったじゃん」

「うん?」

「安っぽい好意なら水瀬に向けるなって。あの言葉の意味、ようやくわかった気がするよ」

「ああ」と木下が小さく笑った。「あの時はまあ──私も言い方がキツかったから、ごめん」


 ゆっくり顔を上げると、木下の顔を正面から見つめた。


「なあ、木下。お前、水瀬のこと、好きなんだよな」

 木下は一度目を見開いたのち、よどみなく答えた。

「もちろん、愛してるよ。茉莉のことは、丸ごと全部」

「そっか。なら、安心した」


 正直、女の子が恋のライバルだったことには驚いている。それでも、強い宣言だったことに安堵していた。確かに木下のそれは、一般的な目で見ると歪んだ愛の形なのかもしれない。けれど、木下の真っすぐな愛情は、この先絶対に水瀬の力になるはずだから。


「安心した? なんか変なの。早坂にとって私は、恋のライバルになるかもしれないのに?」

「ライバルって……あ。僕の気持ちに気付いてたの?」


 僕が驚いた声をあげると、木下も呼応したように目を見開いた。それから、一拍置いて大きな声で笑いだす。


「ばーか、当たり前でしょ。だからあの時だって、早坂に声を掛けて水瀬に近づかないよう釘を刺したんだし」

 はーおかしい、と木下は目元を拭った。

「そもそもさ。早坂の気持ちに気付いてないの、鈍感な茉莉あの子だけだと思うよ」

「マジかよ……」

「ねえ」

 と一転して木下がマジメな声になる。

「ん?」

「遠慮しなくていいからね。私が茉莉の親友だからって、遠慮しなくていいからね」

「分かってるよ」

 それから木下はぱっと立ち上がると、僕に背を向ける。

「笑っちゃうでしょ。私は女なのに、茉莉のことがどうしようもなく好きなの。こんな気持ち、気付かなければ良かった。ほんと、なんで私、女の子なんかに生まれてきたんだろう」


 馬鹿みたいでしょ、と泣き笑いをする木下の背中から声を掛けた。


「別におかしくなんかないよ。木下の気持ち、なんだか分かる気がする」


 叶わぬ恋にしがみつく木下の姿が、何故だか自分と重なって見えた。

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